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「有りて在る」

tumaritou1の回答

回答No.3

是に似たものは、仏教にもあります、無いものでも無くて、在るものでも無い、又、不生だから不滅と言う書き方です。人間の心は本人には判り難いものです、それは、分からないように出来ているからです。 人間が意識をしていると言う時間或いは、割合を調べたものが在ります、それによると「意識をしている」割合は起きている時間の5パーセント、残りの95パーセントは「無意識、或いは潜在意識」が占めていると言う事です。人間の心は巧妙に出来ていて意識から無意識の切り替わり、及び、無意識から意識に帰ると言う事を自覚出来ません。 アメリカのノーベル賞を取った博士にスペリーと言う人が居ます。あの当時はテンカン治療のために、左右の脳をつないでいる、脳梁を切断された人達がたくさんいました。その分離された脳の研究した事が評価されて受賞したのですが。 その成果に二つの事が在ります。 一つは左右の脳には違った機能が在る、左脳の出来る事は、右脳には出来ない。右脳の出来る事は左脳には出来ない。と言う事です。左脳に自我意識が在ります、その機能は計算すると言う機能です。又言葉を持っていると言う事です。言い方を替えたなら、割り切れる問題を担当していると言う事になります。他の言い方をするならば、割り切れる事とは有限に属していると言う事になります。もっと言うならば「永遠や無限」と言う事は理解出来ないと言う事になります。何故ならば。割り切れない事を永遠、或いは無限と言う事にしてあるからです。 従って左脳に在る自我意識には、永遠と言う事を理解出来る能力が備わっていないと言う事になります。 右脳の機能は自我意識の出来ない事が出来ると言う事になります。ですが言葉は持っていないようです。言葉のない世界を担当していると言う事になります、 研究成果の二つ目の事ですが、左脳に一つの人格が存在すると言う事です、是は自我意識を働かせています。右脳にも別の人格が存在する。そうして、その二つの人格は全く別な人格と言う事です。 この事を踏まえて人間の心を読み解くならば、心にまつわるものが宗教とも言えますので聖書から一つ拾ってみます。「天国に一番近い存在は幼子」と言う処が在ります。是は脳の機能が未だ未発達で、分別する能力が無い、と言う事かも知れません。心が未だ二つに分裂していないと言う事です。 それに対して、知恵のリンゴを食べたと言う意味は。脳の機能分化が完成に近くなった、と言う事になります。つまり二つの人格が別々に独立した、或いは、分裂したと言う事になります。この事が人間に二元論と言うものを生み出して、悩み、苦しみの種をまいている。と言う解釈が成り立ちます。思春期頃に脳の機能が完成に近くなります。この頃から人間には、悩みや苦しみが始まります、精神疾患が増え始める年代です。 二つになった心のどちらの方で問題を捉えるのかが、人間の悩み解消方法となります。命の問題、永遠性、感情、感動、仕事の感を掴む。是等は自我意識では歯が立ちません。不安が多くて何事もストレスにしやすい人、は自我意識で問題を解決しようとする人です。精神疾患に陥った人は自我意識に、能力オーバーな問題を抱えています。是は機能の関係です。解く事が出来ない方の脳で問題を分析して、解決しようとしています。この事から「精神疾患」はすっきりとした解決と言うものが無いように見えます。或いは手立てが無いように見えています。 この事の解決方法が禅問答に在ります。右脳の意識は無意識の中に居ます、この意識の事を、お釈迦様は「仏性」と名を付けました。キリスト教では「神」と名を付けました。宗教というものはこの自分の右脳に気が付きなさいと言う事を説いています。 禅問答は自我意識の機能では解く事が出来ないように工夫されています。禅問答が解けた時の事を「見性」と言います。自分の性を見たと言う事です。その時の感想は「今更お前は誰か?と聞く必要はない。真っ暗闇で自分の妻に会ったようだ、或いは見知らぬ他国でひょっくら親父に会った様だ。と表現しています。本当は毎日何十回も、何百回も会っています。 人間の苦しみは、分別で「意識」をしたために、仏性の意識を閉じ込めてしまう処に在ります。それは自我意識が意識をし続けていると言う意味になります。自我意識が意識をし続けている間中、仏性が閉じ込められている事になります。精神疾患などで、症状などを意識し続けていると言う意味です。その事で仏性は困っている自我意識を見ています。 自分が出てゆくなら、すぐにでも解決できるのに!と言うアピールが漠然とした、得体のしれない、不安と言う事が言えます。それは有限の自我意識が、永遠である仏性の助けを遮っている姿です。是が人間の苦しみです。是が心の矛盾の正体です。 禅問答が解けた時に自我意識は仏性と出会うと言う事になります。この事で自分を苦しめていたものが何であったかが分かります、又、仏性の永遠性に触れる事になります。それで、自我意識は肉体の生き死に、にはあまり興味が無くなります。是が生死の問題が解決したと言う事です。その事で不安の心が無くなります。心の矛盾の解消と言う事になります。 その、仏性や神が、「有りて在るもの」と言う事になります。お釈迦様の言葉で言うならば、一切衆生悉有仏性、と言う事です。右脳のない人は皆無と言えるからです。只分かり難いために「有りて在るもの」という表現が一番ぴったりと合っていると言う事かと思います。

pokoperopo
質問者

お礼

こういうご回答をお待ちしておりました。「有りて在る」をヘブライ語でどう発音するか、その名で呼びなさいとは、ユダヤの教えです。それを知ることは一神教を理解するうえで大切です。私が知りたいのは、神はモーセを通して、我々に何を語ったかです。おっしゃるとおり仏教にも通じるところがあるでしょう。釈尊の「天上天下唯我独尊」もまた、同じような意味を持つでしょう。ご指摘の左右脳の別とは、神性の理解と論理的理解を同時に可能とする神の賜物だと思います。あなたも私も「有りて在る」者かもしれません。モーセはただ神の名を聞いただけとは思えません。ご回答いただきありがとうございました。

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