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赤穂浪士の通行手形
討ち入りを決意した赤穂浪士の面々は、おいおい地元を後に江戸に向かいますが、通行手形をどのようにして入手したのですか。 また、浅野内匠頭切腹後、江戸藩邸にいた人たちも国元へ帰ったと思いますが、通行手形や関所手形をどのようにして入手したのですか。 浅野家(赤穂藩)は、刃傷事件の直後改易となったので、どのような内容の通行手形だったのか、という疑問です。 よろしくお願いします。
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>討ち入りを決意した赤穂浪士の面々は、おいおい地元を後に江戸に向かいますが 討ち入りを決意した!と言うより、再就職が出来なかったので已む無く!が本音でしよう。 当時の記録では、江戸市民からの喝采もありませんよね。 名古屋藩の某奉行の日誌でも「江戸で、騒動があった」と数行の記録しかありません。^^; 歌舞伎・仮名手本忠臣蔵で美化されたので、忠臣・義士扱いですがね。 >通行手形をどのようにして入手したのですか。 主家が取り潰しになっても、家臣は罪を犯した犯罪者ではありません。 単なる、失業者=浪人です。 ですから、人別帳(現在の戸籍の側面を持つ)には残っています。 町村毎に名主や庄屋、町年寄が毎年書き改める義務がありました。 単なる江戸への移動では、元○○藩浪人として手形の発行を受ける事が出来ます。 今で言う市町村外への引越しの場合は、寺請証文(現在の、転出届けの側面を持つ)を貰って引っ越し先の役所に提出します。 つまり、浪人でも人別帳に記載がある限り手形を持つ事が出来るのです。 ※引越し時に手続きを忘れた・罪を起こして人別帳から外された者は「非人」となります。 世間体を気にして、旦那寺・菩提寺に頼んで発行してもらう場合が多かった様ですね。 >どのような内容の通行手形だったのか、という疑問です。 一般庶民と同じ手形です。 赤穂から江戸へ向かう場合でも、関所役人は「仇討」とは思っていません。 赤穂藩が潰れたので、江戸へ再就職に行くのか?と思うだけです。 普通に、関所を通ったようです。 意外かも知れませんが、男性の場合「手形が無くても、関所を通る事が可能」でした。 当然、無手形の場合は「審査・検査」が長引いた様です。 赤穂浪人の場合、入念な審査・検査をされると困りますよね。 名誉毀損にならない為に匿名にしますが、旅籠の主人にカネを渡して手形を書いてもらった義士もいます。^^; 手形といっても、先に書いた通り「身分証明書」です。 「スケベ左衛門は、赤穂の生まれで現在浪人。(省略)この記載に、間違いありません。○○村庄屋○衛門」 まぁ、仮名手本忠臣蔵とかTVドラマは「フィクション」に過ぎません。
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- shin1417
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根本的な事を誤解しているというか思い違いをしているというか。 赤穂浪士達は、討ち入りするまでは犯罪者では無く、ただの浪人です。 そもそも、大半の元赤穂藩士達は、改易後、他の藩へ再就職(再仕官)していますから、誰も赤穂藩の残党が討ち入り事件を起こすなんて思ってませんでした。 赤穂浪士達も「俺達は討ち入りするんだ!!」なんて世間に公言している訳でも、世間にそんな噂が流れていた訳でもありません。 ですから、赤穂浪士なんてのは普通の浪人としか思われていませんでした。 普通の浪人ですから、普通に手形を入手できました。 浅野内匠頭が切腹したって、その瞬間に赤穂藩と言う組織が無くなった訳ではありません。 正式に解体するまでは、赤穂藩の藩士として身分を持っていました。 ですから、江戸詰の地方の藩士達が国元へ帰るのとなんら変わりはありません。 普通に赤穂藩の武士として堂々と江戸を離れました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かにかなり思い違いをしていたようです。 >普通の浪人ですから、普通に手形を入手できました。 赤穂藩は、刃傷事件の翌日、改易が決まり、城受け取りの龍野藩にはその1週間後に幕府から早飛脚が到着しています。 確か、1か月後くらいには、幕府の役人(目付・代官)が入城しています。 同時に藩士は立ち入り禁止になっています。 この状況下で浪人が手形を入手するには、どこで入手したのか、という疑問です。 身分が武士なら町役(町年寄)が発行できないので寺だと思いますが、そのとき身分は浪人某となるのか、という疑問です。 再就職しやすいように幕府の目付か代官が便宜を図ったのでしょうか。 私は、何人かは町人で手形を取ったと思うのですが、全く分かりません。 >ですから、江戸詰の地方の藩士達が国元へ帰るのとなんら変わりはありません。 すると、江戸詰家老か留守居役か、誰か責任者が赤穂藩・浅野家中という名の通行手形を独断で発行したのか、あるいは幕府に許可を得ていたのか、という疑問です。 重要な儀式の最中に殿中で刃傷事件を起こした浅野家に厳しい態度でのぞんだはずです。 そのような状況下で手形をどうしたのだろう、という疑問です。 たとえ1枚でも通行手形が残っておればという思いです。
- pri_tama
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大石主税は、近江の郷士垣見左内と名乗って、公事訴訟のためという名目で先に江戸に入り、その後に内蔵助が後見人の伯父五郎兵衛として江戸に入ったみたいです。 (つまり手形は偽造) なお、よくドラマで道中に本人に会って、その胸中を察した垣見五郎兵衛が本物である自分の手形を渡したというのは、どうやら創作のようで実際の道中は恙無く終わったらしいです。 >江戸藩邸にいた人たちも国元へ帰ったと思いますが、通行手形や関所手形をどのようにして入手したのですか。 おとりつぶしが決定したといっても、赤穂城の引き渡し等の藩としての公用業務は普通に行えますから赤穂藩の公用手形が普通に発行されたと思いますが…。
お礼
ご回答ありがとうございます。 垣見左内の話は、ホントですか。 私は、てっきり浪曲か講談の創作だと思っていました。 赤穂藩邸にいた人たちが地元へ帰るのに必要な手形は、用向きが何であれ、藩の誰かが発行したのでしょうね。
- mekuriya
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なんてこともない。集団で行動していたわけでもないし、赤穂浪士と幟を立てていたわけでもない。親戚・縁者を頼って江戸で仕事を見つけたいといえば、いくらでも旅の名目はたちます。旧赤穂藩士は皆そうやって各自離散して赤穂藩を離れました。赤穂藩に留まる理由など無いのです。たまた江戸に向かった藩士もいるだでしょってだけの話。討ち入りを決意しましたなどと馬鹿正直に腹の中を明かす者などいない。浅野内匠頭の殺生沙汰は単なる乱心者の個人犯罪として扱われ、家臣が連座したわけでもないんです。主君を失って失職したといえど、家臣は犯罪者になったわけではありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 菩提寺が発行したと思いますが、手形をどのようにして入手したのですか、という疑問です。
- あずき なな(@azuki-7)
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そもそも改易(主家取り潰し)で国に帰るのに通行手形なんか必要ない いわば強制送還なんだし
お礼
ご回答ありがとうございます。 通行手形は必要ないのですか。 私は、地元へ帰るときは、江戸へ出てきたときの通行手形を使用したのかな、と思っていました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 改易後の赤穂藩は幕府の管理下になって、目付、代官が支配しています。 だから、侍身分であれば目付か代官が通行手形を発行したのではないか、と思っていました。 町役人が、武士の通行手形を発行することはないでしょうから、 行商人ということにして、旦那寺・菩提寺が発行したのでは、という疑問です。 赤穂の浪人が、どんな姿・身分で江戸に向かったのか、これも疑問です。 カネで手形を手に入れた例は、赤穂浪人以外ではいろいろ知っています。