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なぜ私は神に愛されるのか

kigurumiの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.32

kigurumiです。 ああ、投降エラー。。。Orz えっとですね。。。ちょっと投降エラーで脱力しましたが、めげずにもう一度。 まず私はアンチキリスト教です。 確か家に聖書はあったと思います。 おかんの出た大学がそっち系だったからじゃないかと。 で、読書好きな私はなんでも読んだので、それも読んだが「何語?」ってくらいチンプンカンプンだった。 大人になれば読めるようになるかと思ったが、やっぱり聖書の言葉は意味不明。 でも キリスト教って博愛で自愛に満ちた集団だって認識だった。 ところが、情報を得るほどに、とんでも偽善団体だとわかりだした。 マザーテレサの話が出ているのでちょっと。 彼女は教会の外に貧しい人々がいながら教会の人々は見向きもしていないことに疑問を持ち、イエスの愛を実践したくて、教会を出ると行った。 教会の人は「出てもいいが、一切援助はしないがそれでもいいのなら」と言った。 彼女は教会を出て、今まで教会が無視してきた人々の中に入ったわけです。 彼女の行動に賛同した人が彼女を援助。 だんだん彼女の名前が有名になると、キリスト教は彼女の実績をまるで自分たちの実績であるかのように吹聴しだした。 どこまでも自己中心的で強欲なやつらなんですね。 テレサはセックススキャンダルにまみれたダイアナに利用されたし、他のいろいろなことでスキャンルで名誉を失った人々の名誉回復のために道具として利用された。 キリスト教会だけじゃあないですね。 自らで汚した名誉をテレサを使って回復したわけです。 彼女に援助する人ってことで、たちまち評価がよくなりましたから。 さて彼女は日本に対してこんなことを言っている。 http://www.cbcj.catholic.jp/mother/shirayanagi.htm 『町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に 無関心です。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊か な人たちです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人 たちです。愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」 』 <愛の反対は無関心> 無関心、恐ろしいものです。 イエス作家の言葉にこんなのがある。 http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/spiritually_poor.html わかるようでわからないですよね。 子供時代読んでわからない文章で大人になってもわからなかった文章。 特に <義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。> まるでキリスト教を布教して殺されると天国にいけるかのようなニュアンス。 実際、キリスト教を布教して迫害されると天国にいけると思った人続出で、故意に過激な布教をしまくって、社会不穏を起こして、ネロに弾圧され殺されようとしたキリスト教徒続出した。 この文章を聖職者はどう説明するのでしょう。 「正義を貫いたものにはご褒美があるんですよ」って言う聖職者がほとんどじゃないかと。 それか「聖書を読むうちわかるから、聖書をわかるまで読みなさい」 聖書を何億回読もうと、ヘブライ語の慣用句がわかることは無い。 ヘブライ語に戻すと、「神の義を希求するものは幸いである。天の国は、彼によって構成される。」 迫害じゃなく 追い求める。 誤訳したため、自殺行為者続出。 不幸な人々がいることを認識しながら助けなかった律法学者。 かたや無視せず神の義を実践したイエス。 神の義を希求するものによって、天の国は構成される。 そのような神の義を実践するものたちが地上にあふれたら、天の国は地上に降りてくる(天の国が地上で実現する)。 ってのがこの文章の言わんとすることです。 さて、律法学者とイエス作家の対決。  律法学者は律法の研究をする人。やはりレビ人だったと思えます。 イエス作家もあれだけ旧約の隅々まで詳しかったので、聖職者の中でも上位の人だったと思えます。 イエス作家はこんなことで神の愛の概念を表現している。 安息日にイエスを今でいうならニート者の下におとづれさせ、自分に神から課せられた義務・任務を遂行せよとハッパをかけた。 恐らくこの足のなえた人も聖職者だったのでしょう。 それに対して律法学者は安息日に仕事をしたとしてイエスを律法破りと批判している。 <文字は人を殺す> パウロの言葉だったと思います。 文字とは律法のことで、律法が人を殺す つまり神の言葉が人を殺しているってわけです。 だからパウロは神の言葉である律法のほとんどを否定した。 イエスは盲目の人を目が見えるようにしたというエピソードがある。 これまたヘブライ語の慣用句を知らないと誤解する。 日本語にも価値がわかる人を目利きといい、わからない人をめくらと言っていたが、ヘブライ語もそう。 肉体的に視力を失った人に視力を与えたというのではなく、智恵を与えて分別がつく人にしたってエピソード。 さて、律法を優先するか神の愛を優先するか。 聖書はこんなことも言っている。 神に祈りを捧げる時間でも、隣人に害を与えてしまったら、まず隣人のもとにいって説明して許してもらいなさい と。 隣人愛が神への愛より優先だって言っているわけです。 神はその方を喜ばれると言っているわけです。 さて、盲目に戻って。 マザーテレサは盲目ではなかったので、教会の外に恵まれない人が見えていたが、教会の聖職者は見えていたが無視した。 盲目のふりをしたから性質悪いですね。 もし 心があれば、それに気づいたら痛いですよね。 心が無ければ見えない。 心が痛くない。行動に起こさない。 それは宗教信者じゃなくても 一人の人間として 心がある人間であれば、誰だって痛いと感じるはず。 人間だけじゃない 他の動物だって共感能力があり、我がことのように感じて行動を起こす。 実際 恵まれない人がいること自体認識しながら、自分の幸福に酔いしれているのは、彼らの存在を無視しているからできるんですよね。 愛の反対語は無視。 もし、愛の神様 善の神様がいるのなら、無視をするあなたを決して愛しなどしないんじゃありません? まるでテレサがいた教会の聖職者とあなたは同じじゃないですか。 <偽善> 例えば私がよかれと思って寄付をしたとする。 ところがそれが殺人集団の資金源になって多くの人が死ぬことになったら、私の善だとしてやったとしても善じゃなくなるじゃないですか。 これを偽善と言う。 で、私は能力の一部をもって誰かを助けて「ありがとう」と言われたら、「とんでもない 私の方こそありがとう」と頭を下げるようにしています。 私の行為が偽善にならないようにという願いがあるから。 私は完全じゃないので、すごい目利きではない。 ともすればよかれと思ったことでも、結果悪いことになったりもする可能性があると思っている。 全てお見通しの能力を持たない私はよかれと思って行使したとき、どうか私の行為が偽善に転じませんようにと思う。 それでも偽善になることもある。 一番すごかったのが、人を助けようとして、思いっきり顔をグーで殴られたことかな? 足で蹴られてぶっとんで、噛み付かれた。 とっさの判断で、本人の承諾なしに助けようとしたため「余計なことするな」ってことで暴行を受けたわけで、相手が冷静に戻ってくれた後、グルグル包帯まきの私の腕と腫れ上がった顔をじっとみて、言葉を失ってましたっけ。 自分がやったとは思えないって。 まあ いいですよ。命助かったからよかったじゃん。生きていればいいことあるさ。 あの人あれからどうしたのでしょうね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、kigurumiさんの気持ちは分かります。 ただ、kigurumiさんは私もマザーテレサも客観的にしか理解していないように思います。 (別に自分とマザーテレサが同列と言ってるわけじゃないんですが) なぜなら、マザーテレサは協会批判はしてないでしょう? 私だって弱者を無視しましょうとは言っていません。 マザーテレサが他者を批判していたなら大した功績は残せなかったのではないでしょうか。 マザーテレサはマザーテレサなりに、私は私なりに弱者を救うのです。それは協会も同じでしょう。

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