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あなたは すくわれていますか

 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。  ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?    へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。  民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。  人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。  それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。  これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?  この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?  なぜ すなおでないのでしょう?

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  • easy_all
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回答No.68

No.55、59です。 > でも サルトルも >  ○ アンガージュマン >  ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神  の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから  > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。

noname#80116
質問者

補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。  あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。  実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。  専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。  紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。  ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)  ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。  ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ  ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり  ▲ 無内容であり  ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。  ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい  ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。  と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。  ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。  ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。  もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。  ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう  ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。  振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。  けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。

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その他の回答 (68)

noname#117439
noname#117439
回答No.8

オコリザルです。 そもそも責任と尊厳ある自己に対して何者が救うなどという過分なはからいをするのか? 大半の人が信仰を表ざたにしても恥じないからには、そのようなはからいがいずこからかまいこむでしょうが、それは神聖な存在の望みなのか、それとも自らの望みなのか、はからいとして受け取るならそれは従うことではないでしょう。ならば救われる事を受けとるのは神の存在を受け入れることですね。その神に要求を突きつけるとりすがりは実際に信仰に隠れて横行しています。 また、正気の人間なら人を救うなど及びもつきません。 私には救われたいという望みはありませんので、救われたが、がわからないんです。交錯する欲望がそのような閉塞を招いています。 ただエスパー化または新人類化した自分自身をもてあましています。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  まづ あらためて 問いは 次です。  ☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  単純に考えてください。《すくわれているか 否か》 二つに一つ という選択です。理屈無しで そういう問いかけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだけです。  ところが 今回は 次のような事情を表明されました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私には救われたいという望みはありませんので、救われたが、がわからないんです。交錯する欲望がそのような閉塞を招いています。  ただエスパー化または新人類化した自分自身をもてあましています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《すくわれている》かどうかは 関係ないというところでしょうか。ただし この《〈すくわれている〉かどうかは 関係ない》というのは  ★ 交錯する欲望がそのような閉塞を招いています。  ☆ ということでしたら 《関係するようになる可能性が ある》ということでしょうか。それとも  ★ ただエスパー化または新人類化した自分自身をもてあましています。  ☆ ということで やはり 可能性も 見えないのでしょうか。  今回は だからどうしようというのではないですから 分かりました。そのように受け取りましたというお応えまでになります。どうでしょう。

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回答No.7

maimai.susです。 >思う場合には たぶん そう(=すくわれていると)は言わないと一般に思われるのですが それはなぜですかという問いです。 一般的にはこんなところだと思いますよ。  (1) 単に気付かない。  (2) 救われたいと思っていない。(苦しんだり、助けを求めたりしていない) 個人的には(2)ですかね。本当の意味での強さは欲しいと思いますが。何かに救われたいとは思っていません。 「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけ。」 ですから。 弱さは、ある意味「悪」の元です。brageloneさん流に言えば維持向上が善であるなら、それが弱いゆえに出来ない事があるからです。

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  分かったように思いますが まだ分からない部分があるようにも思います。  まづ  ★ (1) 単に気付かない。  ☆ は 捨ててください。そういう場合もあるでしょうが もし《救い》という言葉だけでも聞いたなら 《自分は救われているか》という自問自答は すると思われます。  ★ (2) 救われたいと思っていない。(苦しんだり、助けを求めたりしていない)  ☆ これも (1)のいわば変形だと思われ そういう場合もあるとすれば それは捨ててもらって あと 何らかのかたちで 自問自答したときの答えをおしえていただきたいと考えます。  それは ことさら 違ったことを言おうとしているのではなく  ★ 「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけ。」ですから。  ☆ というのであれば やはり《救い》には すでに 関係しているはづです。その意味は おそらく こうであろうと思われます。つまり誰が救おうと 誰によって何によって救われようと 自分が救われているかどうかは ほんとうのところは 自分がいちばんよく知っている。ただ それを ひとに言うか言わないかは 別である。こうなのではないですか?  それなら それで 仕方がないわけです。  問題は いづれにしても すでに宣言してもいいところを 何かに遠慮して 言うことを控えるというのであれば それは おかしい。そのような事態だけは 避けたい。というだけのことなのです。  ですから まとめるなら  (あ) すくわれているにしろ いないにしろ よく分からなかったり 自覚し得なかったりするのは なぜか。  (い) 自己分析や自覚ができたなら 宣言すればいいのではないか。しない理由はないはづだ。  ☆ こういったことを 問うています。あらためて どうでしょうか。 

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noname#77239
noname#77239
回答No.6

私がまさしくそうなんですが、悲観的な見方をしているのかもしれませんね。それで救われているとは感じない。 高校のときに倫理をやって、確か欲求には順番がありその順に求めると言う説をやりましたっけ。 最初は生存、最後は名誉だっけ。 それを見て、人はずっと何かしら求めて、何かについて思い悩む運命なんだなと思いました。 何かが解決しても、目を向けるべき問題や心配事は他にいろいろあるわけです。 救われていないと口で言っている時点で、第一の生存欲は満たせているとも言えるんですけどね。 人それぞれ思い悩むことは当然なので、誰かのせいのようには言わないけど。 また。 100の努力をした。希望は90近くだったが手に入ったのは5だった。 これを5しか手に入らなかったと考えるか、5の結果が現れたと考えるかでも、世の中の見え方が変わってくるかと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 engekiさん ご回答をありがとうございます。  初めのほうの 欲求の段階説 これは たしか 自己実現にまで到るなどなどの順番づけでしたね。  全体として捉えるだとか あるいは ものごとは最後から始めるだとか そういう見方も ほかに あるには あるのですがね。  ★ 悲観的な見方  ☆ に傾きがちということのようですね。たしかに その側面は つねにと言っていいほど ありますし 一時期には 日本人は つねに 自身が どう見られているかが気になり いつでも 自身の粗(あら)を自分から探している民族だとも言われていました。まだ だめか これでも だめだろうかと つねに 悲観のほうに回るというようなことでした。  でも 最後のところで どんでん返しに近い見方も 出しておられますね。そうして 少しは 楽観のほうに 振り子を戻しても まだ 中庸のあたりであるかも知れません。ですから すくわれていると宣言して進んでも いいように思えるのですが どうなんでしょうかねぇ。  ありがとうございました。

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回答No.5

maimai.susです。    >○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? と言うのが質問ですよね。って事はー(すくわれているとは言わない人)の話ですよね。ですから、分かりやすく言うと、 そう思っていないから。 って言いたかった、訳ですね。 正直、質問での内容では「救われている理由」になりえるとは思えないのですが・・・・。 そもそも、何に、救われているんですか?

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  ★ 正直、質問での内容では「救われている理由」になりえるとは思えないので〔・・・〕  ★ そう(* つまりは すくわれていると)思っていないから。 / って言いたかった、訳ですね。  ☆ つまりは  ○ すくわれていない。   ☆ というお答えでしょうか。それなら それで かまいません。そういうお答えも お受けします。  それでも 次のようにも 問い返してもらっています。  ★ そもそも、何に、救われているんですか?  ☆ 何にでも かまいません。自分が すくわれていると思うか思わないかです。  思う場合には たぶん そう(=すくわれていると)は言わないと一般に思われるのですが それはなぜですかという問いです。

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noname#122427
noname#122427
回答No.4

おはようございます。 何故か目覚めてしまって、こんな事を。。。汗 自分の質問への返信が遅れていながらの回答はマナー違反と自覚しておりますが、お許し下さい。 >ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? >なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? 私の勝手な考えとしては、 1)「貨幣経済の目くらまし」 2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り かなあ。。。と。 (bragelone様の深いお考えには及ばずながら、私も同じ事を疑問に持った事がありまして、今の所、このような仮説になっております。) 1)貨幣経済の目くらまし 常に何か(この場合は貨幣)を「媒介する」事に慣れ、「何かを媒介しないやり取り/行為』に「気付き難くなって」いる。 元々(古代/原始)は、モノも心も「直接のやり取り」だった筈なのに、貨幣経済が生まれ、根付き、身に沁みてしまった現代、「物事は必ず何かを媒介する」と「思い込んでしまっている」事による目くらまし。 或は、常に貨幣と言う「逆方向への流れ」を具体的に目にする事に慣れてしまった事による目くらまし。 物事(心を含む)のやり取りは常に「逆方向への流れを伴う」。 この「逆方向への流れ」とは、経済としては「貨幣」だが、元々は「感謝そのもの」であった筈。 目に見える貨幣と言うモノにくらまされて、目に見えない「感謝(心)」を見る力が弱まっている。 2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り 競争社会となって久しく(本当かな?)、そのように「意識/理論化」されてしばらく経ち(アダム・スミス辺りから、でしょうか?)、「己の能力に依って勝ち取る」事が意識の主流となってしまった。 本来、同等に価値ある行為と思われる「与えられる」事が、競争社会に於いては無償の行為(そんな筈は無いのだけれど)/気まぐれ行為と過度に軽視される状況にある。 これには、1)の「貨幣経済の目くらまし」も一役買ってしまっていると思われる。 寝惚けた頭のままでの回答となり、言葉足らずの箇所が多いと思いますが、昼間は投稿出来そうに無かったので前倒しになりました。 「穴」のご指摘、お願いします!

noname#80116
質問者

お礼

 お詫びしつつ 訂正いたします。  ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1)「貨幣経済の目くらまし」  2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このご回答は たしかに 現代社会における一人ひとりの人間の心のあり方が どのように傾いているのかを分析するという微分による手法に感じられますが だからと言って その分析だけを回答内容としているわけではなく そうではなく すでに   ★ 目くらまし  ☆ と指摘しているからには   ○ 自覚の問題  ☆ にも じゅうぶん 触れておられます。花や実だけではなく 幹も根も すべて木の全体を捉えておられます。すなわち それこそ 心の持ちようで すでに すくわれているというその生の享受を ただちに 持ち得るとその分析の先を見据えておられます。    あぁ やっちゃいました。守勢になったからでしょうか そう思ったところからでしょうか。こんな片寄った見方をしてしまいました。  もっと言えば 先の者とあとの者との関係として 眺めてしまっていたからでしょうか。何か恰好をつけて 鼓舞するというような姿勢を持ってしまっていたのでしょうか。  まちがいを侵しました。歳はとりたくないものですね とは言わずに またさらに 若返ります。ので このあやまちを どうか おゆるしくださいませ。お詫び申し上げます。  詫び続けております。どうか ありのままを捉えて その欠陥を憎んでください。徹底的に憎んでください。精進してまいります。

noname#80116
質問者

補足

 yukkinn66さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  このご投稿をもって yukkinn66さんも この哲学範疇でのご常連になられたのではないでしょうか。もちろん 外れても・外してもいいわけですが 本源的蓄積がお有りのようですね。  ○ 商品化からさらに物象化という社会現象  ○ それと 思考こそが自己の存在であるという信念(?)。もしくは 知は力なり(ベーコンだったか誰だったか)。  ☆ という事態が優勢であるという解釈に わたしの中では なります。  これは 微分であると まづ 直感(感のほうです)しました。その意味は 積分だかどうだか分かりませんが その反面では パスカルではないでしょうが 《賭け》という契機も あるだろうと――つまりは 理屈抜きに えいやっと どちらかに決める判断も あるだろうと――は思いました。  その昔 隣り村から 長老の使いがやって来て 獲物なり勾玉なりを贈り物として 持って来た。感謝の心をもって 受け取り しかも 自尊心からか こちらも それ相応のもの(というより さらにとうといと思われるもの)を 贈り返して 使いを帰らせた。  隣り村の長は 共存共栄を願い 心を込めて 贈り物をしたはづのところ  ★ 「逆方向への流れ」  ☆ が かなしいかな すでに 始まっていた。平等・対等という心は 現実に 根づかないのかというところです。  その昔 村の内では 獲物なり もしすでに農耕を始めていたのなら 作物を――いわゆる初穂を―― かみにまつり かみとともに 村人たちは 共食することをとおして 〔けんかをしつつの〕安寧のもとに共生していた。  おそらく 生産力の格差は まだ 祭りの共生のもとに 分かち合われていたのであろう。  やがて 隣りの村が気になる。同じ村の人間であるなら 《わたし》たちは まだ 総体としての村の《わたしたち》の中のそれぞれ《わたし》であった。ところが 隣り村やその人間のことを考えると ひとりの個としてのわたしに 目覚めた人間が出たかも知れない。  この《ひとり》としての己れの存在への目ざめが 贈り物を受けて 心から感謝すると同時に それを上回るようなお返しをする心をも 芽生えさせた。  やがて――端折りますが―― この《わたし》は 村々をたばねて 平面的なムラの《まつり(神との共食をとおしての共同自治)》から 構造的な二階建ての家のようなその第二階から 垂直的に 《まつりごと(政治)》をおこなうという社会と世界を作り出し作り上げた。  ○ 贈り物あるいは 互いに融通を図るモノのやり取りから やがて 貨幣経済へと突入した。  ○ 《わたし》は 経験合理性を使いこなすだけではなく その合理性にもとづく妥当な思惟によって作り上げた観念の城を 自己自身だと思うようになった。  ○ 性も 〔占いやスピリチュアルにおいて〕幸福も不幸も 人びとが 貨幣を媒介として交通するという形態において 商品と化しただけではなく その貨幣媒介ないし商品化という事態に馴れて  ★ 「物事は必ず何かを媒介する」と「思い込んでしまっている」  ☆ なる物象化が 起こった。心も愛も性も モノをやり取りする現象と同じ次元の同じ事態であると「思い込んでしまっている」。地獄の沙汰も何とかで 媒介物として先立つものがないのではなぁということのようです。媒介物をとおしてでなければ こころの通わせが出来なくなるだけではなく こころ自体が モノの現象と化す(!?)。  《わたし》の合理的経済人化(その理性の神格化) および 心のモノ化 これらの分析を わざわざ 微分のようだと感じたそのわけは どうでしょう。この現象を  ★ 目くらまし  ☆ だと ひとは ただちに分かる精神ないし心を持ち合わせているからでしょうか。その意味では――何か 貴重な成果に 不当なけちをつけているという声を聞いているのですが―― No.2のri-zyuさんの  ● 自覚の有無  ☆ の問題と呼応すると思われます。むろん この微分が 哲学の花であり実であります。つまりその点では ri-zyuさんにはわるいですが ブッディスムには信用しがたい側面があるように思っております。不立文字は ただ 心の中だけで 持っていて欲しいと思うものです。  考えてみれば   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1)「貨幣経済の目くらまし」  2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら二つの主題は それだけで 大論文を必要とするほどの内容になるかと思います。  分かったように言っているわたしですが このあとの展開は 若い方々に押しつけたいと思うのですが いかがでしょう。

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noname#117439
noname#117439
回答No.3

いつもお世話になります。 primeapeことポケモンのオコリザルです。 自らはすくわれているにも等しくありながら、人間としての尊厳ある他者が未だそのように悟り?(このくらいくだらないんです)得ていないのなら、ただ待ちます。他者を認めるなら救うとは及びも付きません。 内面においてはこの待つ姿勢に葛藤なり迷いなりが生じます。 このような煩悩は(自覚があるならば)未だ迷う他者が悟りえるために益のあることですが、所詮は同じ煩悩です。 そのような堂々巡りを繰り返しながら、成仏を望まない心の前に「死」によって崩れていくより無かった本来の心があります。 繰り返してきた心の深層の歴史はそんなところです。 それでも前進はしているでしょう。 何を持って救われているとするかも見解が色々あるでしょう。 わたしはあたまを真っ白に出来ることを自慢していますが、これは気分転換的な特技でしかなく、そんな奇人変人大集合を紹介しているのは、それだけで救われえること、又は悟りえることの証明と解釈するアホウが多いモンで煙に巻いているだけです。その代わり余計な説明が要らなくなるモンで一時そんな楽チンをしていました。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん 仕切り直して ご回答をありがとうございます。  ★ 自らはすくわれているにも等しくありながら、人間としての尊厳ある他者が未だそのように悟り?(このくらいくだらないんです)得ていないのなら、ただ待ちます。他者を認めるなら救うとは及びも付きません。  ☆ もし 他者に はたらきかけることを言っておられるのであれば この質問は 別です。  まづ 自己のことです。言いかえると ほかの人びとにもかかわるのですが その人びとの状態について 自己は どう捉えているか。この問いです。はたらきかけは そのあとのことです。  ★ 〔悟りを待つ姿勢で 堂々めぐりを繰り返しながら〕 成仏を望まない心の前に「死」によって崩れていくより無かった本来の心があります。  ☆ この意味が取れません。単純に 死が 結論となってしまった。つまり 何も結論は出なかった。という意味なのでしょうか。まぁ  ★ それでも 前進はしているでしょう。  ☆ ということで よかったと言えば よかったのですが。  ★ 何を持って救われているとするかも見解が色々あるでしょう。  ☆ これはですね 単純に考えてください。《すくわれているか 否か》 二つに一つ という選択です。理屈無しで そういう問いかけです。どうでしょうか。

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  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.2

自覚を得てないからではないでしょうか。 前もお話ししまたか、雲門禅師と言う人が法話の折、聴衆に向かってあなた方は全て備わっている、何も足りぬものは無い。 聴衆は自覚を得てない、雲門は自覚を得ている。

noname#80116
質問者

お礼

 ri-zyuさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  あぁ  ★ 自覚  ☆ の問題ですか。えぇっ? ぢゃあ そうだとすれば  ○ 自覚の有無を別とすることができるなら みな すくわれている。  ☆ というご回答になるぢゃないですか。そうですよね?  あとは どうなんでしょう? ひとから言われて はい 自覚しましたとも言えないというところでしょうか?  ここの回答を見ても 自信をもって 述べていらっしゃいますよね。みなさん。ならば そういうとき 質問の性格によっては わたしはすくわれていると(――つまり または そういう意味合いのことを――) ひとこと 添えておけば その回答が 全体として 完結するように思われる場合というのは けっこう 多いように思うのです。自覚を そういう場合には 半分している つまり 半分しか 自覚していない のでしょうか?  きちんと 表現しよう運動をするとよいと思うのですが? 質問者も 補足要求などで さらに一段と突っ込んで 話を進めることができるのではないでしょうか? 日本人も そのようにしても 何も恥ずかしくないだろうし むしろ そうすべきようにも思うのですが?  何か それを憚られるという要因などありますでしょうか? 世間の何となくといった空気なのでしょうか? 積極性への運動は どうでしょう。

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回答No.1

どーも、何時もお世話になってます、maimai.susです。 そこは、本人がそう思えなければ、いくら恵まれた環境に、有っても、救われたとは思えないのは仕方ないことだと思いますよ。 どんな環境にいても、それなりの苦労や悩みが付き物ですしね。 ま、良く捉えれば、前向き、悪く捉えれば、悪い意味でのわがままとも受け取れるね。 同じ事していても、気持ちが違えば、よくも悪くもなるし。 そう言えば昔、学校の先生が、 「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけだ。」 って言っていたなー。その時、「たまには、ええこと言うなー」と思った記憶があります。 心の話なんで、何とも言えない部分がありますが。これ、生活的、肉体的部分の話となるとまた、話は違ってくるかもね。

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん こんばんは。仕切り直しで ご回答をありがとうございます。  そうですね。煮え切らない と言っちゃ いけないでしょうけれど つまり そういうほど 実際には 複雑な問題があると言わねばならないでしょうけれど えいやっと どちらかに決まりませんか?  賭け といっては また まずいでしょうが もしすくわれていないなら そう はっきり 言うことはできませんか?  つまりは すくわれている。ただし まだまだ 細かいところでは 調整中である。とか  あるいは すくわれていない。もう少しだが 残念ながら まだなんです。とか。  どちらかに まづは 決めて そのあと 条件づけが付属していても構わないのですけれど。  この側面では こちら あの側面では あちらと言うんぢゃ なんとも お応えのしようがなくなります。  そうですか。特に 何かに遠慮して 言うのを控えているというのではないのですね。ぢゃあ 仕方ないですね。  わかりました。それでは。

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     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

  • 日本教について

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  § 5‐b 日本教について  この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。  ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99  (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。    (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。  (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。  (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。  (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。  (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。  その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。  (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。   おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。  KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。  (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。   【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】   【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】  (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。  (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。   ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~   ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの    ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本    と申す泥沼に敗れたのだ。   ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。    ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。   ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん    だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申    したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言    葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。   ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。  司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。   ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言    った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが    ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな    らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて    おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは     それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな    く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる    とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲    げてしまったのであろう。  基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。   ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支    丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では    もう捕える気もない。   ――なぜでございます――と通辞が聞くと   ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ    のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば    なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百    姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても    似つかぬものになっておる。  頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。   ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知    れぬものとなっていこう。  そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。   ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。  奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。  菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。      (遠藤週作:『沈黙』 IX)   cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか?  (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか?  (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか?    日本教・総本山     =シントウならびにシントウイズム     日本教・ブッダ派     日本教・キリスト派     日本教・マルクス派     日本教・新興宗教派(遺憾ながら)     ・・・・  (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか?  (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。

  • 《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?

     《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。  その文章を取り上げ 二件 問います。  ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から  ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~  http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。  一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。  仏教はこころの自由は大事にします。 故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。  人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。    「救う事」は非仏教的な行為です。    仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。    スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。    話を聞きたいと思う人には話せます。 自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。 放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。    地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。 人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。    仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。    生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。 経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。  終り。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?  ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。  ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに  「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。    ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A.投稿ありがとうございます。  批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。  しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。  世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。  その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。  「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。  キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。  しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。  とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。  A.Sumanasara  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?   《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?  《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?  テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

  • 曹洞宗は戦争をどう考えているのか?

    懺謝文を読んでいたら気になったので質問しますが、 曹洞宗は戦争についてどう考えているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~ 懺謝文 われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外開教の美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。また脱亜入欧のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。しかも仏教の教義にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。まことに恥ずべき行為というほかない。 われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔したいと思う。 しかし、それはかつて海外伝道に従事した人たちだけの責任ではない。日本の海外侵略に喝采をおくり、それを正当化してきた宗門全体の責任が問われるべきことはいうまでもない。 さらにまた、曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人びとの痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するかのような視点で執筆し出版したことを恥と感じる。 また同時に、このような書籍の出版が太平洋戦争後三十五年を経てなされたということについても、重大な罪の意識を感じざるをえない。何故ならばそれは、宗門が明治以後、ある時は国家に阿諛(あゆ)迎合し、ある時は積極的に国策に荷担して戦争協力を行い、アジアの民衆に塗炭の苦しみを強いてきたという事実について、なんら反省することもなく、その責任すらも感じていなかったということに他ならないからである。 「歴史とは、過去と現在の間の尽きることを知らない対話である」といったのは、歴史家E・H・カーであるが、遺憾ながらわが宗門はこの対話の努力を怠り、過去の歴史に今を問いかけ、過去の歴史に学びつつ自らの座標軸を糾そうとする姿勢を持つことなく今日に至った。われわれは一九四五年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。 曹洞宗は、遅きに失した感は免れぬとはいえ、あらためてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。 われわれは「戦争責任」の重大性を認識し、アジアの人びとの痛みの上に立って、一九八五年二月以来、『曹洞宗海外開教伝道史』の文言の一々について徹底した読み直しを開始し、同書の随所に「民族差別による差別表現」「国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」が見られ、同書が歴史の書として誤った歴史認識によって執筆されているのみならず、抑圧された人びとの人権の視点を欠いており、人権擁護を推進しようとするわが宗門の立場と相矛盾するものであることを確認し、同書を回収し、廃棄処分することとした。 また、われわれはこの書籍の誤った歴史認識と差別表現を指摘したが、それは同書の誤りを指摘するのみでなく、歴史への反省を怠り、戦争責任を回避してきたわが宗門、及びわれわれ全宗門人にこそ向けられるべきことはいうまでもない。 思うに、仏教は、すべての人間が仏子として平等であり、如何なる理由によろうとも他によって毀損だれてはならぬ尊厳性を生きるものである、と説く。しかるにその釈尊の法脈を嗣受することを信仰の帰趨とするわが宗門が、アジアの他の民族を侵略する戦争を聖戦として肯定し、積極的な協 力を行った。 特に朝鮮・韓半島においては、日本は王妃暗殺という暴挙を犯し、李朝朝鮮を属国化し、ついには日韓併合により一つの国家と民衆を抹殺してしまったのであるが、わが宗門はその先兵となって朝鮮民族のわが国への同化を図り、皇民化政策推進の担い手となった。 人が人として存在する時、人は常に自らの帰属する場所を求めずにおかない。家族、言語、民族、国家、国土、文化、信仰等、自らが帰属するアイデンティティーを保障されるとき、人は安息を覚える。アイデンティティーは人間の尊厳を保証するものなのである。しかるに皇民化政策は、朝鮮民族の国家を奪い、言語を奪い、創氏改名と称して民族文化に根ざした個人の名前までも奪い去った。曹洞宗をはじめとする日本の宗教は、その蛮行を宗教により正当化する役掌を担った。 また、中国においては、宗門が侵略下における民衆の宣撫工作を担当し、中には率先して特務機関に接触しスパイ活動を行った僧侶さえいた。 仏教を国策という世法に隷属せしめ、更に、他の民族の尊厳性とアイデンティティーを奪い去るという二重の過ちを犯していたのである。 われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。 人は、何人といえども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。人は、かけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。それは国家においても、民族においても同じである。 また、人も、民族も、それ自体で独立した存在として、他の侵犯を拒絶するものであるが、一方、それ自体が、個として独立的に存在し得るものではない。人も国家も、相互依存的関係の中においてのみ存在し得るものである。 通信や交通の技術が進歩して地球が狭隘(きょうあい)化し、政治や経済が国際化した今日、地球は一つの共同体であることを明らかにしてきた。仏教のいうすべての存在の「縁起」性があらためて確かなものとなってきたのである。 人も、国家も、民族も、それが「縁起」的存在として、他との相互依存性の中に存在するとすれば、他を侵すということは、自らの存在の一部を否定するということである。自らの存在の根拠を侵すということである。 故に、仏教においては、他との共生は必然である。他との共存こそが自らの生きる根拠なのである。自を見つめ、自を律し、他と共に生き、他と共に学ぶ生き方こそ仏教の平和思想なのである。われわれは過去において、この視座を見失い、仏教と遠く離れた位置にあった。 ある一つの思想が、ある一つの信仰が、たとえいかような美しい装いを凝らし、たとえどのように完ぺきな理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を拒否するとするならば、われわれはそれに組みしないであろう。むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶであろう。 人のいのちの尊厳性は、それらを越えてはるかに厳粛なものだからである。 われわれは、重ねて誓う。二度と同じ過ちを犯さない、と。そして、過去の日本の圧政に苦しんだアジアの人びとに深く謝罪し、権力に組みして加害者の側に立って開教にのぞんだ曹洞宗の海外伝道の過ちを心より謝罪するものである。 一九九二年十一月二十日 曹洞宗宗務総長 大竹 明彦 http://www.sotozen-net.or.jp/wp2/wp-content/uploads/2012/12/sanjyamon_20121206.pdf