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命より大切なものはあるか

昔から「命あっての物種」といいます。また「人命は地球より重い」などといいます。  しかし特攻隊員は国のために、愛する者を守るために、海の藻屑と消えました。またわが国では年間3万人以上が自ら死を選びます。その一方で尊厳死も認められません。  何度か死のうと思ったことがありますが、死ぬ勇気さえありませんでした。しかし決死の救助活動を見ると胸が震えます。  何かに命懸けで取り組む人がいます。彼らは「ここで死ねたら本望」と口にします。私には命を懸けるものがありません。  果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?

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noname#88701
noname#88701
回答No.41

bird48です。 2度目の補足へのお答えをします。 >何故にそこまで命の尊さを大切になさるのですか? そうですね 別に理由は無いのです 理由という理由は無いのです 私が歳だからでしょう 歳だから感じるまでのことです。 今年はすでに告別式に10回ほど参列しました ほとんどが年配の方ばかりでしたが、それでも寂しく感じるものです つい最近では、身内同様の人がお風呂の中で急に亡くなり、私も手伝ってお風呂から出してあげた事もありました。 その時には むごいとか、汚いとか、そんなどころではありませんでした もうすでに息をしていなかったのですが、早く救急車を呼んで病院につれていくだけで夢中でした 翌々日には日取りの関係で早々とお葬式にもなり、火葬や埋葬も済ませたのですが 終わってみると、なんとあっけない感じもし、寂しくもありました あっという間に一人の人生が終わってしまったのです 87才でしたので、年に不足はなかったのですが やはり、いた人が急にいなくなるというのは、何とも寂しく空しくも感じるものです。 また、すこし暗い話になってしまいますが 一年前には同級生の友人が自殺をしてしまい、大変な騒ぎになったことがありました 亡骸を同級生で運んで、自宅に迎えて安置したとき 枕元で私は思わず、馬鹿野郎と言ってしまいました 寂しい馬鹿野郎です 不思議にそのとき、薄目が開いたのを覚えています (すこしだけ帰ってきたのかもしれませんね) 皆な何とも言いようのない暗い気持ちでいっぱいでした。 幾度も、人の死に目に立ち会ってきたせいなのか こうして生きている事が不思議で貴重な感じがします 普段は何気なく聞いている人の声も、重く感じられるときがあります (この声もいつかは聞こえなくなってしまのか、とふと思ったり) 死という暗い厳しさの前に 生きている事が明るく大切なもののように思えます 私も若いときには、死にたいと思ったことが何度かありました でも歳をとって、この頃は死というものをかなり実感してきたせいでしょうか 生きている今の時間を大切にしたいと思うのです 大切にしなければいけないような感じもします。 前回の答えはだいぶ気張ったものになってしまいました 少し背伸びしたかな、とも思います でもやはり、こだわりでも何でもなく 命が大切だと思うのは、私にとって人生の自然な結論です 命がある時間ですか その時間をこの頃は感じます 重く明るく感じます。

pokoperopo
質問者

お礼

「死を思え」との言葉を思い出します。身に滲みて命の大切さを実感しておられるのですね。お話を教訓にいたします。何度もお答えいただきありがとうございました。

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その他の回答 (61)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.52

#50 >空っぽの空間を共有するとはどういう意味ですか? 単なるイメージですので。 空っぽの空間が「私」の本体。 世界中の「私」の本体は同じもの。

pokoperopo
質問者

お礼

シフトさんはいつも端的でクールに、しかも深いお話をされますね。ムーミン谷のスナフキンのようで、ぽこぺろぽは仰ぎ見てしまいます。ありがとうございました。

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回答No.51

No.24&29&34&37です。 ・・・何か、よこしまな事考えていませんか?誰かさん見たく回答数100越えとか・・・・・・・。失礼。 >つまりバッタの大群に農地を食い荒らされて、生活の糧を失ってもかまわない。ご自身は運命に身を委ねて生命を破壊しないとおっしゃるわけですね? 別にそう言う風に考えている訳ではなく、そうなった時に、失ったものと得たものが何なのか知りたいのです。 生命の破壊については、単純にそれだけの事に関して言えばただの現象でしかないと思っているからです。 それによって何がどうなるか、善悪どうなのかとかは、また別の問題と言う考え方をしているからです。 そして、それがあるものをある様に見ると言う事だと思うからです。(ある意味) なので、私にとって「命」とは、在る形の一つであり、大切かどうかは別の問題と言えます。 こんな、書き方すると心がないように思われるかも痴れませんが、あくまでも思考上の話なので、私とと言う人間は心がない訳ではありません。ヨロシコ。

pokoperopo
質問者

お礼

皆さんからたくさんの回答をお寄せいただいたことは有り難く思います。しかし百回答越えなどという不遜な野望は抱いておりません。第一、当のマイマイサスさんが大台越えに最も貢献なさっているではありませんか。端から見るとちょっぴり苦戦なさっているようですが。私のマイマイサスさんの印象は「いい人」です。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

つまりマイマイサスさんは、バッタの襲来の顛末を他人事のように見極められるほどに、おそろしく無欲な方と受け取っていいのでしょうか?よろしくお答え願います。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.50

#49 >「私」とは私だけのものなのでしょうか?私はあなたの「私」をどう扱えばよいのでしょうか? 「私」という窓が人の数だけ付いている大きな部屋があり、 普通とは逆に部屋の外から中を見ている。 部屋の中には世界がある。 窓(私)からは世界を通して別の窓(他人)が見える。 部屋の外は空っぽ。 互いの窓は空っぽの空間を共有している。 空っぽの空間を通して私とあなたはつながっている。 そんなイメージでしょうかね。

pokoperopo
質問者

お礼

てっきり逆で、部屋の中から「私」という窓を通して、他人の「私」を見つめていると思っていました。その窓を透かして見なければ、部屋の外という宇宙は見えないとも思っていました。私に自他に対するイメージの錯綜があったのでしょう。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

空っぽの空間を共有するとはどういう意味ですか?よろしければお教え願います。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.49

#48 >「私」とは何なのでしょうか? 私には「私」を名乗るものということだけしか分かりません。 >果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか? もちろん「私」ですね。

pokoperopo
質問者

お礼

「私」とは命を超越したものなのですね。時に永遠に思いを馳せます。「私」はいつ生まれたのでしょうか。おかげさまでまたひとつ課題ができました。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

「私」とは私だけのものなのでしょうか?私はあなたの「私」をどう扱えばよいのでしょうか?よろしければお答え願います。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.48

私の体は私の所有物であり、結果的にその命も私の管理化にはおかれていますが、管理者は私というだけのことで、私=命とはならないのではないでしょうか。 自殺者は自分の体を殺すことは出来るかも知れませんが、「私」という自分を殺すことはできません。 命は大切かもしれません。しかしそれは「私」とは関係のない話だと思います。 大切かどうかは価値という物差しによって計られますが、命に価値が「ある」、或いは「ない」はある意味「私」には関係のないことではないでしょうか。

pokoperopo
質問者

お礼

私にある肉体は永遠から見たら瞬きほどの時間も持たないのでしょうね。ご回答いただきありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

「私」とは何なのでしょうか?詳しくお教え願います。

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noname#155689
noname#155689
回答No.47

> 「当り前」とは何のことですか? 曖昧な言い方ですんませんです。 あくまで予感なんですが 死の直前に「そういうことか」と悟ることは 案外、何でもないような当り前のことじゃないか、ということで その当り前の中身は今は見えてないです。 日常でもないですか? 気づいてみたら、当り前だった、みたいなこと。 何でもないようなことの意味に気づいてトキメクようなこと。

pokoperopo
質問者

お礼

私にもふとした瞬間に悩みがバカバカしく思えることがあります。しかししばらく経つと悩みに取り憑かれる自分がいます。この落差は何なのでしょうね。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

考えてみれば何気ない気づきは日常的にありますね。それではどんな時に気づきがあるのでしょうか?また気づきの教訓は日々の暮らしに活かされているのでしょうか?よろしければお答え願います。

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noname#155689
noname#155689
回答No.46

お返事ありがとうございます。 でも、難しいご質問を頂戴してしまいました。 > 死の直前に知れば間に合うのでしょうか? これに答えられたら、私はもはや「死んでも構わない」状態です。 ただ、何となく予感としては 死の直前に「そういうことか」と悟るのではないかと思います。 多分、当り前のことを悟って納得して死んでいくように思います。 ドラマティックな悟りを得たいなら もう少し生き方をドラマティックに切り替えないと、とも思います。 でも、まあ、今は「当り前」のことが分かれば十分かな、と。

pokoperopo
質問者

お礼

そうなんですよ。私の人生にはドラマチックな要素があまりにも欠けているのです。たとえ間違いにせよ、ドラマチックに人生を終えたいものです。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

「当り前」とは何のことですか?よろしければお答え願います。

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回答No.45

 No.42&39&31&22&9&6の bragelonne です。  ★ どういうわけかキリスト教は愚かであることを信者に強く求めます。  ☆ わたしも  ☆☆ 〔宣教を通じての 聖霊によるバプテスマにかんして〕 あたまの良さも 善行も 関係ないようです。  ☆ と書きました。ということは  ○ あたまが良い場合も 善行を積んでいる場合も そうでない場合も ともに同じく まったく問題なく 息を吹きかけられている。  ☆ と理解します。  これ以外に――聖霊もしくは真理を 受け容れて 《わたしが わたしであり わたしする》ということを―― 自覚するという契機は ないと思いますので そのことが   ★ パウロが 聖霊のバプテスマを 口やかましく言うのは なぜでしょうか?  ☆ のお答えになると考えます。無根拠ですから 証明などは いっさい ないと考えるのが ふつうだと思います。  証拠があるとか 証明し得たとか言うのは 神を表象しえたということになりますから その神は 経験的な想像ないし思考の産物だと言わざるを得ません。つまり 神ではないはづです。  《神の背面を見る》というのは どういう事態か?  わづかに指の先で 触れられたように 一瞬 なにものかを感じるかに思ったという体験は あるのかも知れません。  理知的には 何が神でないかを どこまでも突き詰めていけば 単純ですが 厳密性を要求される作業でもあり その道において 背面を見るようになると思います。  あとは 背面が見えたなら いわゆる境地の問題になると思います。  ★ 聖霊のバプテスマは「永遠のいのち」と、どうつながるのかを牧師に尋ねてもイマイチ理解できませんでした。  ☆ 闇を突き破って差して来た光を受けたひとは――と言いますか 誰でも それを 受け容れれば それだけで よいのだと思いますが―― 泉の水が尽きないように 永遠のいのちが得られるというのは 将来すべきこととして 臨むのが ただしいと言われます。  肉(つまり 自然本性としての精神および身体)が この相対世界を超えたところの霊によって 包まれているなら そのなぞの無根拠は 無限であり 永遠ですから その《絶対》に触れていると考えられます。  永遠のいのちに すでに 十字架のしるしをとおして 足を突っ込んでいます。(変な表現になりましたが 残しておきます)。  ▲ (ガラテア書5:24) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリスト・イエスのものとなった人たちは 肉を 欲情や欲望もろとも 十字架につけてしまったのです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう部分も すでに 経験事態として あるのだと捉えます。このように 永遠なる世界に触れている状態で たとえば 百年の倍の二百年も 生きれば ほんとうに 永遠に生きたということになりませんか? そのくらい生きれば もう じゅうぶんでしょう。そのようにはなるのではないでしょうか?  ▲ こころのきよいひとは さいわいである。かみをみる。  ☆ これは どう解釈すればよいでしょう?  ★ 聖霊のバプテスマは「永遠のいのち」と、どうつながるのか  ☆ バプテスマにおいて 息を吹きかけられ よみがえった――わたしが わたしに還帰した――と同時に その息が 霊のことでしょうから すでに 《永遠》の領域に あたかも部分的に 入ったことになるのだと思います。  そのとき さらに同時に わたしたちも あたかもイエスと同じように 十字架上で はりつけに遭ったことになると言われているのだと思います。だから 《つながる》のだと思われます。  ですから すでに この経験世界にあって われわれは それぞれおのれが復活したという感覚を持ったのではないでしょうか。そのような うわさが ひとからも 聞かれるようになるのではないでしょうか。  その上で  ▲ あたらしい天とあたらしい地  ☆ が さらにどのように 起こるのか これは 分かりません。突然変異くらいしか 想像がつきません。  * ローマ教会を初め 宗教組織には 自己解体を 勧めていこうと思っております。わたしとのその接点は まだ 起こっておりません。その動きを起こしてもおりませんが このように 言い始めています。  * ただし 結社の自由という 根源的な自由とのかかわりの問題もあります。

pokoperopo
質問者

お礼

聖霊のバプテスマを授かった信者が異言を吐くのを何度となく目撃しています。取り憑かれているようにも見え、なんのこったかわかりません。しかし日本のキリスト教のご都合主義は凄まじく、信仰の貞操観念は皆無に等しいです。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

宗教は遠い未来に旧ソ連のような内部崩壊は起こり得ると思いますが、自己解体に乗り出すとは乗り出すとは到底思えません。彼らの自家撞着をいかに指摘すれば慌てふためくのでしょうか?

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回答No.44

>我が子のために命を投げ出す親の愛についてはいかがお考えですか? 我が子がために命懸けで自らの死を選択。命懸けと自殺は根は同じ。自らの生け贄、自らを屠殺。 我が子の悲しみは、如何ばかりか。 それが愛か、感謝へ転じ生き延びる者の傲慢と化すのか。 どっちにしても、我が子が生きれば、他の子が死ぬ。 世を儚んで自ら死を選ぶ。生け贄として、身を捧げること。 命懸けの表と裏。世への裏返しの深い愛情。 自らの世を捨てることは、他の世を生かすこと。 我々もそれに触れ、深く悲しみ歓喜する。 感性豊かで慈悲深く愛に溢れた傲慢で残酷な鬼畜である。

pokoperopo
質問者

お礼

言い切りますね。そういわれるとそうかもしれないと思ってしまいます。何度もお答えいただきありがとうございました。

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回答No.43

>はたして傲慢ではない命の懸け方はあるのでしょうか? それは、ありません。生け贄であり、屠殺です。傲慢の所以です。 途方もない痛みを知ります。 可愛がっていた豚をかわいそうかわいそうと号泣しながら、 でもおいしいおいしいとその味を堪能する。 それは、愛でしょうか、鬼でしょうか。 我が子は可愛い。我が子が生きれば、豚は死ぬ。 ここに命を懸けねばならない訳がある。豚を殺す訳がある。 そう、鬼畜の如き所業には愛がある。 当初のご質問に戻りましょう。 >果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか? この「訳」でありこの因となりました。

pokoperopo
質問者

お礼

命を奪うのもまた命のため、粗末にするものではない。信念により命を投げ出すことは傲慢であるとともに生命に対する冒涜であるといったところでしょうか。おっしゃるとおり人は思い込みでも死ねるものです。生きとし生きるもの、そのすべてを大切にしたいものです。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

我が子のために命を投げ出す親の愛についてはいかがお考えですか?よろしければお答え願います。

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  • どの死を支持するのか

    A)尊厳死;本人意思による延命治療の拒否      自然死ともいわれる      緩和ケアは行われる B)安楽死;第三者による延命治療の停止      家族による場合を含めるケースもあり      消極的安楽死ともいう      医師による薬物投与、致死もある      家族要請がほとんど      積極的安楽死という C)自殺幇助;      余命いくばくもないメイナードさんが      オレゴン州に移住し、命を絶ったことで      有名。      苦痛を伴わない死は、医師からの方法の      伝授による。 オレゴン州はABC全てあり。スイスのCは有名。 本人意思不明ななか、家族による延命中止(尊厳死、 自然死)は相当の国で法制化。 が日本では尊厳死さえ法制化されていない。   しかしながら、判例と医療倫理ルールのもと   尊厳死は行われている   がん末期患者には希望により、     「最終セデーション」   と言われる、二度と覚めることのない   処置が行われている    (医療界はこれは「緩和ケア」だとしている) これが実情です。 遷延性意識障害(いわゆる植物状態)での長期間の 大変な全介助の回避。 意識低下による老醜(ベッドの上で口を大きく開けた 虚ろな視線での生きながら)の回避。 これらは必要では? 皆さんはA、B、Cのどこまでを望み、また支持しますか?