• ベストアンサー

悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

littlekissの回答

回答No.14

おはようございます、brageloneさん。 なんぱって? はいはい、中途半端でこりゃどうも。 そだ、先に言っとくの忘れてましたけど、前回の『究極の悪とは――存在について―― 』へ、お返事をひとつ入れたんだけど、アップしたらタッチの差で締め切られちゃった。…あ…ぁ、、、言葉にはならない白いため息。時間は待ってはくれない。止まらない時間。で、時を合わせたかのように『欲望という名の電車 』がランキングにあがってきてる。偶然なのか必然なのかそりゃどっちでもいいけど、 で、軍人さんと民間派遣社員(エンジニア)の話のつづき 戦時下、その船の中に乗船してる者同士の間ではなんらかの連帯感って芽生えてくるもんじゃないかな。だだっぴろい海の上、人の助けなしに船は動かない。そこにいるのは乗組員のみ。船を維持し安全に航行すると言う事に於いて、軍人とか民間派遣社員って枠を越えて協力しあうことが求められることだろう。そうしていくうちに、人と人としての心の交流も育まれていくこともあったんじゃないかな?一対一の個の結びつき。しかし、ひとたび爆撃くらい船が撃沈され海に船が沈み生存者なしとなったとき、死者に選別、軍人・民間人。同じ船に乗り合わせ共に命を落としたとしても引き裂かれる。軍人・民間人とに。共に船を維持し安全に航行すると言う事に於いて協力し合ってきたもの同士であっても死が二人を分つ。軍人の残された遺族へは国から弔慰金・恩給等が与えられ保障も手厚く。民間人の残された遺族へは国から弔慰金・恩給等が与えられることもなく民間会社から幾ばくかの手当てが施されるほど。一隻の船に乗り込む軍人だけをみてもその中で階級が在り、共に船を維持し安全に航行すると言う事に於いて協力し合ってきたもの同士であっても死した後も人と人を分つ。階級ごとに。扱いはみな同じではない。名誉と勲章を付与され、それと引き換えにA級B級C級戦犯と時世に死した後も晒される者もいる。民間会社の社員においても派遣されて行く者(取り扱う者)、現地に残る者(製造する者)がいる。そして、国民総動員、軍需工場に動員され、女・子どもに至るまで誰もがどこかで何かに携わっている。名が在ることで時に称えられ、名が在ることで批判の矢面に立ち蔑まれもする。名がないことで時に忘れられ、名がないことで批判する側に立ち憂いもする。

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ アップしたらタッチの差で締め切られちゃった。…あ…ぁ、、、言葉にはならない白いため息。時間は待ってはくれない。  ☆ やっぱり 中途半端だからなぁ。  ★ で、時を合わせたかのように『欲望という名の電車 』がランキングにあがってきてる。偶然なのか必然なのかそりゃどっちでもいいけど、  ☆ この映画を見ましたが――めづらしい―― 悪の問題ですよ。悪との共存。悪をひっさげている人の善の回復。心が癒やされることをとおして 悪を克服する。うそのデパートなる人のお話。  ★ 名が在ることで時に称えられ、名が在ることで批判の矢面に立ち蔑まれもする。名がないことで時に忘れられ、名がないことで批判する側に立ち憂いもする。  ☆ あぁ 《もっと頭を使いたまえ》とのご命令は このことにも当てはまるのだったかぁ。  過去の悪の処理の問題。過去の悪を受け容れ それと共存し そのあと 存在の善の回復をとおして 故人も遺族もみんなも 癒やされ 《旧い人》を脱ぎ 《あたらしい人》を新たに着て 前へとすすむ問題。  もし仮りに 人間存在が 肉(つまり 身体=精神)をなぞの霊が包むというあり方で生まれて来ているのなら 〔霊を たましいと言いかえますが〕 戦争時に何らかのかたちで戦闘にかかわってたましいを遺して去った人びとについては それぞれの家・それぞれのふるさとに 必ず 帰えしてやらねばならない。そこで やすらかに生きてもらわねばならない。  《靖国で会おう》ということばが それでこそ 実現するのではないだろうか? 悪の受容およびそれの清算の まだなお 遺されたわれわれのなすべき仕事として。  シュウキョウもへちまも ない。生まれ故郷に居てもらうのが いちばんではないか。《われわれは よくやった。いくら理不尽であろうと よく国の要請に応えて たたかった》とかれらは 胸を張って 言っているのだから わたしたちは 同情をするべからず。あらためて おごそかに ふるさとの地におほうむり申し上げるのみ。

noname#80116
質問者

補足

 補います。  お礼欄の最後に  ○ どぢゃ。  ☆ と添えるのを忘れました。

関連するQ&A

  • 悪の共同自治にあたってわれわれは 協力しうるか

     悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか  言いかえるなら:   (α) 自由な市民による自由な連帯は 果たして可能か。いかにして可能か。  これが 問い求めの主題です。しかも取りあえずは 組織的な運動を考えない次元においてです。  つぎに趣旨説明です。  (β) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において保つ人びとは 果たしてこの主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (γ) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います:     悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして存在しない。    あるとしても 《善の完全な欠如》を想像裡において 絶対化した    ところの観念である《悪魔》のみである。     世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれて    いくと あたかもこの悪魔は 永続しているように見える。だが そ    れだけのことだ。  (δ) もし人生が或る種の仕方でたたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであるとわたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (ε) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。   それは 先の(α)の主観を共同化した状態にある人びと つまりは共同主観(コモンセンス)を確立することができた人びと そういう人びとが 互いに《同感》派として全体の三分の一を占め 次の三分の一が《共感》派を形成し 残りをお呼びでないところの《反感》派が占めるという構図です。  共感派というのは はっきり言って浮動層でもあります。  (ζ) しかも この社会としての構図についても 飽くまでわたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(δ)に言う一対一の対話であると考えていました。  (η) そこで果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったいどういうことが考えられましょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  ☆ このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ自覚の問題だけだというようにも思われて愚問かも知れないのですが 次のようにも考えてみます。  (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして平和裡に保つか》 こういう問いになろうかと考えます。  (毒麦を引き抜かないのは もし引き抜くならそのとき ふつうの麦をもいっしょに引きぬいてしまって だめにしてしまうからだと言われます)。  (ι) 前項の説明として:《毒麦》とは 煮詰めて言えば主観としてでしょうがきつく言えば《これで人間と呼べるか》という疑いが持たれてしまうという場合を言っています。  (κ) 《呼べるかどうか》の答えは人間としては出ない・出せないというこたえをわたしはこのところ得たのですが ただしそのような人物評価としての思考じたいは 現われますし 或る意味で――相対的な経験合理性にもとづく判断という範囲に限れば―― 妥当な内容をさえ持つとも考えます。  (λ) ひとことで言えば 《コミュニケーション不全》という状態です。これはみづからが人間でなくなろうとしているのではないか。こういううたがいであり――みなさんは こういった或る意味で究極の人間不信の状態に落ち入ったご経験はありますか?―― しかもその説得力のある説明が主観的にであれじゅうぶんできるという場合に ではどう対処していくのか これです。  (説明というのは 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》を充てます)。  よろしくどうぞ

  • 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか(つづき)

    悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか(つづき)  (α) 自由な市民による自由な連帯は 果たして可能か。いかにして可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。取りあえずは 組織的な運動を考えない次元においてです。  つぎに趣旨説明です。  (β) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において保つ人びとは 果たしてこの主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (γ) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います:     悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして存在しない。    あるとしても 《善の完全な欠如》を想像裡において 絶対化した    ところの観念である《悪魔》のみである。     世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれて    いくと あたかもこの悪魔は 永続しているように見える。だが そ    れだけのことだ。  (δ) もし人生が或る種の仕方でたたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであるとわたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (ε) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。   それは 先の(α)の主観を共同化した状態にある人びと つまりは共同主観(コモンセンス)を確立することができた人びと そういう人びとが 互いに《同感》派として全体の三分の一を占め 次の三分の一が《共感》派を形成し 残りをお呼びでないところの《反感》派が占めるという構図です。  共感派というのは はっきり言って浮動層でもあります。  (ζ) しかも この社会としての構図についても 飽くまでわたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(δ)に言う一対一の対話であると考えていました。  (η) そこで果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったいどういうことが考えられましょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  ☆ このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ自覚の問題だけだというようにも思われて愚問かも知れないのですが 次のようにも考えてみます。  (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして平和裡に保つか》 こういう問いになろうかと考えます。  (ι) 前項の説明として:《毒麦》とは 煮詰めて言えば《これで人間と呼べるか》という疑いが持たれてしまうという場合を言っています。  (κ) 《呼べるかどうか》の答えは出ない・出せないというこたえをわたしはこのところ得たのですが ただしそのような人物評価としての思考じたいは 現われますし 或る意味で――相対的な経験合理性にもとづく判断という範囲に限れば―― 妥当な内容をさえ持つとも考えます。  (λ) ひとことで言えば 《コミュニケーション不全》という状態です。これはみづからが人間でなくなろうとしているのではないか。こういううたがいであり――みなさんは こういった或る意味で究極の人間不信の状態に落ち入ったご経験はありますか?―― しかもその説得力のある説明がじゅうぶんできるという場合に ではどう対処していくのか これです。  よろしくどうぞ。

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 《わたしがわたしである》わたしがわたしする

     1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。    2. もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。    3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。  4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。    5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。    6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。    7. つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。    8. ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。    9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。    10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。  11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。善がひがみ ゆがむのみ。  12. 人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。  13. 善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。    14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の行為関係を共同自治して生きる。    15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。  16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛はあるか。    17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。  18. これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがある。  成否・当否を問います。  あるいは (18)以降を ご自分の見解で展開して行ってください。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。