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あなたは すくわれていますか

 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。  ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?    へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。  民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。  人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。  それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。  これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?  この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?  なぜ すなおでないのでしょう?

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  • easy_all
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回答No.68

No.55、59です。 > でも サルトルも >  ○ アンガージュマン >  ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神  の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから  > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。

noname#80116
質問者

補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。  あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。  実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。  専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。  紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。  ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)  ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。  ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ  ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり  ▲ 無内容であり  ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。  ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい  ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。  と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。  ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。  ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。  もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。  ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう  ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。  振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。  けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。

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その他の回答 (68)

回答No.18

 回答番号:No.17  謙虚であれ、と誰が他人に言う人がいますでしょう。  民主主義理論も実態が出来上がっているという認識はできません。  世界宗教というのはとてもおこがましいし、そういうしゅうきょうはとても危険です。害悪です。そんな造詣をどこの誰が深くしているのでしょう。気持ちの悪い話です。  どこの誰も、何についても一家言を持つことはできないでいる、お互い様です。と私は思っていますが。  共生思想も、ちからの素も誰もまだ培って来たとはいえないと存じます。  まことに不可思議な章句ではないかと思われて、何もコメントは出来ません。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  次の表現が 舌足らずだったようです。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただの一点に 問題点が凝縮しているとも考えました。  ○ 謙虚であれというとき 誰に対してなのか。  ○ 他者ないし相手に対して ではないのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →○ わたしは 自分に謙虚であれというとき それは どこまでも自分自身に誠実であることにおいてであるのか。それとも 自分の誠実さを 多少は――あそび(自由度)の範囲内で――抑えたり曲げたりしてでも 相手に対して 謙虚であることのほうが よいのではないか。  ○ それは 自分の訴えたいことを伝えるためにも 相手の意向に合わせて 謙虚であるとき 多少は 自分を高く持ち上げたり 自慢したり 悪役にまわったり いぢわるなことを言ったりしても それは 方便であるのではないか。  ☆ こういう意味でした。うまく伝わらなくて 残念でした。  よろしかったら あらためて どうぞ。

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回答No.17

 《なるほど。これまでのご回答群とは違って おのれの内面に すくいを宣言することを躊躇する要因があるというところでしょうか。  ○ 理解が とうてい 行き届かないと思えば 自信が出ない。  ☆ というところでしょうか。  でも こうは考えられませんか?   ○ ここまで来ることが出来た。ありがたい。この先にも おのれの無知を いやというほど 知らされる事態は どれだけでもあるだろう。それでいて ここまで来ることが出来た。これだけでも 自信になっている。ありがたいことだ。  ☆ といった境地です。  ★ そういうことを(* つまり 自信が出ないということを)、意識と観念、そしてあり方から取っ払ったら、多分みんな救われるも何も、創造者の、究極者の中にいるのだとわかるであろうし、そのいとしい大事なものだと理解できるのではないでしょうか?  ☆ ここですが わたしの考えでは  ○ 初めから 究極のすくいは 予感のうちにあると捉えていますから 現段階の境地とは 距離があるのは とうぜんだ。  ☆ と思っているわけです。この前提の上では いまこの未完成の境地であっても すくわれていると思うし 宣言するという意味になります。》  ○何かお応えしたいのですが、理解の外の事柄ばかりで、何もいえません。私は私の文章の中で、全てを申し上げておりますので。  それ以上でもそれ以下でもないのです。  ただ、宣言というのはいろんな段階で出来ますね。  そして最終的で、完璧な宣言はやはり相当高度に進歩しないと不可能なのは当然だと思います。  そして救われていると思うことも、いろんな次元、側面そして段階でありうることなのでしょうね。  どれがどうという評論は違う意識同士という存在はできないことではないでしょうか。  そして、いろんなことを高度に学び、精進し、出会うことのできることは相当恵まれているのだと存じますが。  そういうわけで この質問に関しましては きわめて 単純に 然りか否か 二者択一になっております。そうしても ばちは当たらないと思うのです。そういったマイナスの側面よりも プラスの側面のほうが うんと 多く出てくると思っています。  ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点もわかるし 出れば ただちに 直そうとします。  ☆ そして もう一点は この自己宣言を阻むものが じつは 外面にもあるのではないか そういう問題も考えております。広く人心操縦術(マインドコントロール)の問題です。あるいは 道徳規範は愚の骨頂の問題です。  謙虚が 人にとって すぐれて大切な徳であることに間違いないわけですが それを 利用しようとする魔の手も伸びているのではないでしょうか。ふつうの市民は 謙虚であれば 表も裏もありません。表も裏もあるえらい人びとの場合には 謙虚をおのれの地位の保守のために 利用している部分が 大きい。そういう問題があるように考えます。  つまり 自分も〔表では〕謙虚でいるから きみたちも 謙虚でいなさいという暗黙の訴えが 妙に 市民一般には 効いているように思われます。その内容じたいは実践道徳であることに間違いありませんが それが 聞く者にとっては 上から降りて来たばあい 変に 誘導するちからを持った規範となっている情況を見ようと わたしは しています。  このところ わたしのかかわる質疑応答において 退会やら わたしとの摩擦やらが 頻出しています。前者は 一たんのこととしては 二人ありました。後者は やはり 直近のこととして 三人です。後者は えらそうに述べるとしますと 見放しました。そんなところです。  問題は 謙虚であるかないかという観点とは 微妙に ちがって わたしという存在が 触媒になるかどうかだと考えます。わたし自身には 何の変わりもないのです。そんな情況が 現われて来ております。  《 * ★ これは単に私の考えであるに過ぎませんが。  ☆ この種の発言には むろん じつは 表と裏が――意識するかどうかにかかわりなく―― あります。根掘り葉掘りになりますが 一般論として 言えることだと考えます。  このように謙虚であろうとして 相手にも 謙虚でありなさいと言いつつ 行き着くところとしては わたし(つまり回答者)の回答に賛同しなさいという要求にまでなり得ます。そういう問題が すくわれていると言うか言わないかの分かれ目であるようにも思います。単刀直入は いつものことですので 断り書きすら述べませんでしたが。》  ○あぁ、そういうご理解のしかたもあるのですか。全く私には無関係の世界です。そんな意識も意図もありません。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  ただの一点に 問題点が凝縮しているとも考えました。  ○ 謙虚であれというとき 誰に対してなのか。  ○ 他者ないし相手に対して ではないのか。    ☆ けっこう重い質問に対して 回答を寄せるときには 《すくわれていると宣言しています》と言って 始めたほうが よりいっそう謙虚であるように考えます。  もし その宣言にまでは到らないというのであれば そのように その時の段階における境地であると表現すればよいわけです。  でも 五割かた出来たとか いま七合目だとか あまりそういう言い方は しないのではないでしょうか。やはり 宣言するか否か 二つに一つであるように考えます。  すなわち そうすれば 謙虚の裏側での訴えという側面が 消えます。  相手のためになると考えます。どうでしょうか。

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回答No.16

 brageloneさんが、別のご質問でどなたかをお叱りになっておられましたが、この質問では、私も叱られそうですが、みなさんのご回答に目を通しておりません。  “救われる”というのは、私の場合は根本的なことで判らなかったことや、誤解していたことについて、理解をさせてもらえた、そういう邂逅があった、あるということです。    そのほかには、やはり、自分はこうでありたい、幸福とはこういうものだ、救いとはこういうものだ、というようにいろんな意見や見解とその理解が固定観念や先入観念になっていることもあるので、そのために、自分はそうなっていない、と思っていることがあるのではないでしょうか?  そういうことを、意識と観念、そしてあり方から取っ払ったら、多分みんな救われるも何も、創造者の、究極者の中にいるのだとわかるであろうし、そのいとしい大事なものだと理解できるのではないでしょうか?  これは単に私の考えであるに過ぎませんが。

noname#80116
質問者

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。これまでのご回答群とは違って おのれの内面に すくいを宣言することを躊躇する要因があるというところでしょうか。  ○ 理解が とうてい 行き届かないと思えば 自信が出ない。  ☆ というところでしょうか。  でも こうは考えられませんか?   ○ ここまで来ることが出来た。ありがたい。この先にも おのれの無知を いやというほど 知らされる事態は どれだけでもあるだろう。それでいて ここまで来ることが出来た。これだけでも 自信になっている。ありがたいことだ。  ☆ といった境地です。  ★ そういうことを(* つまり 自信が出ないということを)、意識と観念、そしてあり方から取っ払ったら、多分みんな救われるも何も、創造者の、究極者の中にいるのだとわかるであろうし、そのいとしい大事なものだと理解できるのではないでしょうか?  ☆ ここですが わたしの考えでは  ○ 初めから 究極のすくいは 予感のうちにあると捉えていますから 現段階の境地とは 距離があるのは とうぜんだ。  ☆ と思っているわけです。この前提の上では いまこの未完成の境地であっても すくわれていると思うし 宣言するという意味になります。  そういうわけで この質問に関しましては きわめて 単純に 然りか否か 二者択一になっております。そうしても ばちは当たらないと思うのです。そういったマイナスの側面よりも プラスの側面のほうが うんと 多く出てくると思っています。  ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点もわかるし 出れば ただちに 直そうとします。  ☆ そして もう一点は この自己宣言を阻むものが じつは 外面にもあるのではないか そういう問題も考えております。広く人心操縦術(マインドコントロール)の問題です。あるいは 道徳規範は愚の骨頂の問題です。  謙虚が 人にとって すぐれて大切な徳であることに間違いないわけですが それを 利用しようとする魔の手も伸びているのではないでしょうか。ふつうの市民は 謙虚であれば 表も裏もありません。表も裏もあるえらい人びとの場合には 謙虚をおのれの地位の保守のために 利用している部分が 大きい。そういう問題があるように考えます。  つまり 自分も〔表では〕謙虚でいるから きみたちも 謙虚でいなさいという暗黙の訴えが 妙に 市民一般には 効いているように思われます。その内容じたいは実践道徳であることに間違いありませんが それが 聞く者にとっては 上から降りて来たばあい 変に 誘導するちからを持った規範となっている情況を見ようと わたしは しています。  このところ わたしのかかわる質疑応答において 退会やら わたしとの摩擦やらが 頻出しています。前者は 一たんのこととしては 二人ありました。後者は やはり 直近のこととして 三人です。後者は えらそうに述べるとしますと 見放しました。そんなところです。  問題は 謙虚であるかないかという観点とは 微妙に ちがって わたしという存在が 触媒になるかどうかだと考えます。わたし自身には 何の変わりもないのです。そんな情況が 現われて来ております。  不一にて。  * ★ これは単に私の考えであるに過ぎませんが。  ☆ この種の発言には むろん じつは 表と裏が――意識するかどうかにかかわりなく―― あります。根掘り葉掘りになりますが 一般論として 言えることだと考えます。  このように謙虚であろうとして 相手にも 謙虚でありなさいと言いつつ 行き着くところとしては わたし(つまり回答者)の回答に賛同しなさいという要求にまでなり得ます。そういう問題が すくわれていると言うか言わないかの分かれ目であるようにも思います。単刀直入は いつものことですので 断り書きすら述べませんでしたが。

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noname#82286
noname#82286
回答No.15

TENNTENNSEVENOKです 最近この名前長いので一回退会して別の名前にしようと思っているところです、それはさておき補足について  >・・・・この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか。  ☆ になりますね。ずばり この日本社会のひとつの欠陥であるように考えるのですが どうでしょう? >  まったくそうだと思います、欠陥として働く場合もあれば働かない場合もあるのが現状としてはありますが、>一つの欠陥として>現れてくることは否めないと思います >・・・・・・ これは けっきょく ふつうの市民のあいだで 出る杭を打つように 誘導しているお二階の人びとの傲慢なる高ぶりかつその地位にしがみつく執念のなせるわざである部分が 大きいと思われます。>  ご自身なにか統治者やお二階の人から不当な抑圧を掛けられた経験があるのでしょうか?まあいいんですけどwちょっと気になったもんで  話を先に進めますとおそらくまともな人間つまり世間一般的な気遣いが基盤になっているように思います、おそらくそれはあった方がいいしないとおそらく野獣化してしまう可能性があります、しかしご自身が仰るように統治者がその空気を無意識に利用して高慢になるというのは大いに可能性があり、いわゆるパワハラやモラルハラスメントもしくは不当解雇などのお二階さんによって高慢化が起こっているという現実は否めないと思いますし非常に許し難いと感じる人も多々いるのではないかと思います、そうなるとおそらく統治者によってもしくはお二階さんによってその質が違うという現象が発生していると思います    >ふつうの仲間のあいだでのごくふつうの嫉妬心も起きるのでしょうが 問題となるのは そういう横の嫉みではなく 縦の保守の精神――おれたちの統治する和が いちばんであると自慢するその体制の保守にいのちをかける――が もし 中身のない・ただのしがみつきであれば それは もはや 亡霊のごとくに その《歴史伝統的な人心操縦術(マインドコントロール)》の鬼火が 燃えているということではないでしょうか。>  まったく同感です   >☆ なぜ すなおでないのでしょう?>  なんというかわが身が大事ということが基盤になっているので、意を唱えるたくても唱えられないという現状がそうなるのでしょうね

noname#80116
質問者

補足

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。  浮かれてはいけないでしょうが なかなか 質疑応答は 佳境に入って来まして 質問者冥利に尽きるというものです。  ☆☆ お二階さんの話  ☆ が通じたのは これで三人目の方になるでしょうか。昨年の秋から お一人 お二人と来て たのもしい限りです。(ちなみに 自慢すれば わたしの造語です。誰れも使っていないと思います。まだ聞いたことはありません)。  さらに 造語があります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >☆ なぜ すなおでないのでしょう?>  なんというかわが身が大事ということが基盤になっているので、意(* また異)を唱えたくても唱えられないという現状がそうなるのでしょうね  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。わたしの見るところ まづ やはり そういうあたかも相互監視の目としての鬼火が そこここに 燃えているのだと思います。その中身はどうかと言いますと それは 人心操縦術の二つの類型になるのですが  (1) アマアガリ症候群にかかった人たちの心理作用  (2) アマテラス予備軍シンドロームに罹った人たちの心理作用  ☆ これらになると思われます。同じようなものですが 後者は アマアガリ(公民への出世)をしない場合でも お上に従順であるという場合です。  ★ ご自身なにか統治者やお二階の人から不当な抑圧を掛けられた経験があるのでしょうか?  ☆ えらい人たちとは 特に 面識もつながりもありません。不当な抑圧を受けたのは これら両症候群に罹った人によって 食い下がられ 長いあいだ 不必要なおつきあいを続けなければならなかったということがあります。具体的には 意識の排泄を 受け続けたというようなところでしょうか。去って行かなかったというところでしょうか。  昨今は 《お二階病》と言いますか アマテラス族症候群のその神話は 急速に 翳りを見せてまいりました。昔は おおやけの場では あるいは タテマエとしては ほとんど全員一致で お上に右へならえでしたから 多少とも反骨の波風を立たせようとしていたわたしは その主張が通らないどころか その主張する場さえ いっさい ありませんでした。  それというのも わたしは いっさい 学生運動もせず 相手に対して 反抗もせず すべて 一たん 相手と相手の言うことを受け容れて それから 批判の話をするものですから その頃には もう 取り合わなくなっているのです。相手方は あさってや おとといの話で お茶を濁しにかかります。噛み合わないったら ありはしません。  すみません。わたしのほうが 意識の排泄になってしまったなら ごめんなさいです。  とにかく 鬼火が燃えています。排泄された意識が 亡霊となってのごとく そこら中を 網の目のように たむろしつつ徘徊しています。  おそらく このような分析を みなの共同主観(コモンセンス)にすることができたなら この幽霊は そろそろ 成仏するようになるのではないでしょうか。つまり わたしたちは 《何もしないたたかい》で歩めば いいのだと思います。  まぁ お二階さんの中でも ふつうに まともな人びともいることでしょうから くちさがないわたしとしては ひとこと しおらしいことも述べておかねばいけないでしょうね。  出雲八重垣。

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回答No.14

maimai.susです。 いえいえ、真剣に考えての補足要求させてもらいました。 質問している事は、 >○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? で、No.7の回答させてもらって、その回答へのお礼が、答えを求めていると言うより、「自分は正しんだ。自分の望む答えしろよ。」って感じに、受け取れるんですよね。 だから、何の為の質問か理解する為に、補足要求させてもらった訳です。 そう、より理解する為の努力ですね。

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  ★ 答えを求めていると言うより、「自分は正しんだ。自分の望む答えしろよ。」って感じに、受け取れるんですよね。  ☆ この質問に その趣旨説明だけで 次のようなふたつの回答類型を寄せてもらえると思っていますという意味です。  (1) わたし(回答者)は 《すくわれるかどうか》に かかわらない。   (2) すくわれているが これこれの理由で そうは言わない。(ここには 《すくわれていない》ゆえという場合も入ります)。

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回答No.13

maimai.susです。 ???? 救われていると言う事に納得しろと言う事ですか? ・・・・・何の為に? 救われていると言うと何かが解決するのですか? えっ・・・・これはなんの為の質問何ですか?

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  そんなに めんどうな質問ですか。  きわめて簡単な問いですから   ○ この問いには 自分の考えは なじまない。  ☆ といったお答えと思い あきらめます。

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noname#82286
noname#82286
回答No.12

これね、結構難しいパラドックスだけど、おそらく以下の原理 ・自分のことを自分で自負するシーンを他者に見せる ・そのシーンに対して劣等感が沸かない人と劣等感が沸く人との両面現れてくる ・劣等感が沸く人はおそらく制裁してくるだろうと思い込む それが嫌なので自負をしたいが自負を避けるという現象 おそらくこれだと思う

noname#80116
質問者

お礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。  気持ちのとおりに表現しますと はあーあっ そんなからくりがあったのですか。  ★☆ (1)〔わたしは すくわれていると宣言すると それを聞いて〕劣等感が沸く人〔が いる〕。  (2) 〔そのような人〕はおそらく制裁してくるだろうと〔わたしは〕思い込む  ☆ (1)に対しては  ○ 先の者があとになり あとの者が先になる。  ☆ と言ってやるといいでしょうね。  (2)については 再考・再々考すれば 趣旨説明に触れようとしたように 思い当たる節がないではありません。  それは こうです。  これは その相手の人の問題ではなく むしろ こちらの側 わたしの問題であるように思えます。と まづ 言っておいて やはり この問題は 飛躍しますが  ☆☆ (趣旨説明) この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか。  ☆ になりますね。ずばり この日本社会のひとつの欠陥であるように考えるのですが どうでしょう? ほかの国については 知らないのですが 我が国では いわゆる足の引っ張り合いが起きるというそのことではないでしょうか。  これは けっきょく ふつうの市民のあいだで 出る杭を打つように 誘導しているお二階の人びとの傲慢なる高ぶりかつその地位にしがみつく執念のなせるわざである部分が 大きいと思われます。  ふつうの仲間のあいだでのごくふつうの嫉妬心も起きるのでしょうが 問題となるのは そういう横の嫉みではなく 縦の保守の精神――おれたちの統治する和が いちばんであると自慢するその体制の保守にいのちをかける――が もし 中身のない・ただのしがみつきであれば それは もはや 亡霊のごとくに その《歴史伝統的な人心操縦術(マインドコントロール)》の鬼火が 燃えているということではないでしょうか。  ☆ なぜ すなおでないのでしょう?

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回答No.11

そういえば、最近、駅近くで 「あなたは神を信じますか。悩みはありませんか。あなたは救われてますか。」 と聞かれることが、とんとなくなりましたね。 そう聞かれれば「敬虔に神を信じ、救われ、悩みは一切ありません。」と答えます。 楽園なんて、失楽園からしか見えないのに、ここは楽園、エデンの園ってね。 救世主は、政治家(思想)か、医者(科学)か、弁護士(法)か、証券(経済)か、はたまた聖戦(軍事)か・・・ 結果を予見できないまま危うい平衡状態から暴走する恐怖と残酷、そして平穏な日々の貪り。 ようこそ、極楽園へ。お代は見てのお帰りであ~る。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  いえいえ そうではなくて ですね   ★ 救世主や楽園  ☆ から自由になるところの《すくわれている》宣言なんですけれど 伝わりませんか?  ○ 救い  ☆ を もはや 脇に置いておいて 生活なり社会なりに向き合うことができる。という魂胆なんですけれど。そうはなりませんか?  ☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こちらのほうにも 焦点をあてています。  どうも 心づもりが うまく行かなかったようですね。考えてみてください。どういう信仰かどうかをいっさい問わず すくわれていると宣言するのですよ。救いの内容すら おのおの主観にまかせて その宣言から出発しようという試みなのですが あきませんか?

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  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.10

 ri-zyuです  ○ 自覚の有無を別とすることができるなら みな すくわれている。  ☆ というご回答になるぢゃないですか。そうですよね? 1、聴衆は救われたいから雲門の法話を聞きに来るのでしょうから、救われてないでしょ。しかし「雲門からすれば聴衆はすでに救われている」と諭したものだと思います。 >あとは どうなんでしょう? ひとから言われて はい 自覚しましたとも言えないというところでしょうか? 。。。 本人が救われた、或は自覚を得た、或は信仰を得てと思えば、別に言ってもいいのではないでしょうか?  本人が言ったからと言って他人がそれを聞いて救われる・自覚を得る・信仰を得るとは別ですよね。

noname#80116
質問者

お礼

 ri-zyuさん ご回答をありがとうございます。  ★ 本人が救われた、或は自覚を得た、或は信仰を得てと思えば、別に言ってもいいのではないでしょうか?    ☆ 《言える》 つまり 自覚を得れば ただちに 《言える》というご回答で よろしいですよね。分かりました。ありがとうございます。つまり 何か その宣言を阻むものがありはしないか このほうにも 焦点があったわけです。  ★ 本人が言ったからと言って他人がそれを聞いて救われる・自覚を得る・信仰を得るとは別ですよね。  ☆ もちろん そういうことです。    きわめて 単純な質問なんです。拍子ぬけになりましたか?  でも ありがとうございました。《宣言しうる》に一票でした。

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noname#117439
noname#117439
回答No.9

オコリザルです。 蛇足です。 >★ 〔悟りを待つ姿勢で 堂々めぐりを繰り返しながら〕 成仏を望まない心の前に「死」によって崩れていくより無かった本来の心があります。  ☆ この意味が取れません。単純に 死が 結論となってしまった。つまり 何も結論は出なかった。という意味なのでしょうか。まぁ これは有史以来の記憶に残る人類の生き様の話です。 繰り返してきた無念?のようなものへの弔いです。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これは有史以来の記憶に残る人類の生き様の話です。  繰り返してきた無念?のようなものへの弔いです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。ですが もしそうだとすれば  ★ 悟りを待つ / 成仏 / 本来の心  ☆ という言葉は   ○ すくわれること  ☆ に関係していることになりませんか? 関係していたとしても どうにもならなかったという意味でしょうか。  ★ 無念?のようなもの  ☆ だとすれば やはり 《すくわれること》は関係しているのではありませんか? 過去の死者も とうぜん 入りますが いま現在の人びとについて   ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?  ☆ という問いは かかわりませんか? どうですか?

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     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

  • 日本教について

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  § 5‐b 日本教について  この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。  ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99  (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。    (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。  (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。  (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。  (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。  (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。  その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。  (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。   おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。  KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。  (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。   【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】   【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】  (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。  (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。   ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~   ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの    ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本    と申す泥沼に敗れたのだ。   ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。    ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。   ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん    だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申    したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言    葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。   ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。  司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。   ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言    った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが    ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな    らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて    おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは     それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな    く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる    とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲    げてしまったのであろう。  基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。   ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支    丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では    もう捕える気もない。   ――なぜでございます――と通辞が聞くと   ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ    のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば    なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百    姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても    似つかぬものになっておる。  頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。   ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知    れぬものとなっていこう。  そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。   ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。  奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。  菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。      (遠藤週作:『沈黙』 IX)   cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか?  (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか?  (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか?    日本教・総本山     =シントウならびにシントウイズム     日本教・ブッダ派     日本教・キリスト派     日本教・マルクス派     日本教・新興宗教派(遺憾ながら)     ・・・・  (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか?  (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。

  • 《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?

     《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。  その文章を取り上げ 二件 問います。  ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から  ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~  http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。  一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。  仏教はこころの自由は大事にします。 故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。  人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。    「救う事」は非仏教的な行為です。    仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。    スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。    話を聞きたいと思う人には話せます。 自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。 放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。    地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。 人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。    仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。    生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。 経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。  終り。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?  ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。  ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに  「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。    ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A.投稿ありがとうございます。  批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。  しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。  世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。  その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。  「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。  キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。  しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。  とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。  A.Sumanasara  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?   《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?  《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?  テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

  • 曹洞宗は戦争をどう考えているのか?

    懺謝文を読んでいたら気になったので質問しますが、 曹洞宗は戦争についてどう考えているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~ 懺謝文 われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外開教の美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。また脱亜入欧のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。しかも仏教の教義にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。まことに恥ずべき行為というほかない。 われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔したいと思う。 しかし、それはかつて海外伝道に従事した人たちだけの責任ではない。日本の海外侵略に喝采をおくり、それを正当化してきた宗門全体の責任が問われるべきことはいうまでもない。 さらにまた、曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人びとの痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するかのような視点で執筆し出版したことを恥と感じる。 また同時に、このような書籍の出版が太平洋戦争後三十五年を経てなされたということについても、重大な罪の意識を感じざるをえない。何故ならばそれは、宗門が明治以後、ある時は国家に阿諛(あゆ)迎合し、ある時は積極的に国策に荷担して戦争協力を行い、アジアの民衆に塗炭の苦しみを強いてきたという事実について、なんら反省することもなく、その責任すらも感じていなかったということに他ならないからである。 「歴史とは、過去と現在の間の尽きることを知らない対話である」といったのは、歴史家E・H・カーであるが、遺憾ながらわが宗門はこの対話の努力を怠り、過去の歴史に今を問いかけ、過去の歴史に学びつつ自らの座標軸を糾そうとする姿勢を持つことなく今日に至った。われわれは一九四五年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。 曹洞宗は、遅きに失した感は免れぬとはいえ、あらためてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。 われわれは「戦争責任」の重大性を認識し、アジアの人びとの痛みの上に立って、一九八五年二月以来、『曹洞宗海外開教伝道史』の文言の一々について徹底した読み直しを開始し、同書の随所に「民族差別による差別表現」「国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」が見られ、同書が歴史の書として誤った歴史認識によって執筆されているのみならず、抑圧された人びとの人権の視点を欠いており、人権擁護を推進しようとするわが宗門の立場と相矛盾するものであることを確認し、同書を回収し、廃棄処分することとした。 また、われわれはこの書籍の誤った歴史認識と差別表現を指摘したが、それは同書の誤りを指摘するのみでなく、歴史への反省を怠り、戦争責任を回避してきたわが宗門、及びわれわれ全宗門人にこそ向けられるべきことはいうまでもない。 思うに、仏教は、すべての人間が仏子として平等であり、如何なる理由によろうとも他によって毀損だれてはならぬ尊厳性を生きるものである、と説く。しかるにその釈尊の法脈を嗣受することを信仰の帰趨とするわが宗門が、アジアの他の民族を侵略する戦争を聖戦として肯定し、積極的な協 力を行った。 特に朝鮮・韓半島においては、日本は王妃暗殺という暴挙を犯し、李朝朝鮮を属国化し、ついには日韓併合により一つの国家と民衆を抹殺してしまったのであるが、わが宗門はその先兵となって朝鮮民族のわが国への同化を図り、皇民化政策推進の担い手となった。 人が人として存在する時、人は常に自らの帰属する場所を求めずにおかない。家族、言語、民族、国家、国土、文化、信仰等、自らが帰属するアイデンティティーを保障されるとき、人は安息を覚える。アイデンティティーは人間の尊厳を保証するものなのである。しかるに皇民化政策は、朝鮮民族の国家を奪い、言語を奪い、創氏改名と称して民族文化に根ざした個人の名前までも奪い去った。曹洞宗をはじめとする日本の宗教は、その蛮行を宗教により正当化する役掌を担った。 また、中国においては、宗門が侵略下における民衆の宣撫工作を担当し、中には率先して特務機関に接触しスパイ活動を行った僧侶さえいた。 仏教を国策という世法に隷属せしめ、更に、他の民族の尊厳性とアイデンティティーを奪い去るという二重の過ちを犯していたのである。 われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。 人は、何人といえども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。人は、かけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。それは国家においても、民族においても同じである。 また、人も、民族も、それ自体で独立した存在として、他の侵犯を拒絶するものであるが、一方、それ自体が、個として独立的に存在し得るものではない。人も国家も、相互依存的関係の中においてのみ存在し得るものである。 通信や交通の技術が進歩して地球が狭隘(きょうあい)化し、政治や経済が国際化した今日、地球は一つの共同体であることを明らかにしてきた。仏教のいうすべての存在の「縁起」性があらためて確かなものとなってきたのである。 人も、国家も、民族も、それが「縁起」的存在として、他との相互依存性の中に存在するとすれば、他を侵すということは、自らの存在の一部を否定するということである。自らの存在の根拠を侵すということである。 故に、仏教においては、他との共生は必然である。他との共存こそが自らの生きる根拠なのである。自を見つめ、自を律し、他と共に生き、他と共に学ぶ生き方こそ仏教の平和思想なのである。われわれは過去において、この視座を見失い、仏教と遠く離れた位置にあった。 ある一つの思想が、ある一つの信仰が、たとえいかような美しい装いを凝らし、たとえどのように完ぺきな理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を拒否するとするならば、われわれはそれに組みしないであろう。むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶであろう。 人のいのちの尊厳性は、それらを越えてはるかに厳粛なものだからである。 われわれは、重ねて誓う。二度と同じ過ちを犯さない、と。そして、過去の日本の圧政に苦しんだアジアの人びとに深く謝罪し、権力に組みして加害者の側に立って開教にのぞんだ曹洞宗の海外伝道の過ちを心より謝罪するものである。 一九九二年十一月二十日 曹洞宗宗務総長 大竹 明彦 http://www.sotozen-net.or.jp/wp2/wp-content/uploads/2012/12/sanjyamon_20121206.pdf