• 締切済み

赤穂浪士討ち入りについて

ちょい歴史好きのおやじです。初歩的な質問で恐縮です。赤穂浪士の仇討ちについては、吉良側は事前に察知していたようですから、幕府は当然認識していたと思います。しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?もし、世論を気にしてということなら、当時の幕政は世論の動向に左右されるようなものだったのでしょうか。世論という言葉は広い意味になりますので、この場合は、ごく一般庶民の見解ということでお願いします。どなたかお詳しい方、よろしくご教示下さい。

みんなの回答

  • tra55
  • ベストアンサー率10% (5/48)
回答No.10

ケンカ両成敗、これが幕府の刃傷沙汰の基本姿勢 だったそうですが、松の廊下の事件は 浅野ドノだけ切腹 これをケンカ両成敗になってないぞ!と赤穂浪士は 討ち入りしたわけですが、松の廊下事件じたいが あんまり世間に知れ渡らず (むろん幕府が広まらないようしたのもあったが) というか江戸城というのは当時、最強に警備が 厳重なところであったので、そこで 切り合いが起きるのは幕府のコケンにもカカワるので 幕府は、そんな感じにしたのでしょうか。 それでも、さすがに吉良邸襲撃事件のほうは 世間に知れ渡ってしまいました、なぜなら 吉良邸のとなり家に歌舞伎の脚本家が討ち入り時に 泊っていて、これをネタにして忠臣蔵という 劇を作って歌舞伎にして大ヒットしてしまったので これでは幕府も もみ消しようもありませんでした。

gokannbenn
質問者

お礼

ありがとうございました。大変勉強になりました。

  • jey9
  • ベストアンサー率14% (22/148)
回答No.9

No.4の方も書かれていますが、 >赤穂浪士の仇討ちについては、吉良側は事前に察知していたよう という事実はありません。 実際に討ち入りが行われ、浪士側に犠牲者が一切出ずに吉良上野介が討ち取られたというそのこと自体が、吉良側が浪士たちの動きを察知していなかったという証拠といえると思います。 赤穂浪士事件に関して、近松の「仮名手本忠臣蔵」などの戯作や後世の脚色などで書かれたものが、まるで歴史的事実であるかのように思われている人がいますが、実際のところ、赤穂事件でわかっていることは少なく、そもそも内匠頭がなぜ刃傷事件を起こしたのかすらわかっていません。

gokannbenn
質問者

お礼

刃傷の原因も定かではないのですか...歴史の研究はまだまだ課題が多いのですね。ありがとうございました。

回答No.8

NO1.です。 この場を借りて大変申し訳ありませんが・・・。 krya1998さんの回答に、少々、補足をしてみたいと思います。   >>1. 『吉良側は事前に察知していた』というより危惧したから、浪士などの雇用をしていたのでしょうね。でもあの日あの時という察知はしていなかったのでしょうね。 当時としては、ちまたの噂で「あだ討ちをする」と言う「流言飛語」が飛び交っていましたので、当然、「いつになるかは分からないが」赤穂浪士が「襲ってくる」ことは、吉良側としても「対策」をこうじていました。清水一学などの二刀流の剣士などを雇い、警備面でも配慮をし、さらに、本所松坂邸を改築し、良くTVなどでも放映されますが、掛け軸の裏に「抜け穴」を造ったり、屋敷内を「迷路」のようにしたりしていました。 >>2. 『幕府は当然認識していた』というのもどの程度具体的認識かで考えると、度をこそ失わないけれども、むしろ寝耳に水にちかいのではないかと思います。  赤穂の浪士の張り番をしていたとも思えませんし。 「討ち入りの日」の設定ですが、浪士の一人大高源吾が茶人の山田宗偏に弟子入りをしていて、12月14日夕刻に吉良邸で茶会が開かれることを聞き、屋敷への出入りに吉良側の「気が緩む」と判断し、討ち入り決行と考えるのが自然であり、たまたま、主君浅野匠内頭の月命日(つきめいにち)であっただけ、と、考えられます。 また、幕府としても、ある程度の「予測」はしていたとは思いますが、それは、あくまでも世間の噂でもあり、いつ決行されるか分からない、あるいは、決行されないかも知れない出来事、そして、47名以外にも赤穂浪士は江戸に多数流れ込んでいましたから、そうした赤穂浪士の一人ひとりに見張りを付けることは不可能ですよね。 まあ、そう言った観点からすると、(むしろ寝耳に水にちかいのではないかと思います。)の通りだと考えます。 >>3. 単なることば、用語の問題かも知れませんが、『吉良は打ち首』ということばは、むしろbungetsuさんのお教えを賜りたいですね。 「打ち首」は正しくありません。 「江戸時代史」など各種の史料から、吉良上野介を炭小屋で発見して、庭に引きずり出した時、大石内蔵助が吉良に脇差を差し出し、 「腹をめされよ」 と、言ったが、吉良は、あくまでも首を縦に振らなかったため、止むを得ず、 「介錯ごめん!」 と、叫んで浪士が首を刎ねた、と言われています。 まあ、これらは、浪士以外は見ておらず、どこまで本当かは分かりませんが、武士としての「威厳」と「誇り」を持って「切腹」の道を選んで死んでもらいたかった、また、「威厳」「誇り」を持って死んだ、と言うことを後世に残したかった創作かもしれませんね。 ただし、「打ち首」は町奉行などが犯罪者に使う言葉であり、まあ、吉良も犯罪者といえば言えないこともないですが、この場合は、やはり、単に「首を刎ねた」と言うべきかと考えます。 >>4. 『幕府は事実上見殺しにした』ということでも必ずしもないことは、みなさんのご回答でよく理解できましたが、そういう流布情報の後でのつけたしなのでしょうね。幕府の治安維持力やせけんのことも多分に流布の後付のことなのでしょうね。 前文でも述べましたが、大名家を取り締まるのは「大目付」であり、たとえ、老中や町奉行などが「討ち入った」ことを耳にしても、また、大目付でさえも、当家(この場合、吉良家)より訴えがこない限り「出動」はできませんでした。 また、吉良邸に出入りしていた「豆腐屋」が「上杉邸」に知らせた、と言われ、上杉家の史料で、 上杉家5代綱憲(つなのり)は、吉良上野介の次男で、豆腐屋が「ご注進」に来た折、直ちに、助成に駆けつけようとしましたが、家老をはじめ重臣たちが、 「たとえ、御父君と言えども、もし、吉良殿が討たれたら、我ら、上杉家が徒党を組んだとみなされ処分は必定、ここは耐えて、耐えてくだされ」 と、必死の形相で止めた、と言われています。 まあ、そういうことから考えると、「幕府」だけではなく、「実子」でさえ助成できなかったのですから、「見殺しにした・・・」・・・うぅん、あまり良い響きではありませんが、後世に伝えるためには、そういう「言い回し」をされてもいたしかたない、かも、知れませんね。

gokannbenn
質問者

お礼

大変ご丁寧な内容での回答に、心より御礼申し上げます。歴史の真実がいかに奥の深いものであるか、が良くわかりました。ありがとうございました。

回答No.7

 NO1のbungetsuさん、皆さんのご説明に付加するものはありませんが、ご質問文章で気づいた気になることを少し申し上げてみたいと存じます。  1. 『吉良側は事前に察知していた』というより危惧したから、浪士などの雇用をしていたのでしょうね。でもあの日あの時という察知はしていなかったのでしょうね。  2. 『幕府は当然認識していた』というのもどの程度具体的認識かで考えると、度をこそ失わないけれども、むしろ寝耳に水にちかいのではないかと思います。  赤穂の浪士の張り番をしていたとも思えませんし。  3. 単なることば、用語の問題かも知れませんが、『吉良は打ち首』ということばは、むしろbungetsuさんのお教えを賜りたいですね。仮に上野介が小屋から引き出され殺された状態が『打ち首』ということばで表現していいのかどうか。首を切られたとして、それを単に斬首という似すぎなく、斬首刑の用語としてよく聞く打ち首でいいのか。  4. 『幕府は事実上見殺しにした』ということでも必ずしもないことは、みなさんのご回答でよく理解できましたが、そういう流布情報の後でのつけたしなのでしょうね。幕府の治安維持力やせけんのことも多分に流布の後付のことなのでしょうね。

gokannbenn
質問者

お礼

とてもわかりやすくまとめていただき、ありがとうございました。

回答No.6

NO1.です。 回向院への門は、「通用門」でした。 ごめんなさい。 表門には、大石内蔵助ら23人が固め、 裏門には、大石主税いか24人が固めており、 非常時の「通用門」として回向院の墓地へ逃げる門がありましたが、 回向院は、その門に鍵をかけて、「一切関わりたくありません」という態度をとりました。

gokannbenn
質問者

お礼

寺院も対応に苦慮していたのですね...

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

徳川家も含めた、大名連合というのが江戸幕府。 生類哀れみの令に関しても大名領国内では関係ありません。 税率も各自勝手。 大名家同士の問題も、幕府が介入するのではなく、親戚が介入します。幕府が介入するのは「徳川家に対する反乱容疑」だけです。 全国の人口調査も、吉宗の時代からで、それも「武士抜き」つまり、大名家の家中にはノータッチなのです。 見殺しではなく、幕府としては関係ないことなのです。 実行後は、元大名家なので大目付に申告して幕府案件となりました。

gokannbenn
質問者

お礼

よほどのことがないと、総元締めは動いてくれない...というか、動く気が無い...自分の勤務先も含めて、現在の労働現場でも変わっていない感じがします。最前線の「現場」の責任追及だけはうるさく言って来ますが...ありがとうございました。

回答No.4

>吉良側は事前に察知していた 吉良側が討ち入りを事前に察知して清水一学など手だれの用心棒を雇っていたというのは後世作られた物語などの脚色です。 3番の方が仰っている通り、討ち入り当日屋敷にいた者達は酔いつぶれていた上、 その面子も大名家と違い領地の治安維持の必要性が薄い高家という家柄もあって配下には武芸に秀でた者は少なく、 討ち入りに気付いても恐れおののくだけで主君が討ち取られるまで寝所から出ずに隠れていた家臣までいる程です。 後日、幕府側で家臣たちに聞き取り調査をした時には 「討ち入ってきた赤穂浪士の数が500人もいたため自分達だけではどうすることも出来なかった」 などと浪士たちの数を10倍以上に誤認した証言まで出る始末。 討ち入りがいかに吉良側の不意をついたものであったのかが伺えます。 >幕府は事実上見殺しにした形 幕府が無視できないほど世論が高まり問題になるのは 討ち入り事件の後に瓦版などが討ち入りにいたるまでの経緯を赤穂浪士側びいきで面白おかしく煽り立てたこと、 更に生類憐みの令などで庶民が幕府に対して抱いていた不満が、 主君切腹という幕府の仕置きに反抗して仇討ちに及んだ浪士たち擁護に結びつき、予想外の大きな動きに繋がったからです。 討ち入り前は浪士擁護の世論の高まりなどはなかったので幕府側も情報を事前に知っていた場合、 御政道に楯突くとんでもない行為として浪士たちを捕まえて取り締まっていたと思います。 夢を壊すようで申し訳ないのですが、僕の見解はこんな感じです。

gokannbenn
質問者

お礼

ご政道にそむく...私は現在50半ばに近づき、現場でかかわる方々のためには正しいと思って働いたことが、上司や元締め(某地方行政ですが)にはおもしろくないらしく、首にならない程度に、きつい現場ばかり回されています...(笑)いつの時代も、元締めには勝てないのでしょうね...仕事人の元締めは別のようですが...(失礼、脱線しました)ありがとうございました。

  • sosdada
  • ベストアンサー率33% (265/792)
回答No.3

その日、吉良邸では忘年会をしていました。

gokannbenn
質問者

お礼

以前、私も忘年会か何かの職場の会合の際に、突然の知らせで急遽現場に戻らざるを得ないこともあり、せっかく疲れを癒そうとしていたのが、かえって疲労を増すことになりました。厳しい昨今、皆様も同じようなご体験が...嫌な乱入はいつの時代も避けたいですね。ありがとうございました。

回答No.2

ごめんなさい。 URLがうまく表示されないようですので、 次のサイト等をどうぞ・・・。 http://puchitabi.jp/08/11/post-5459.html

回答No.1

こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 >>幕府は当然認識していたと思います。しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか? 幕府は、ある程度「予測」をしていました。 初め吉良邸は江戸城内の呉服橋門内に屋敷がありましたが、浅野内匠頭との事件発後、本所松坂邸へ屋敷替えをしています。 つまりは、江戸城(正式には、当時は、江戸城とは呼ばず、鶴舞城・ぶかくじょう、または、千代田城、庶民は、単なる「お城」と呼んでいましたが)、の近辺で「起こるであろう事件」には関わりたくない、と言う姿勢から、吉良の屋敷替えを行っています。 そして、元禄15年(1703)12月14日の浅野内匠頭の月(つき)命日を向かえ、赤穂浪士47名が討ち入ったことになっていますが、実際には、12月15日午前4時頃と言われています。 しかし、当時の幕府体制として、大名を取り締まるのは、「大目付」でありましたので、この「大目付」に届け出るのは、庶民や町民は「門前払い」で取り合ってはくれませんでした。 つまりは、大名家から「申し出」があって「大目付」は出動する、と、言った条件でしたので、吉良邸からの届出が無くしては、「大目付」は一歩も動くことができませんでした。 赤穂浪士が討ち入った時、吉良邸は、隣に土屋平八郎邸(赤穂びいき)で、大石内蔵助が討ち入った時、 「我ら、主君浅野匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばしの騒動となりましょうが、平に御容赦お願いたてまつり候」 と、口上を叫び。土屋平八郎は、 「その方らの儀十分承知。塀を超えた者あらば、どちらの家中と言えども討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」 と、応えて、急ぎ、高張提灯を何本も立てたと言われています。 また、吉良邸の裏門は回向院の墓地との境にありましたが、回向院は、「知らぬ存ぜぬ」を決め込んで裏門の鍵を開けませんでした。 また、仮に「老中」とか「若年寄」が、その事実を聞いていたとしても、現代の役所の縦割り行政と同じく、「大目付」が出動すべきものであって、「我々には関係ない」と、言う状態でした。 しかし、先にも述べた通り、吉良邸から誰一人として「大目付」に訴え出る者もできない状況でしたので、例え、「うわさ」や「周囲が騒がしい」と言っても、「訴え」のないものに対して「大目付」は一歩も動くことはできませんでした。 (よもやま話) (1)町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。 確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。 なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。 (2)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。 この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。 (3)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われ、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。 (4)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。 (5)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。 (6)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。 直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。 このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。 しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。 そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。 この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。 (7)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。 (8)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。 (9)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。 (10)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守(ほうきのかみ)に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。 (11)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。 (12)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9 現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。 (13)地図: ​http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/​ あなたのお役にたてたでしをうか。

gokannbenn
質問者

お礼

ご丁寧なご回答に感謝申し上げます。今までご回答いただいた皆様のお話に、歴史作家様のご回答を拝見したことで、つたない私の脳の中にも、芝居やドラマとは別な形の、歴史的事実のもとづく討ち入りの様子が、かなり鮮明に浮かんでくるようになりました。これを機に、自身でもさらに勉強を進めたいと思います。このようなかなり著名な事柄についても、まだまだ不明な点やようやく明らかになりつつ点があるなど、歴史の深さが、50数年も生きてきて、ようやく感じられるようになりました。ありがとうございました。

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