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輪廻転生説は 愚の骨頂

maggaの回答

  • magga
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回答No.8

bragelonneさま。 真実は知りませんが思ったところを書いてみますね。 輪廻転生も宗教によってだいぶ意味も内容も違いますし、因果応報・業についても宗教によってまったく意味合いが違いますね。 僕の理解する論は「業」は「意思」で、 現象は多因多果で「業」ひと括りでかいせつできるとはなってないですね。 現象に対し、どのように感じるか、どうしようとするかの幅が決まってしまうことを「業」の果というのだと理解してます。 そして死後が無いなら、「結果が出ない」ということになっていかなる道徳も崩れ落ちると。前世が無いなら「原因が無い」となって「原因なき偶然発生する」ことになり「因果関係」が否定されいかなる道徳も崩れると。 やり直しはきかない。今は今しかない。 二度と同じ現象は無いのだから。 生まれ変わることを念頭に置くなら、今やれるだけの善をなすことをしておくのが 筋というものである。 怠け・悪行為をなすならその業をもって悪果を受けるのだから。 安易な逃げ・怠けの考え方としていかなる言葉を持っても 持った途端に 精進と能力が 減退する。それゆえに 精神をめぐる病いがやむことが無い。 このように感じます。 何か参考になれば幸いです。 幸福であれノシ

bragelonne
質問者

お礼

 《絶対》について 《有説・無説・無記説》の三つがあるという自説を唱え続けることになっても 仕方がないので この点にかんしても あらかじめ 補います。  有とも無とも想定せず 考えない・議論せずという立ち場は 成り立ちません。  なぜならば 有限や相対を超えたところというのは 全体として ひとつしか あり得ないからです。また それを 想定しないというのは 無限や絶対という言葉を使わないということを意味します。したがって その社会性という観点から 成り立ちません。   ほかの人が使っているとき つまり 絶対や無限を 数学や哲学において使っているとき その言葉を たとえやむを得ず あなたが使ったという場合にも もし我れ関せずというのであれば 人びとから では あなたは どういう意味で いま 使ったのですか? と訊かれるでしょう。どうしても 答えなければなりません。  ですから もし仮りに 第三の無記の立ち場を認めたとしても その立ち場と 一般の有か無かのいづれか一つの立ち場に立って 数学や哲学においては 使わなければならないでしょう。  というよりも前に ただ一つの絶対という領域に対して 有か無かの立ち場を選択する場合と 我れ関せずという立ち場の選択とは 次元が違います。知らない・考えないという態度は 無説を選択したあとに もうどうでもよいと見なして採るそういう次元の態度です。次元あるいは想定にかんする手続きの段階が違います。  涅槃が 絶対を基にしたその代理表現であるとすれば 誰もが そういう扱いをします。じゃあ 無説(無神論)なのですね?と確認します。 そうではなく 涅槃が ただの経験概念を想像において捉えたもの(つまり 憶測)だとすれば もう どうでもよい / 関心のある人だけが 追究したりすればよいという扱いになります。  (それでも 無という絶対を 一たん 掲げたあとのことだなという理解を 一般は しますが)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

  ☆☆ 【Q:ブッダは 神ですか】(No.36補足欄&お礼欄) ~~~~~~      http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4199231.html  maggaさん ご回答をありがとうございます。  いつまた逃げを打つのか分かりませんが 応答の礼儀を尽くします。  Sumanasaraさんが 「神々について」の質問に答えたものが 文章にて読めます。《日本テーラワーダ仏教協会》公式サイトの中の ​http://www.j-theravada.net/qa/qahp31.html  ​(2002.1月)です。  引用が 片寄ってはいけませんが 全部は 引けません。上のURLにて 全文を参照願います。  いわく  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。  すべて因果法則の結果なので生命に上下はありますが中心的になって支配するものはありえないのです。だから、わざわざ「神がいない、神がいない」と余計な大騒ぎもしないのです。(お釈迦様は)(私は別ですが)    Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。  因縁によって現れるものだから「絶対的」となるものはないということです。因縁、条件などか変わるとその存在もかわってしまうのです。    仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。人間どもが信じている「あやふやな神」にケチをつけようとする「こどもの喧嘩」ではなく、「絶対的、永遠不滅実体としての存在」(eternal existance, eternal substance, permanent soul)というものは「成り立たない、逆である」と具体的に説明していくのです。この論理の結論として「神」がいなくなるのではないのです。それは副結論なのです。結論は「すべての現象は無常である」ということです。考える前にこの立場を理解しておきましょう。    絶対的な実体としての「我」(神も含む)だけではなく我々個人にも「我」がないといっているのです。永遠不滅の何か自分にないことぐらい調べれば簡単にわかるものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (意味の取りにくい箇所がありますが そのままです)。いくつか 論点として 取り上げるべき内容がありますが 一点に絞りましょう。  ▲ 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。  ▲ Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。  ▲  仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。  ☆ もちろん この Sumanasara さんと magga さんとは 人格が別です。いま対話をしているのは magga さんとです。ですが その magga さんに このような見解とご自分のそれとの違いについて 明らかにしてくださいと頼んでも よろしいのではないでしょうか。  つまり 上の見解は 明らかに magga さんのご見解としての  ★ 僕には〔有説・無説・無記説の〕三つがあるように感じるのです。そもそも「虚構の想定」は制限の無い〔ものであり〕論拠も論理も何も求めないものと思っていますので。虚構の設定についての人の取る態度はこの三つかなと。触れない・思考すらしない人もいるだろうなと。  ☆ とは異なっているようですから。Sumanasaraさんのほうは 《絶対は無い》というふうに 触れていますね。つまり 無説であるようですから。  そのほか 無限の概念をきちんと把握すること あるいは 涅槃をどう規定しているのか――つまり 絶対の概念との関係で どうなのか―― この二点は まだ 大きな課題でしょう。けれども すでに ほかの回答者の方々も それらに応答するわたしも その文章に すでに触れていますので もう省きます。  無回答となっても 驚きません。回答があって 逃げを打っても やはり驚きませんが しかも もう相手にしません。すでに 同じことの繰り返しになっています。これは 水かけ論ではなく すでに こちらが言ったことを 忘れている あるいは 曲げて解釈し続けているというやり取りになっているからです。もちろん それを 善意(つまり 知らないで そうしている)とは思っていません。  この辺にしときます。と質問者が言えたら いいのに。(冗談ですよ)。

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