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赤穂浪士討ち入りについて

astute_2wdの回答

回答No.4

>吉良側は事前に察知していた 吉良側が討ち入りを事前に察知して清水一学など手だれの用心棒を雇っていたというのは後世作られた物語などの脚色です。 3番の方が仰っている通り、討ち入り当日屋敷にいた者達は酔いつぶれていた上、 その面子も大名家と違い領地の治安維持の必要性が薄い高家という家柄もあって配下には武芸に秀でた者は少なく、 討ち入りに気付いても恐れおののくだけで主君が討ち取られるまで寝所から出ずに隠れていた家臣までいる程です。 後日、幕府側で家臣たちに聞き取り調査をした時には 「討ち入ってきた赤穂浪士の数が500人もいたため自分達だけではどうすることも出来なかった」 などと浪士たちの数を10倍以上に誤認した証言まで出る始末。 討ち入りがいかに吉良側の不意をついたものであったのかが伺えます。 >幕府は事実上見殺しにした形 幕府が無視できないほど世論が高まり問題になるのは 討ち入り事件の後に瓦版などが討ち入りにいたるまでの経緯を赤穂浪士側びいきで面白おかしく煽り立てたこと、 更に生類憐みの令などで庶民が幕府に対して抱いていた不満が、 主君切腹という幕府の仕置きに反抗して仇討ちに及んだ浪士たち擁護に結びつき、予想外の大きな動きに繋がったからです。 討ち入り前は浪士擁護の世論の高まりなどはなかったので幕府側も情報を事前に知っていた場合、 御政道に楯突くとんでもない行為として浪士たちを捕まえて取り締まっていたと思います。 夢を壊すようで申し訳ないのですが、僕の見解はこんな感じです。

gokannbenn
質問者

お礼

ご政道にそむく...私は現在50半ばに近づき、現場でかかわる方々のためには正しいと思って働いたことが、上司や元締め(某地方行政ですが)にはおもしろくないらしく、首にならない程度に、きつい現場ばかり回されています...(笑)いつの時代も、元締めには勝てないのでしょうね...仕事人の元締めは別のようですが...(失礼、脱線しました)ありがとうございました。

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