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日本人はどうして赤穂浪士を賛美するのでしょうか?

日本人は赤穂浪士が大好きですね。 毎年12月になると、忠臣蔵の特番があります。 どうしてこんなに人気があるのでしょうか? 赤穂浪士の話は現代に当てはめてみると、賛美するようなところがないように感じます。 人物や事件の評価というのは時代によって変ると思うのですが、赤穂浪士の評価が昔も今もさほど変らないのはどうしてでしょうか? わたしの母も赤穂浪士の悪口をいうと怒ります。 わたしが赤穂浪士を賛美しない点は次のとおりです。 1、主君の浅野が変。   ・現代でいうと、国会で刃物を振り回すような行為で、そのような人物は信用できません。 2.殺しすぎ。   ・吉良家は死者16人、負傷者20人余を出しています。今こんなことやったら大変な騒ぎです。 3.吉良上野介は名君?   ・地元では、吉良上野介は名君だったといわれています。ドラマでは悪役にされていますが、真相を知りたいところです。 4.吉良上野介は被害者。   ・松の廊下の事件では、吉良上野介は明らかに被害者。なのに何故憎まれるの?逆ギレではないでしょうか? 5.復讐が楽しい?   ・復讐に命をかけるわけですが、それがそんなに意義あることでしょうか?復讐をして相手を殺害したところで空しさだけが残ると思うのですが。   ・主君が吉良上野介に殺害されたのならともかくも、事実は逆で吉良上野介が主君に殺されそうになったわけです。それで主君の仇を討ったといえるのでしょうか? 日本人は復讐潭が単に好きなだけなのでしょうか? よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • mn214
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回答No.2

赤穂浪士の話は私も好きなのでこの話を題材にしたテレビなどもよく見ます。 さて、赤穂浪士は何故これほど賞賛されているのでしょうか? 私も質問者さんと同様に批判的な立場です。 そもそもこの話は、実際に起きた事件を元にしてフィクションを織り交ぜて、世間が喜びそうな内容に創作された物語であるということをご理解下さい。 ・元禄14年3月に起きた浅野内匠頭が吉良上野介を切り付けた“松の廊下刃傷事件” ・翌15年12月に起きた大石内蔵助以下47名の浪士による“吉良邸討ち入り事件” 以上の二つの実際にあった事件を題材にして、世間の人に共感を呼びそうな内容で脚色し、人形浄瑠璃として作られた物語が“仮名手本忠臣蔵”です。 現在の我々が目にする時代劇としての忠臣蔵物は全てがこの“仮名手本忠臣蔵”を元にストーリーが考えられています。 実際にこの物語が完成し上演されたのは事件から47年後になってからのようですが、事件の起きた元禄時代は5代将軍綱吉の時代であり、“生類憐れみの令”等によって庶民はお上に対してかなりの反感を抱いていた時代です。 こうしたお上に対する反感は取り締まりの対象になりますから、陰でコソコソと愚痴を言い合うくらいしかできません。 そんな当時の時代背景からお上に反抗する目的でできたのが“仮名手本忠臣蔵”であるので、当然その内容は創作物語としながらお上への反発を表したものになっています。 こうしたお上への反抗心が当時の庶民の熱烈な指示を得て広まり、また、その後の社会では忠誠心といった概念を世間に植え付けるために逆に利用したのではないでしょうか? 1.浅野内匠頭は元々ノイローゼのような今で言う躁鬱病のようなタイプだったようです。 2.殺しすぎ~討ち入り事件は大掛かりなテロ行為です。 3.吉良上野介は地元の灌漑開発を促進し名君と云われています。 4.吉良は被害者です。  この事件に関しては、喧嘩両成敗にならなかった処罰が間違っているとして吉良を討ったことは正しい、とされていますが、そもそも“城中では何があろうと絶対に刀を抜いてはいけない”という大原則があります。 刀を抜いたということで浅野は切腹であり、刀を抜いていない吉良は無罪なのです。 したがって、当時の処罰の判断は間違っていないのです。 5.復讐が楽しいかどうかは解りませんが、当時この討ち入りに参加した浪士はほとんどが実際には内匠頭とはほぼ面識の無い下級武士ばかりであり、もっと上の立場の人達は新たな職場を探して赤穂から去って行ったようです。 結局は主君の仇討ちという大義名分に酔いしれた行き場の無い人達の集団なのだと思います。 時代劇に描かれている討ち入りに至るまでの赤穂浪士の様々なエピソードはほとんどが事実ではありません。 この事件を現代に当てはめるならば、鬱病で精神不安定だった若者が、ある日会社内で突然キレてしまい、近くにいた年配の上司に刃物で切り付けた、という事件であり、後日逆恨みしたこの若者の回りの連中が、集団で年配の上司宅を深夜襲撃したというテロ行為にすぎないので、赤穂浪士達の行動は反社会的なものかと思います。 決して美談ではありません。

その他の回答 (3)

  • les-min
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回答No.4

こんにちは。。  すでに詳しくご回答が出ていますが、実際の「赤穂事件」が脚色されて「忠臣蔵」になってく過程を追うと、(当時の)日本人がどのような話を好んだかが判ってくると思いますし、その「脚色された忠臣蔵」がある程度現在にも美談として支持されるのかも判るかもしれません。  自分は、赤穂事件は大石の幕府に対する「異議申し立て」だったと思っており、復讐とは感じていません。(←いろんな書籍からの受け売りみたいなものですが・・・)  ですから、徒党を組んで夜中に吉良家に押し入り、多数の死者を出したことは容認します。  大石は内匠頭や上野介個人はどうでもよかったのだと思います。内匠頭は理由はどうあれ、殿中で刀を抜いた以上、その時点で自動的に切腹は確定しますし、その場で切り殺されなかったので、まだよかった方だと言えるぐらいです。  内匠頭と上野介の処分は、原因が内匠頭の「乱心」としてなら、正しい処断だったと言えます。ただ、浅野家の断絶と再興不認可は、赤穂側に一方的に不利な処分と言えます。これは、この部分だけ喧嘩両成敗の原則を一方的に赤穂にだけ適用したと大石が受け取ったとしても、仕方がないでしょう。  概ね単なる乱心のように処断しながら、なぜか一方の家を断絶させた、というちぐはぐな幕府の対応が第二の赤穂事件(討ち入り)を招いた、と言えます。  いろいろなご意見もあるでしょうが、大石は家老であり、「主家」に対しての忠義はあっても、内匠頭個人への忠義はさほど持ち合わせていない、と考えられます。旧赤穂側の嘆願を受ける形で、浅野家が再興されれば、大石は討ち入りをするつもりはなかったと考えられます。  大石は、幕府のちぐはぐな処断に困惑し、怒りを感じて討ち入りを策謀したのだと思います。浅野家が断絶させられるのなら、もう一方の吉良家も同罪(喧嘩両成敗)でないとおかしい・・・乱心なら浅野家が断絶させられるのはおかしい・・・幕府の処断は誤っている、誤りは私闘に訴えてでも幕府に「異議」を申し立てる・・・大石以外の討ち入りメンバーそれぞれはどのように考えていたかは定かではありません。おそらく内匠頭個人への忠義を貫いた人たちもいたでしょう。しかし少なくとも、大石は他のメンバーと同じ考えであったとは思えません。  仇討ちではなく、浅野家が断絶した後も存続している吉良家の打ちこわしが目的だったとすれば、徒党を組んで、吉良家に押し入り、多数を殺傷することに大石自身は問題を感じていなかったと思います。上野介個人が名君であろうが善人であろうが関係ないわけです。最悪、上野介を逃がしてしまったとしても、吉良家で騒動を起こした時点で、大石の目的は半分以上達成していたと思います。  それが、上野介をも討ち取るといういささか劇的な結末となったことも美談として祭り上げられる要因となったと思います。  幕府の誤った裁断と「家」の存続の問題と捉えると、また違った面から赤穂事件が見られるのではないでしょうか。  復讐でない(と思われる)話を無理矢理復讐に仕立て上げた、という点では、「日本人は復讐譚が好き」とも言えるかもしれません。ただ、復讐譚というのはわかりやすい、と言う点で古今東西受けやすい要素が多い、というだけだと思いますけど。  では。  

  • norikunny
  • ベストアンサー率21% (256/1168)
回答No.3

これは単なる吉良個人への復讐ではなく、十分な調査もせずに即日お家取りつぶしという一方的な刑罰を下した政府に対する赤穂浪士の「復讐」だと思います。 そして、その後浄瑠璃や歌舞伎となりり庶民の人気を博す、つまり現在の月9ドラマで人気を博したのです。 多分、赤穂浪士と同じくお上に不満を抱く庶民の多くが抑圧されている自分たちの代りに良くやってくれたと思って人気になったのでしょう。 人気の秘密は悪役として描かれるの吉良を、苦渋苦難に耐え忍ぶ赤穂浪士がついにやっつけるという現代の人気のヒーロー物に共通する「勧善懲悪」や「おしん」の「忍耐」といった大衆に受ける要素を兼ね備えていたからではないでしょうか。 また浪士が一矢報いた後、名誉の切腹をとげたのは日本人が大切に思う「潔さ」にあい通じるのではないでしょうか。

  • hanpty
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回答No.1

 現代に当てはめるから違和感があるのだと思います。  彼らが称えられるのは当時の「良い」生き方、武士道を守った忠臣であったからで、彼らの行動自体の評価は武士道に対する評価に大きく影響を受けますから。  何年か前に、武道の経験者であったにもかかわらずいじめに対して非暴力を死ぬまで貫いた子供がいたのですが、「忠臣蔵の時代」に「素人とは戦えない」と言って死ぬまで殴られた武士がいたと聞いても変としか思えないでしょう?(行いの正しさはともかく)  その当時守るべきとされていた美徳を完全に貫いた。その気持ちの「強さ」が好まれたのではないでしょうか。(忠犬ハチ公然り)  日本の物語だと、信念を貫く人物は敵味方を問わず格好良く描かれるのも似たような理由と思います。

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