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赤穂浪士が箱根の関所を通れたのは何故

箱根の関所と言えば、日本一厳しい事で有名ですが、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの際に箱根の関所を通っていますよね。 彼らは何故、通る事が出来たのでしょうか。又、47士は全員で一気に通った訳ではなく、何人かに分かれたのでしょうか。史実を知っている人、出来るだけ詳しく教えていただけると助かります。

  • 歴史
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みんなの回答

  • shin1417
  • ベストアンサー率27% (199/721)
回答No.4

>彼らは何故、通る事が出来たのでしょうか えっ、だって止められる理由がないじゃないですか? 彼らは、ただの「浪人」ですよ? お尋ね者の犯罪者でも無ければ、移動を制限されている対象者でもないいのですよ。 逆に、なぜ質問者様は赤穂浪士が箱根の関所で止められると思っておられるのでしょう?そちらの考えの方が不思議なのですが? 第一、あの時代、誰も赤穂浪士が討ち入りをするなんて思ってはいなかったようですよ。 赤穂藩が取り潰されてから何年も経っているし、大半の旧赤穂藩士達は、その間にツテや自らの才覚によって他藩に再仕官(再就職)してましたから。 そんなことがあると思っていたのは、当の本人の吉良側の人間だけで、それ以外の人達にとっては既に過去の出来事の一つになっていたようです。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>彼らは何故、通る事が出来たのでしょうか。 先ず、赤穂事件は「当時は、それほど有名でなかった」のです。 講談・映画では、赤穂浪士として有名ですがね。 名古屋藩の畳奉行(朝日文左衛門)が(個人的に書いた)「鸚鵡籠中記」にも、江戸で事件が起きたようだ!との記述だけです。 浪人の取り締まりも、当時は厳しくありませんでした。 ですから、正式な「通行手形」を持っていれば関所は通過する事が可能です。 第一、赤穂・大坂・京から江戸へ下る!といっても、赤穂浪人は「犯罪者・指名手配者でない」ですから普通の浪人に過ぎません。 赤穂義士とかの講談は、吉良家討ち入り(住居不法侵入及び殺人)以降「生類憐れみ令」での不満が爆発して誕生しています。 幕末に水戸藩が流した「水戸黄門漫遊記」と同じです。

rara1234
質問者

補足

確かに事件を起こす前なのだから、通さない訳にもいかないというのは分かるのですが、大石内蔵助は「不思議なことに幕府は討ち入りを止める気がないようだ」(意訳)と手紙に書いているそうです。 その事から、幕府は赤穂浪士達が討ち入りする事に気付いていた。しかし敢えてやらせたようなので、もし知っていたなら箱根の関所あたりで難癖つける権力も持っていた筈なのに、そこら辺に何か幕府の中でも陰謀というか思惑があったのかなと思って質問したのですが。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3635/18948)
回答No.2

個別に江戸入りをしたことになっていますよ 映画ではそうしていました

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

赤穂のお城から『吉良を討て~!!』と武装集団で移動していたら、そりゃ関所で引っかかるでしょうが 当時、仇討ちをするのか?しないのか?外野は色々憶測していたでしょうが、当人達が公言していない以上、根拠の無い噂の域を出なかったのでは? そうすれば、赤穂の浪人衆が数人ぐらいで連れ立って江戸へ向かったところで、仕官口を探す浪人主従程度にしか見られなかったでしょう。 それなら、関所で足止めする理由は無いわけですね。

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