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「国民性」は危険

neil_2112の回答

  • neil_2112
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回答No.8

「国民性」という視点がナショナリズム扇動のツールに使われはしないか、という懸念をお持ちのようですが、果たしてそう単純なものでしょうか。むしろ逆にこの言葉で共感し得る何かの価値を括り出すことは益々困難になっているように私には思えます。 例えば、ご指摘のようにこれだけサブカルチャーがはびこる様相は、社会の中で多様な価値観が許容され得ること、そしてその中で個人が意味の充足を得られることを意味しているわけでしょうから、サブカルチャーの進展は、論議の筋道としては当然、より一般的な価値で社会を括ることが困難になっていることを示している、という風に解釈すべきだと思います。 (サブカルチャーが常に“サブ”であることに社会の抑圧性を見る人もいますが、メジャーに対抗する現象は常に対抗性を持つもので言わば本質的にアンダーグラウンドなものですし、そもそもメジャーなものの存在を前提にするものです) あるいは質問者氏は、かつてのドイツで、個別化して精神的紐帯を失った国民が、「ゲルマンの血」という大きな民族的物語にからめとられる格好でファシズムに走ったようなことを念頭においていらっしゃるのかも知れません。 確かに「国民性」という言葉も使い様によっては、自分を超えるものへの回帰というストーリー性に満ちた高揚感、生きる意味の充足感を与えることができるでしょうが、しかしやはりそれが扇動力を持つには、ドイツがまさにそうであったように、国民の間に「意味への飢餓」というべき必要条件が整っていないと難しいでしょう。 あるいはフロムが書いたように、自己決断を迫られる自由の厳しさに大衆が耐えかねる、という形でファシズムの前に国民が思考停止に陥った、という分析もありますが、今の日本にそれが当てはまるとも思えません。サブカルチャーで多様化したから国民性という言葉で一般化するのがそぐわない、のではなく、もう現にそれは困難になっているのです。 サブカルチャーはひとつの例にすぎませんが、今の日本では個々人の生きるうえでの意味づけを与えてくれるチャンネルが膨大に張り巡らされていますから、ある価値観は必ずカウンターとしての反‐価値観の存在を浮き彫りにします。それが、何をやってもどうにもならない、という意味で今の社会に閉塞感をもたらす淵源でもあるのですが、それは裏返せば、社会全体に対して単純な言葉で単純に何かの価値観を切り出して提示できない、ということでもあるのです。 従って現実問題として、「国民性」という言葉が使われるとしてもかなりリアリティを欠いた色褪せたものにならざるを得ませんし、実際にこういう言葉が正面切って使われるのは、もはやせいぜいliteracyの程度に問題のある政治家の発言の中ぐらいではないでしょうか。 また、言葉の面で言えば「国民性」という単語は、他のいかなる言葉も意図すれば差別的に用いることができる(例えば「アレ」というだけでも差別感を込め得る)のと同程度には潜在的危険性があるけれども、それは言葉の本質ではなくて用法の問題に過ぎない、ことを指摘しておきます。 全てのサラリーマンが「サラリーマン根性」を持っているわけでもなく、全ての公務員が「お役人」然たるわけでないのは当然ですが、コノテーション(文脈的意味)として特別にある社会的ニュアンスを付与されてこれらの語は流布しています。裏から言えばそのようなニュアンスがこの言葉の本質なのであって、共示的意味のない無色の時点で「国民性」という言葉をあげつらっても始まりません。これはいわゆる「差別語」の問題と同じ構造です。 例えば、先の大戦中の「非国民」という言葉は国民に対して使われたわけですから、本来無意味な言葉ですが、これが意味を持ったのは「国民ならばかくあって然るべき」という絶対的な価値観をコノテーションとして持つ、非常に強制的な言葉だったからです。「国民」という言葉自体が理想をまとっていたが故に抑圧性を秘めていた、と言えるでしょう。しかしこれと比べてみても、「国民性」は本来無色な言葉であって、抑圧性があるとすればそれは用法によるわけなのです。 「国民性」という言葉が国民個々人の様々な「パーソナリティ」を十把ひとからげに、乱暴にまとめあげてしまう、という不信感についても、この語に限らず言葉一般の性質に過ぎません。 何となれば言葉というのは全て一般化を通じて物事を認識するための手段に過ぎないのであって、そのことは常に差異を前提とせざるを得ないからです。物事の認識というのは、突き詰めれば差異化と言わざるを得ないし、認識を広げようとするのは人間のほとんど根本的な属性です。 問題が用法にある以上、国民性という尺度で「誤った個人的パーソナリティ」が形成される、と書かれていることも、すこし突飛な印象を拭えません。そのことは、例えば子供を育てる際に、誉めすぎるばかり(つまり批判性や悪意の全くない言葉群)でスポイルしてしまったり、「お前は伝統ある~家の長男だから」と強調し過ぎた結果グレてしまったり…といった世間でよくある例と一体なにほど違いがあるのでしょうか。これはふざけている訳ではなく、私には理解ができません。 より根本的な面で言えば、私はこの質問には、社会制度をめぐる“共同体主義論”対“自由主義論”の対立の論点が持ち込まれているように思えます。つまり、“個人は社会に属しその社会の持つ一定の価値観や共通善を学習することを通じて初めて個人たり得る”、という立場に対し、この質問では“社会に先だって個人が存在する、個人はそれぞれ相対的な価値を生きるのであってライフスタイルの採用には社会は全く関与すべきでない”という立場が暗に前提とされているように思えます。 それが問題の本質だとすると、その点が真正面から問われることなく、「国民性」という言葉の問題に矮小化されているところに私はすっきりとしないものを感じてしまいます。 その姿勢は例えば、質問者氏が「国民性」に対する価値として「個(人)性」という言葉を使わずに敢えて「パーソナリティ」という曖昧な表現をされたり、あるいは「自己を基準としたパーソナリティ形成」といったような曖昧さによりかかった、独創的ではあるがイメージの湧きにくい(=自己を基準とするなら自己はその基準をどうやって獲得したのか、自己の定義とは何かetc.)表現群を使用していることと通じているように思えるのは私だけでしょうか? (おわかり頂けると思いますが、私には質問者氏の意見や人格を否定しようという意図はありません。言葉のうえでしか通じ合えないわけですから、互いに正確な用法が必要だろう、という意味です)

yurikago
質問者

お礼

>・・・国民の間に「意味への飢餓」というべき必要条件が整っていないと難しいでしょう。 現在日本において実は「意味への飢饉」が蔓延しているように思うのは私だけでしょうか?情報の氾濫により自己の位置づけがとても困難な時代もかつては存在しなかったと思います。そんな中で「国民性」という表現を安易に受け入れてしまうことで誤った自己形成をなしてしまうのではと感じております。neil_2112さんのように聡明な方は物事を捉える能力に長けているのでそんなばかなとお考えになることでしょうが、実際「国民性」を安易に受け入れてしまう国民はどれだけ多いことでしょう? >・・・例えば「アレ」というだけでも差別感を込め得る 理屈っぽく言わせていただくと「アレ」は確かに人間に向けて示す表現ではありませんね^^;アレって物や現象にさす言葉ですよね。 neil_2112さんのおっしゃるとおり、言葉とは常にややこしさをはらんでいますね。私の問題とする本質は確かに“共同体主義論”対“自由主義論”のようにも見て取れますが、実際私が提議したい本質とは、個人の集合である国家と国家の一員としての個人とは相反するものではなくそれは物事の表裏であるだけに過ぎず、もちろんそのことをテーマとしてあげたのではなくあくまでも、尺度であるはずの「国民性」という表現が個人のパーソナリティを形成させる上で先んじてはいけないのではないかといったことであり、世の中は常に変化するわけで「国民性」とはある意味においてレッテル的な拘束を果たす「恐れ」がある危険性と、個人や地域住民の誤解を招く「恐れ」がある危険性とを皆さんと一緒に考えて行ければなと思い質問させていただきました。 詳細な分析のもと深いご指摘とても勉強になりました。 neil_2112さん、ご回答ありがとうございました。

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     悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか  言いかえるなら:   (α) 自由な市民による自由な連帯は 果たして可能か。いかにして可能か。  これが 問い求めの主題です。しかも取りあえずは 組織的な運動を考えない次元においてです。  つぎに趣旨説明です。  (β) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において保つ人びとは 果たしてこの主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (γ) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います:     悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして存在しない。    あるとしても 《善の完全な欠如》を想像裡において 絶対化した    ところの観念である《悪魔》のみである。     世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれて    いくと あたかもこの悪魔は 永続しているように見える。だが そ    れだけのことだ。  (δ) もし人生が或る種の仕方でたたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであるとわたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (ε) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。   それは 先の(α)の主観を共同化した状態にある人びと つまりは共同主観(コモンセンス)を確立することができた人びと そういう人びとが 互いに《同感》派として全体の三分の一を占め 次の三分の一が《共感》派を形成し 残りをお呼びでないところの《反感》派が占めるという構図です。  共感派というのは はっきり言って浮動層でもあります。  (ζ) しかも この社会としての構図についても 飽くまでわたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(δ)に言う一対一の対話であると考えていました。  (η) そこで果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったいどういうことが考えられましょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  ☆ このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ自覚の問題だけだというようにも思われて愚問かも知れないのですが 次のようにも考えてみます。  (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして平和裡に保つか》 こういう問いになろうかと考えます。  (毒麦を引き抜かないのは もし引き抜くならそのとき ふつうの麦をもいっしょに引きぬいてしまって だめにしてしまうからだと言われます)。  (ι) 前項の説明として:《毒麦》とは 煮詰めて言えば主観としてでしょうがきつく言えば《これで人間と呼べるか》という疑いが持たれてしまうという場合を言っています。  (κ) 《呼べるかどうか》の答えは人間としては出ない・出せないというこたえをわたしはこのところ得たのですが ただしそのような人物評価としての思考じたいは 現われますし 或る意味で――相対的な経験合理性にもとづく判断という範囲に限れば―― 妥当な内容をさえ持つとも考えます。  (λ) ひとことで言えば 《コミュニケーション不全》という状態です。これはみづからが人間でなくなろうとしているのではないか。こういううたがいであり――みなさんは こういった或る意味で究極の人間不信の状態に落ち入ったご経験はありますか?―― しかもその説得力のある説明が主観的にであれじゅうぶんできるという場合に ではどう対処していくのか これです。  (説明というのは 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》を充てます)。  よろしくどうぞ

  • 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態

     1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前の頃のひとの心の状態を言います。  2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言います。  3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。  4. このとき聖なるあまえは どうなるか?――幼虫がさなぎになる。  5. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。  6. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。  7. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。  8. どういうことか? すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれにその《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。  9. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持っていない状態であった。(意識としてはです)。  10. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔ほぼ同じおそれを何ものかに対して持ってのように〕現われる。  11. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものと考えられるが ここではまだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。  12. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉はしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》となる。  13. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。その現われである。  14. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。  15. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 大筋としては《わたしがわたしである》道をあゆむ。  16. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。ひとにとって共通であると。  17. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同の主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。  18. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものでしょう。(無根拠なる根拠において受け容れているという意味です)。  19. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。  20. 成虫した場合には 社会の中でおのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に言ってそのおそれは 世の中の社会力学じょう既成勢力たるチカラの前にほぼ無力となる。  21. この情況における《わたし》は どう生きるか?  《きよらかなおそれ》のゆくへは どうなるか?  22. 聖なるあまえ・もしくはきよらかなおそれ あるいは 《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆくブルドーザーの《しばしば無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。  23. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。  24. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉をも着せてもらってその身を飾り立てている・つまり おごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していく。ということ。  25. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的なすがたであり 使命でもある。  26. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。  27. 無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。  28. ごみ清浄化工場であり きれいな酸素をも供給するらしい。    29. 義無きを以って義としているらしい。(あるいは 《無住処涅槃》)。  あらためて以上を問います。