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「多数派」の考えは最大幸福をもたらすか?

人間集団内の合意形成や方針決定では、対立意見があった場合 1.賛否両論の主張をする 2.合意点・一致点が制限時間内に得られない 3.多数決による「決」をとる 4.少数派もその「決」に従う という手続きが一般的だと思われます。 この場合「多数派工作」をした側が、自分たちの主張が通るわけですから現実社会では有利になり、決定後の新ルール(制度)の恩恵を受けることになります。 1.その「最大多数」の選ぶ「決」は常に(または大抵)「最大幸福」をもたらしているのでしょうか? 2.その原理は人間の持っている最善の「策」なのでしょうか?

みんなの回答

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.9

多数決は必ずしも最善ではないというのは、既に明らかになっています。 この点について、例えば、投票のパラドクスや、アローの不可能性定理を参照してください。簡単にいえば、上位○の選択肢にしか投票できないというシステムそのものが問題なのです。 横レスですが、 > これについては普通「決選投票」という手段を用いますから「一般論」の論拠とするのは無理があるのではないでしょうか。 決選投票の対象となる選択肢の中に、「最大幸福」の選択肢が残るとは限りません。したがって、決選投票の有無はそれほど影響を与えません。 また、決選投票自体がそれほど行われるわけでもありません。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。 >投票のパラドクスや、アローの不可能性定理を参照してください おお、ありがたい示唆です。 >決選投票の対象となる選択肢の中に、「最大幸福」の選択肢が残るとは限りません それが「最大幸福」でないと決めるのは「誰」なのでしょうか? >決選投票自体がそれほど行われるわけでもありません。 そうなんですか?まあ、「決定方法の採択」に依存しますからね。

  • pupurpu
  • ベストアンサー率15% (29/192)
回答No.8

「多数派」の考えは最大幸福をもたらすか? 絶対の答えがあれば、それをやればいいと思いますが、 今のところ、集団の意見から1つの決断を決めるのは、多数決のやり方ということでしょう。  しかし、絶対の幸福ということではなく、「意思決定」というところまでです。  多数決で戦争にもなりますし、多数決で平和もできます。 ですから、集団の意識レベルで結論は変わってくるでしょう。  ですから、集団では、平均した意見が多数ということでしょう。  ですから多数決で平均の意見を選ぶということでしょう。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。 >集団では、平均した意見が多数ということでしょう。 多数決で平均の意見を選ぶということでしょう。 「平均の意見」は実態が見えないのが怖いですね。極端な話し、100人がテストを受けて平均点が50点とします。実際に50点を取っている人がいない場合、この50点は「統計的数字」ということになり、数字の解釈が問題になってきます。 「平均の意見を選ぶ」のは常に危険が付きまとうのかもしれません。

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.7

 考えたことを、忘れないように勢いのまま打ち込むので、誤字が多い。  それは良くの強さから生じた結果であろうから、 ⇒それは欲の強さから生じた結果であろうから、  無欲な人間が行きにくくなる社会になる ⇒無欲な人間が生きにくくなる社会になる 1.魚でも、動物でも下等生物ほど多く子供を産むことを考えると、たちの悪い人間ほど増えるとすれば、それらの「最大幸福」を考えること自体がどうなのか? 2.原理 とは ―事象、活動、運動などを成り立たせるもっとも基本的な法則のこと―  ということでよろしいですか?だとすれば、最大多数の最大幸福は、原理と呼べるのでしょうか?

never-ness
質問者

お礼

再度の回答をありがとうございます。 >たちの悪い人間ほど増えるとすれば、それらの「最大幸福」を考えること自体がどうなのか? 性質が悪くても一人一人が基本的人権を尊重された「個人」ですからね。そもそも「多数決原理」はそういった「性質の悪い人間の増加」を想定していないでしょうね。 >原理と呼べるのでしょうか? ここでは「多数決」を「意志の統合」とみなす「決定原理」として使用しています。「最大多数の最大幸福」は原理とは呼べませんね。

  • naoagu
  • ベストアンサー率21% (25/116)
回答No.6

1: 選ばれた最大多数の事象の質によってだと思います。 多くの人が、自分大の意向や考えでなく、問題全体を総体的・客観的に考えた上で、その問題が良い方向に導かれるか、問題の根を摘むことが出来るかなど、大きく広い視野での捉え方をした答えであるかに左右されるのだと思います。自己否定はなくても、多数派の一人一人が、自己の満たされる意見云々でない、抑制を効かせて全体が幸せになれるかどうかを基に支持したなら、その決は、多くの人の理解あるものになると思います。 2: 最善の策とは、言い難いと思います。 個人個人の価値観が違う上に、普通という基準さえ曖昧だからです。 常識と言う最低ラインの物事を受け入れるのは、社会生活での必然ですが、人として生きる以上は、思想・目的・表現などに主観を持ち、自由でいて然るべきだと思います。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。 >選ばれた最大多数の事象の質によってだと思います。 多分お示しの内容を「理想」とする背景があるのでしょう。 >最善の策とは、言い難いと思います。 そうでしょうね。自分の意見が受け入れられなかった人からすれば「最善」でないのは当たり前。しかし、それに勝る「決定原理」がない以上、やむなく従っているのが現状、ということですね。

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.5

 一般に、欲の強い人、野心の強い人ほど、他者に強く働きかけると思います。反対に、無欲で、満たされている人ほど自分ひとりで満足しているので、他者に働きかけない。  もしそうだとすると、強く希望したり、強く望んだが故に実現したことがあるとすれば、それは良くの強さから生じた結果であろうから、ますます貪欲な人間が得をし、無欲な人間が行きにくくなる社会になる と言うことも出来ますね。  しかし、一揆のような本当に民間レベル、底のレベルから沸き上がる 動きであれば、最大幸福をもたらすのではないか。  例えば、群れている魚がいっせいに 向きを変える映像をテレビなどでも見ますが、そのように、全体の意思が反映されるなら、全体としての種の保存、存続においては間違った方向に行かないだろうと思う。  これを人間社会にも実現させるには、ネットワークシステムをどのように有効に活用するか。これしかないだろうと思われますが。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。 >ますます貪欲な人間が得をし、無欲な人間が行きにくくなる社会になる ここから「社会的矛盾や問題」が多く発生するのでしょうね。 >民間レベル、底のレベルから沸き上がる 動きであれば、最大幸福をもたらすのではないか。 ここの「見極め」が難しいでしょうね。 一揆といえば、学生のころのイメージは、苛斂誅求の支配階級に対する被支配階級たる農民他が「命をかけて」蜂起するというものでしたが、実は農民の方も「命をかけるまでもない」ということで結果を見越した賢い動きをしていたと最近知って感心しました。 >ネットワークシステムをどのように有効に活用するか 「多数決原理」に勝るシステムがあるのでしょうか。

  • MekMeki
  • ベストアンサー率33% (35/104)
回答No.4

>人間集団内の合意形成や方針決定では、対立意見があった場合 つまり人々の日常的な意思を決定する状況で考えればいいんですよね。そのような時ってほとんどが、自民か民主か。とか、死刑廃止か継続か。のように竹を縦に割ったような「AかBか」ではなくて、例えば 夏休み仲間達と海か山に遊びに行こうと計画。海派2、山派2、どちらでもない派が4いたとします。 どちらでもない人は、みんなどちらかといえば山派。理由は泳ぎたくないし水着になるのも嫌だから。でも山は虫がいるからそんなに行きたくもない。という場合、海派はそれなら泳がなくても楽しめるようにバーベキューもしようとか、海の時間を減らして市内巡りをしようといったように、みんながより望む意見に変えていくことができます。 多数決がもたらしているのは最大幸福ではなく、最多幸福(?)。多数の人が利益を得られることです。そのためにみんなで薄く広く利益を分け合うというのが本質でしょう。 最大幸福を得たいなら、最小であるべきだと思います。 「僕はあれもしたい。これもしたい。そのあとこうして欲しい。それが僕の最大幸福だ」などといってもほとんどの人が賛同してくれないはずです。 賛同を得るためには望むことを絞っていかなくてはなりません。多数の賛同を得るためにはもっと絞っていかなくてはなりません。最大幸福を得たいなら、突き詰めれば独裁であるべきです。 人によっては多数派にいるということが最大幸福と感じているような人もいる気がしますので、そういう人たちは例外ですが。 というわけで、多くの人が薄く広く利益を得られるという意味ではいい策だと思います。多数派の中核が一方的に利益を得られないように、賛同するかわりに条件をつけて釘を刺すことだってできます。独裁では無理なことです。 ただ、歴史を振り返ればいくらでも例があるとおり、多数派は間違わないということもありません。これよりいい方法が私には見当たらないので、そういった意味では最善かもしれませんが、とても最高とは言えない。といったところではないでしょうか。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりスミマセン。 >これよりいい方法が私には見当たらないので、そういった意味では最善かもしれませんが、とても最高とは言えない。 おそらく最多の方々に支持される意見でしょうね。 >みんなで薄く広く利益を分け合う これが「多数決」が採られている背景ですね。

  • sono0315
  • ベストアンサー率48% (85/177)
回答No.3

No.1ですが 決選投票だろうが最多票が勝つルールだろうが同じです。 決選投票で最終的に過半数などの規定以上で可決されたとしても それは初めに他のところを支持していたが、決選投票 だからしかたなく選んだという妥協があります。 必ずあると私は思ってます。 そもそも1回で過半数が決まるならわざわざ決選投票なんか必要ないですし、1回で決まるならば"幸福である人数が必ず多数派"となるといっていいと思います。 しかし妥協させてでも1つに案をまとめるというその 「決選投票」というシステム自体が "幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"こと だと思うのですがどうでしょう? 2つめの >一回「決」をとれば「その時点では最大幸福」であるということですから 確かにそれはもっともです。しかし 私は決があった現在においての幸福や最善かではなく、その後の 未来においてその決が最善だったんだろうかと振り返るのが自然 だと考えています。 5人いて帰り道に 右の道と左の道どっちか決めて 右に多数決されて進んだとき、車が突進して5人死亡 これは最善だったのでしょうか? 未来にこういう結果が起きると左にしとけば って思いますよね? 選んだとき多数だからその時幸福で最善というのはちょっと 短絡的だと思うのですが。

never-ness
質問者

お礼

再びの回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。 >決選投票だからしかたなく選んだという妥協があります。 そうですね。この「仕方なく」というのがポイントですね。 >しかし妥協させてでも1つに案をまとめるというその 「決選投票」というシステム自体が "幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"こと だと思うのですがどうでしょう? その可能性は大きいと思います。 >選んだとき多数だからその時幸福で最善というのはちょっと 短絡的だと思うのですが。 「決定時」と「その結果」を絡めるとおっしゃる通りでしょうね。 ただ、ネガティヴな例示では「そうなる」のは当たり前のような気がします。

  • publicpen
  • ベストアンサー率37% (991/2627)
回答No.2

これは哲学的に答えろってことですか? 般的に?倫理的に? 僕はもたらさないと思う。 つまり歴史的に見て多数派は常に被支配層であった。 つまり彼らは常に体制の変換を求めている。 善を求めているのではなく自身の利益を求めている。 単純なので外国勢力などにとっての駒にもなりやすい。 原理が善かどうかは場合による。少なくとも個々にとっては 善であったり悪であったりするだろう。 おして同じような方法論でも賞賛や非難は結果による。 結果はさまざまな要因によるから 「最大多数の最大幸福はどちらかに常にかたむく」こともない。 歴史上、チャーチルは勝ったが、風向きによってはヒトラーが勝っていた、と言うこと。 多数決は一種の妥協案であると思います。 株式会社でも発言権は株数によるので↑にはよらない。 また非株式会社、またはグーグル方式に見られるように独裁的 企業でも成功してる場合もある。 アメリカ下院や中南米選挙に見られるように純粋なケインズ主義は かなり偏った政策立案を産むと言う弊害を生みやすい。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。また「お礼」が遅くなりました。 >多数決は一種の妥協案であると思います。 他に見つからないから、ですね。 >株式会社でも発言権は株数によるので↑にはよらない。 「株主総会」のことでしょうか。「株主総会」は普通会社のシナリオにそって進みますから「多数決原理」の例としては適切さを欠くのでは? >純粋なケインズ主義 これは少し勉強してみます。参考にします。

  • sono0315
  • ベストアンサー率48% (85/177)
回答No.1

ここに12人います そのうち5人はAがよいと言う また別な4人はBがよいと言う 残りの3人はCが良いという 多数決しました 5:4:3 Aを初めから推していた人は5人、それ以外は7人。 最終的な結果だけ見ると、Aを望まなかった7人のほうが 多くなってしまっている。このようにアンチAである'多数派'が 負けることが現実に起こりえます。 ----------------------------------------------------------- 1.最大幸福という点ではこのケースは一応もたらしている  と言えるかもしれない。ただ重要なのはこのケースの様に  "幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"ことである 2.最善策かどうかについて。   ・人数多いとこ勝ったから仕方なくこれにしよう。しかたなく  それを最善の策としましょうと考える。こうすればそれは  最善の策だったと言っていいでしょう ・A勝ったけど、BもCもやっていこう。そうすればAだけやるより  最大幸福をもたらすだろう。と考えるなら多数派の意見に従う  というのが最善策とは言えなくなるかもしれません。 これは場面ごとの使われ方次第です。つまり臨機応変にルールを 変えていく(多数派だけ勝利というルール)ことが最大幸福だと 思います 総括すると1はもたらしていない、2は最善でないと私は思います  

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >最終的な結果だけ見ると、Aを望まなかった7人のほうが 多くなってしまっている。このようにアンチAである'多数派'が 負けることが現実に起こりえます。 これについては普通「決選投票」という手段を用いますから「一般論」の論拠とするのは無理があるのではないでしょうか。 ですから「決選投票」では >"幸福である人数が必ずしも多数派とは限らない"ことである は「言えない」ということになりませんか。 >臨機応変にルールを変えていく(多数派だけ勝利というルール)ことが最大幸福だと思います つまり静的でなく動的な運用が「最大幸福」であるということですね。しかし、一回「決」をとれば「その時点では最大幸福」であるということですから >2は最善でない の論拠も崩れることになりませんか。

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