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あなたは すくわれていますか

 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。  ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?    へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。  民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。  人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。  それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。  これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?  この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?  なぜ すなおでないのでしょう?

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  • easy_all
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回答No.68

No.55、59です。 > でも サルトルも >  ○ アンガージュマン >  ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神  の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから  > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。

noname#80116
質問者

補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。  あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。  実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。  専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。  紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。  ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)  ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。  ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ  ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり  ▲ 無内容であり  ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。  ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい  ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。  と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。  ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。  ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。  もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。  ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう  ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。  振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。  けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。

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その他の回答 (68)

noname#82286
noname#82286
回答No.58

>このことを わたしは TENNTENNSEVENOKさんのご議論に合わせて 表現しているのだぞと言えば それは おのれを大きく見せようとする高ぶりになるのでしょう。>  なんでこの議論で僕がでてくるのかよくわかりませんが、内容が自分勝手で自己中心的になりたいが故に反論に明らからに理屈になってないことを言及し偽りの虚勢を張りるようなガキレベルの行動がでれば退散しようかなと思うところですが今のところぎりぎりそうでないのでもうすこし >しかも とは言っても 高ぶりによって そう言っているのでもない場合も あるのではないでしょうか。ただ 高慢であると見えているだけかも知れません。わざと 高慢な態度を取っているだけかも知れません。表現は 自己表現と言いますから そこに 自己が著わされていることに間違いないでしょうが 言葉どおりの内容であるかどうかは まだまだ問い求めの余地があるのではないでしょうか。>  まさにそうです、そう見える場合もあるということだと思います 大まかに分けると ・自負したいが故に控えてあたかもすばらしいかのように見せる ・自負する目的はないが単純に表に出していないだけ ・表に出していないのを受け手があたかも相手は自負していると思い込む場合 ・自負することが目的ではないが自負することによるレスポンスや自分の心の変化に対するなにか(「自分が高慢になってだめになってしまうのではないか」「本当は確かなものではないのではないだろうかと気がついてしまう」etc)が怖い この辺だろうと思うところです >こうやって わたしは そうとう TENNTENNSEVENOKさんのご議論をもてあそんでいます。はっきり告白します。告白しておきます。> そうですか、でしたらそろそろ退散しようかなw

noname#80116
質問者

お礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしが楯つくのは 回答者に対して 質問者は へりくだって 応答すべきだという意図を わたしは あなたの文章に 見てしまうからです。  質問の本筋では ありがたいご回答を得ているのですが そのほかのところで ひっかかりがあるようなのです。  ☆☆ わたし( bragelone )の文章は 《中身のない感情ぶつけ》です。  ☆ と申し上げことに対して   ★★ そうですかwまあ僕はそうは思えませんがねwまあいいですw  ☆ とおっしゃっていただきましたが そのあとに どうも 別の事柄が 付随しているように感じるのです。  《そうは思えません》であるなら もう そこで ひとつの議論が 終わりとなります。なるはづです。  どうも そうでもない様子ですので あたかも けんかを売った買ったというようなやり取りが つづいています。そういう情況です。そうではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・自負したいが故に控えてあたかもすばらしいかのように見せる ・自負する目的はないが単純に表に出していないだけ ・表に出していないのを受け手があたかも相手は自負していると思い込む場合 ・自負することが目的ではないが自負することによるレスポンスや自分の心の変化に対するなにか(「自分が高慢になってだめになってしまうのではないか」「本当は確かなものではないのではないだろうかと気がついてしまう」etc)が怖い  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなことは どうでもよいことです。もし 信頼関係に入れば です。でも そうではないという意図を わたしは 受け止めざるを得ないというのが 実情なのです。どうでしょう?  一たん 議論が決着を見てからのわたしの述べていることは ただ対応だけのものです。中身は どうでもよいことなのです。信頼関係に入れないのであれば そういう対応を 繰り返すほか ないということになります。そのへんの事情を おくみ取りいただき 対処してもらえればと思っております。いかがでしょうか。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.57

> ☆○ あやまつならば 〔その気づきにおいて〕 われあり。  ☆ というとき   ○ 欺かれるならば われ あり。 Si fallor, sum.( Augustinus )  ☆ とも表現し得ます。すなわち これが 信仰の立ち場〔もしくはその立ち場を同じくする思想の立ち場〕であるわけですから  :ここが今回の壁でしょうか。 わかりません。 ブレイグさんの言葉で咀嚼していただけると有難いのですが。 私の理解では、「>いわば自我も本能も超自我も どこかへ行ってしまっている」という状態に人間はなり得ないはずなので、おっしゃるところの「信仰の立場」を理解しなければ、次へは進めそうにありません。 尤も、進んだからといってどうということはないのかもしれませんが。 >はっきりしていることは この自己到来において 自己の回復のために 自我も超自我も本能も それとして はたらいていないことです。 :と断定されていますが、その理由を知りたいためでもあります。 教えていただき、このへんが理解できるようになりましたら、さらに感想をと思っています。 ひとつだけ、 > ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。  ☆ これが 《わたし》という生き物であるということになると思うのです。 :についてです。 「>信仰の立場」について「わかりません」と述べておきながらこのように言うのはおかしいかもしれませんが、信仰とは超自我による本能の抑圧によるものと理解しています。 超自我のないところに信仰は生まれないと思います。 蛇足ですが、超自我性とは必ずしも善を指向していると限定されるものではありません。 あくまで本能に対する抑止力として機能しているものと理解しています。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  ううーん。今回は 感覚として 違うように まづ 思いました。総じて 違うと感じました。  ★ ブレイグさん  ☆ というのは わたしのことですか? ブラジュローヌと言います。  ★ 私の理解では、「>いわば自我も本能も超自我も どこかへ行ってしまっている」という状態に人間はなり得ないはず  ☆ でも 《だまされた》と気づくのは どういう力の働きによるのでしょう。《約束を裏切られた》と言えば 約束の内容と それをめぐる事態の経過とを 認識していなければ 知覚もできないのですが   〔したがって おそらく 自我や超自我が ともに はたらいていると言うべきなのでしょうが  しかも そこで 怒りがこみ上げてくるなら 正確かどうかは分かりませんが 本能も やはり 働いているかもしれません。ということでしょうが〕  問題は その知覚が生じたのは なぜかにあります。わたしの述べたことは  ○ 知覚の起こった部位は わたしの身体=精神のどこかであり 内面においてである。  ○ しかも この知覚を起こしたのは では わたしの意志行為の結果であるか。おそらく 否であろう。内発的なものだとは 思えない。  ○ では 自我のはたらきか。超自我のそれか。――おそらく そうではないのではないか。  ○ そうではなく 知覚が起きたから 自我なり超自我なりが 働き出したのではないだろうか。  ☆ 以上のような見解を示したのですが どうでしょう。知覚と共にはたらいた自我などは 認識の問題なのでしょうね。  これは 必ずしも 信仰の問題として捉える必要もなく そのように言えるのではないでしょうか。  しかも この《あざむかれた》という知覚は そこで おそらく自我や超自我がはたらくかどうかを別とすることが出来るほどのかたちにおいて わたしは わたしに還ったという感覚を持ちます。欺かれたと思っているわたしは 自然本性のわたしです。  別の言い方では 《あぁ わたしは なんてばかなんだ。また まちがってしまった》というように あやまちを侵したとき それに気づくなら やはり わたしは われに還ります。  このように 《わたしが わたしである》のには 自我や超自我は 特別に 関与していないように思えるのですが いかがでしょう? それらのはたらきは その《自己到来》のあとのことではないでしょうか?  以上は 特に 信仰のこととして話していませんが 信仰は 最先行する存在と意志行為の核であるとすれば そこに 信仰も 前提されています。したがって 心理学のほうに すり寄って 話を合わせるなら  ★ > ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。  ☆ という認識が得られると考えます。  ★ 信仰とは超自我による本能の抑圧によるものと理解しています。  ☆ これは 無理です。想定の問題として 無理です。非思考であり 思考や想像としての根拠が いっさい ないところに 信仰が生まれるのですから とうぜん 《超自我》とも かかわりません。かかわるのならば それは 経験思想の問題です。つまりは  ★ 《超自我による本能の抑圧》=《信仰》  ☆ であるなら 信仰など 要らないということではないのですか? いちいち 信仰と言う必要など さらさら ないはづです。  ★ 超自我性とは必ずしも善を指向していると限定されるものではありません。  ☆ですから わたしの善悪観は こころに尋ねて うそがないことを善と呼び うそが生じていることを 悪と呼ぶというものですから 超自我や自我には 直接には かかわりません。意志行為の問題です。  どうでしょう。

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回答No.56

こんばんわ。 ご返事をいただき、ありがとうございます。 お恥ずかしいのですが、理解するのに時間がかかっております。 「悪は存在しない」というやさしい事実に出くわしてから、 生きるのが怖くなくなったことを、大変よろこんでおります。 わたしが最も子どもに伝えたかったことのひとつです。 今日は祝日だったので公園で鬼ごっこをして遊んでまいりました。 52番さまとか53番さまのお話が、わたしにとって興味深かったようで、 「バランス」の「くずれ」のことを、あれこれと考えごとをしつつ、 小学生4人と幼児2人に遊ばれてムキになっておりました。 今日は天気がよく、とても影の濃い日でした。 少し小学校の理科のお話をしてみたいと思います。 光がたくさんあると、陰が濃くて、シャープでクリアになります。 影を濃くすると、光がたくさんになる、ということは、あり得ません。 光は単体で存在できるけれど、影は単体で存在できません。 ですから「光が【ある】」ということからしか、はじまりません。 そして、光と影は、かならず零和的です。 ところで、 1.ホウレン草の葉っぱが大きくなるとホウレン草の根っこがのびる。 2.ホウレン草の根っこがのびるとホウレン草の葉っぱが大きくなる。 3.大根の根っこが大きくなると大根の葉っぱが大きくなる。 4.大根の葉っぱを大きくすると大根の根っこが大きくなる。 このなかで、正解はどれなんでしょうね。 これは、かならず零和的なのでしょうか。 わたしが質問者ではないのに質問をしてすみません。 「善」は「単体で」存在することができるのだろうかと、ふと疑問に思いまして。 お時間があれば説明してくださるとうれしいです。

noname#80116
質問者

補足

 neutralさん 公園では おたのしそうですね。ご回答をありがとうございます。  ★ 「バランス」の「くずれ」のことを、あれこれと考えごとをしつつ、  ☆ ということは 《自我・超自我・本能》の問題もしくはそれによる説明は 広く行きわたっているというべきでしょうか。ご回答へのお応えとして述べているように わたしは その議論には 受け身でしか 参加できない状態です。まづは このことの確認です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  光がたくさんあると、陰が濃くて、シャープでクリアになります。  影を濃くすると、光がたくさんになる、ということは、あり得ません。  光は単体で存在できるけれど、影は単体で存在できません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 確認してくださって ありがたいです。つまり 《影があるから 光があるのだ》という議論(?)が けっこう まだ あったようなのです。  ★ そして、光と影は、かならず零和的です。  ☆ これは どうなんでしょう。理科としての解答がどうなのか よく分からないのですが この両者に 和を求めるのは どうなんでしょう。明暗として その濃淡として 定量的なもののように見えますが その和を求めるというのは どうなんでしょう。それに 光は 意志行為ではないので 定性的なものとしても 測定しがたいように思うのですが どうでしょう。  ★ 「善」は「単体で」存在することができるのだろうか  ☆ これはですね。わたしの考えでは 《存在は善である》という想定から出発していると捉えたほうが てっとり早いと思うのです。それで 特に 学問として致命的な欠点を持つとも思えないのですが。  存在の持続(維持向上)が 善であるという前提ですね。ですから この前提に立つなら   ○ 一人ひとりの人間存在が 単体として 善である。  ☆ となります。もっとも   ○ この人間は その自然本性において つまりは特に その中の意志能力に注目して その意志の行為において 相手の存在を やはり 同時に 前提している。  ○ ゆえに ひとは 孤独な存在であると同時に 孤独関係としての存在である。  ○ 社会的に独立した存在であると同時に 社会的に関係し合う存在である。  ○ 意志は 自由意志として 《ひとり》なる存在の自己表現を推し進めるが それと同時に 相手との関係が すでに 具体的な交通関係に入るなら その意志の方向性が決まり さらに 好きか嫌いかの正負の向きが やはり 自己のもとに決まる。このようにプラス・マイナスの向きを持った意志行為は 人間の関係性として 愛と呼ばれる。  ○ 《間(かん)主観性》という用語も ある。それは 愛なる関係として その双方の主観の交わるところ また その場を言っている。  ☆ したがいまして  ○ 人間にかんして 善は 単体で 存在すると同時に その単体の関係として 存在する〔であろう〕。  ☆ カッコをつけて推測のかたちにしたのは 考えてみれば 《間主観性》じたいは 《わたし》の主観そのものではないからです。わたしの自由意志は いくら愛だからと言って 相互の主観のまじわるところ・つまり相手への思いやりということだけに 寄って行ってしまうわけではないからです。一方での《独立性》も 重要だと思われます。  ホウレン草や大根の問題は 理科としての答えを 自信をもって 言うことが出来ません。あしからず。

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  • easy_all
  • ベストアンサー率60% (17/28)
回答No.55

>すなおでない >救いを得たと言うのをためらう のではなくて、満足できない・飢餓感・渇望がいやされない、 =達成感が無い・生きる意味を見出せない・生命の歓喜が無い のだと思います。 かつて産業が未発達な時代には、生きるとは重労働・病気との闘いだったから、民衆は救いを求めた。 だが現代、機械文明・医療の発達によって、生活が安易になった時代になって、 生きる意味を求め、モノ・カネでは満たされない渇仰に、人々は彷徨する。 生きる意味を「もらっていない」と、誇らしげにTV・新聞が大衆を扇情する。 ヤスパース+ハイデガーの実存哲学は、「現存在・世人」と呼んだ20世紀の大衆社会の中で、 かつて神学が、神・霊魂 と名づけたものを、超越者・実存 として新たな哲学を、 かつての『救い→生きる意味』として樹立しました 

noname#80116
質問者

補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。微妙なご回答のように感じています。  ここでは 《すくわれている》と宣言しないほうが 妥当であるという回答内容だと捉えて お応えしてまいります。  たとえば  ★ ・・・かつて神学が、神・霊魂 と名づけたものを、超越者・実存 として新たな哲学を、 / かつての『救い→生きる意味』として樹立しました   ☆ ということでしたら  ○ ひとは なぜ 生きる意味を見出しているのに 得ていないというのか。  ☆ という質問になるでしょうね。あるいは  ○ ひとは すでに 生きているのに なぜ 生きる意味が見いだせないと嘆くのか。  ☆ と問います。つまり  ○ なぜ すなおでないのでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >すなおでない   >救いを得たと言うのをためらう  のではなくて、満足できない・飢餓感・渇望がいやされない、  =達成感が無い・生きる意味を見出せない・生命の歓喜が無い  のだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でも ひとは この世界の内にあって  ★ 実存  ☆ しているのですよね? 生きています。  ★ 満足できない・達成感が無い  ☆ のは むしろ われわれの向上心のなせるゆえでしょう。  ★ 生命の歓喜が無い  ☆ とは言っても たしかに ちゃんと  ★ 生命の歓喜  ☆ を知っています。欠如しているけれども その歓喜があること そして ひとはその歓喜に値することを 知っている。  すでに 《すくわれている》じゃないですか。  ★ 生きる意味を「もらっていない」と、誇らしげにTV・新聞が大衆を扇情する。  ☆ というからくりを すでに じゅうぶん 知っています。大衆大量媒介物など 量的な重みはあっても 中身は 大したものではないことくらいは もう 誰でも 知っています。ひとの企画することくらいは その最高の達成を持ってきたところで 高が知れています。  もしくは たしかに 人間の知恵と能力は 偉大であるとするのなら やはり 総じて言って 《すくわれている》でしょう。  むろん その度合いも 程度問題です。相対的なすくいを得たに過ぎません。ならば いま 《わたしたちは おのおの すくわれている》と一たん 宣言して ふたたび あたらしく 歩むことのほうが 人類史にとって ふさわしいのではないでしょうか。  もし 停滞感や閉塞感が いくらかでもあるとすれば それは いわば人類の――神学をとおしての 神や救いや霊魂にかんするところの――前史というものを 一たん 終わらせていないからではないでしょうか。すでに 一段階として 終えているのに まだ ぐぢゃぐぢゃ 言って 終わらせていない そこから来る《癒されない渇望》なのではないでしょうか。どうでしょう?

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noname#82286
noname#82286
回答No.54

>はあぁ もしそうだとすれば わたしの言っていることは すべて  ★★ (No.45) 「中身のないただの感情ぶつけ」  ☆ です。> そうですかwまあ僕はそうは思えませんがねwまあいいですw >★ おそらく・・・わがすくいの向上にかんしてまで 感情のぶつけによって ひとさまからの反応や批判をあてにしているわけですから これほどの不届き者はいないかも知れません。  というような分析結果になりました。どうなんでしょうね。> おそらくあたっているんじゃないでしょうか?ご自身がそう感じているのはおそらく感情の部分だろうと思いますが表明文を見る限り感情が分析を促進しているように思います >あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 > これなんですがおそらくこの場合誇りたいという願望があるように思います、つまり素直に発言するとno12やno46のように次元が変化するわけですから賭けになりますよね、そすると言わない方が良いのではないかと無意識に感じますしかしその場合誇ることが出来ませんそのパラドックスを解消するために卑下することによって誇らしさを表明しようとしているのだろうと思います、自分のことを低く見ていて実は高く見ているということなのだろうと思います

noname#80116
質問者

補足

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。  たぶん すべては 言葉のやり取りとしての そこにおける表現の問題だと言うべきでしたね。その点をも同時に添えておくべきでした。  相手との つまり今の場合 TENNTENNSEVENOKさんとのやり取りという場 この場が 社会という人間関係の一部分として 社会全体のありようとしても またその問題情況としても はたらいているし 起き上がって来ている。こう思いますし そう添えて 述べるべきでした。  卑下したわけでもなく 自己を誇ろうとしたのでもなく また 卑下も自慢も そのつもりはないところから いまの場での推移として 起こるものだとは捉えています。  このことを わたしは TENNTENNSEVENOKさんのご議論に合わせて 表現しているのだぞと言えば それは おのれを大きく見せようとする高ぶりになるのでしょう。しかも とは言っても 高ぶりによって そう言っているのでもない場合も あるのではないでしょうか。ただ 高慢であると見えているだけかも知れません。わざと 高慢な態度を取っているだけかも知れません。  表現は 自己表現と言いますから そこに 自己が著わされていることに間違いないでしょうが 言葉どおりの内容であるかどうかは まだまだ問い求めの余地があるのではないでしょうか。  こうやって わたしは そうとう TENNTENNSEVENOKさんのご議論をもてあそんでいます。はっきり告白します。告白しておきます。そして この言辞は つりあいを取るためです。――こうなると きわめて 挑戦的にもなりました。もともと 文責は 負っていますので その点は だいじょうぶです。いわば けんかを吹っかけているかたちにも なってまいりましたが これも 対話ないしその場のしからしめるわざです。そして それを わたしが 推し進めております。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからは 文章責任者であるパウロの 世話焼きの度合いがひどいということを読んでも よいでしょうが わたしには かれが おのれを高ぶらせ 誇ろうとしているとは とても 思えません。しかも もし 誇ることがあるとすれば その誇るものは あなたも同じく持っているものだと言っているのですから かれが いかに わたくし心から自由なその《わたし》であったかを 汲み取るべきでしょうね。  あぁ やっぱり わたしの文章は  ★ 中身のない感情のぶつけ  ☆ に終始していますね。

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noname#96295
noname#96295
回答No.53

25、47。 まずはお気遣いのなきように、時間と体力については、こどもが離乳期です。不名誉な勲章の持ち主については、brageloneさんのインタムライスムと彼の合議制民主主義がなぜ摺りあわなかったか、思うにスタイルの違いが大きいのではないかと思います。彼が退会Noコードのコレクターであろうと名前のコレクターであろうと、誰かが困ることになるとは誰も思っていなかったでしょう。スタイルは非常に軽やかです。サイト運営者にはシステム的に重いということになります。 本題です。 > ここに――消極的にですが―― 信仰のすべてがあると見る立ち場です。 > それじたいが 信仰なのだと見なし合って 対話をすすめていけばよい。 異存はありません。わたしもそのように思っていますよ。わたしに特定の信仰がないことはご存じでしょうけれども、 わたしが述べた言葉では信としたところ、これは、信仰の簡素にしてすべてを指すと思います。 宗教ではなく態度、アティテュードの次元の事項だからです。 こんにちでは、それがやや損なわれているとして、話をすすめてきました。 例に従うなら、母や葉っぱが、これほど存在を不安定にした時代はないと言えるほどです。 68年が舞台の《存在の耐えられない軽さ》とはだいぶ事情が違うようです。 社会の固い網の目に変動があってわたしたちはこぼれるのではないということは言えそうです。 追伸 自我の話題が出ることに驚き、むしろ困惑を覚えます。 分析のツールである自我は、分析を離れて、存在するものとして扱うべきではない。わたしからの警鐘です。 余談ですが、文体から症状が判別できない素人であるならば、分析ごっこは超自我を深い迷妄に誘い込みます。 自覚のある方はどうか危険さを省みてほしい。 もちろん哲学の場に拝借してきて思考を鍛えなおすツールとなりうるのならばそれを制止するつもりはありませんが。

noname#80116
質問者

お礼

 amaguappaさん。河合隼雄についてです。(2月13日記)。  評価のしにくい思想の持ち主であると思っています。  新書二冊にわたって書かれた自伝は そのほかの著作品のすべてをまとめるかのように うまく きちんと 自己表現されています。そして 理論としての自己表現も明らかにされております。  二点を挙げます。ひとつは 日本神話に題材を採った《中空構造》の視点です。中心にアメノミナカヌシの神という何もしない柱を据えるという世界観――いわゆる《権威》の問題ですね―― これが 日本社会の構造にも 反映しているという理論ですよね。  もう一つは ユングから承け継いでいるかに見える《神の四位一体》説です。  数学専攻だったということも然ることながら しかも 超自然のことがらにも関心を深めていくわけですが そのように推論じたいについては よく通っていました。  テレビで 遠藤周作との対談を聞きました。遠藤の神学は 一言で言ってしまえば すべて 想像の産物です。非思考としての信仰ではありません。想像と思考と信念とから成る人生訓です。その基礎だけで あとは いわゆる文学的に ものごとを見ている点を突いて 河合は きわめて正当にも 主観の共同性とは どういうことかを 説明していました。  ですが その結論は たとえば 上に挙げた二点の理論です。《中空構造》については そのほかの構造形態が可能であるはづですから それについても触れなければいけないでしょうし それらの形態論を 理論的に 展開しなければいけません。民主主義ならそれとして どうであるか に触れなければおかしいはづです。  《四位一体》説は いわゆるグノーシス主義の問題です。ですが これに対する批判は 簡単です。善の神と悪の神とが 互いに同等に 全体としての神の位格を占めるとなれば けっきょく 哲学は 何も考えることもなく すべては あそびであると宣言したも同然です。善は悪 悪は善となります。世の中 絶対的に飲めや歌えやであり 何をどう振る舞おうと うまく身を処した者が勝ちだというものです。  わたしたちは どうも 互いに 願いは同じなのですが その目指すところに到る道は 別の筋をとおって歩むということになるでしょうか。そういう場合も あるのでしょう。と ひとこと 申し述べておこうと思いました。

noname#80116
質問者

補足

 amaguappaさん ていねいに 重ねてご回答をいただき ありがとうございます。少々 お時間をわづらわせ申し上げましたね。  ○ 自我・超自我・本能  ☆ これらは わたしにとっては 心理学の本を初めにひもといた時から――さもありなん とは思ったものの 生来の天然ぼけの所為で ほとんど取り上げることもなく―― もう使って来なかった語彙に属します。  ★ 自我の話題が出ることに驚き、むしろ困惑を覚えます。・・・  ☆ うんぬんということで amaguappaさんは きちんと位置づけていらっしゃるようですが その位置づけのほうも わたしにとっては どうでもよいものとして 放っておいた経過があります。その意味で つまりまったく別の意味で 《困惑を覚えています》。ぶっつけ本番です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  分析のツールである自我は、分析を離れて、存在するものとして扱うべきではない。わたしからの警鐘です。  余談ですが、文体から症状が判別できない素人であるならば、分析ごっこは超自我を深い迷妄に誘い込みます。  自覚のある方はどうか危険さを省みてほしい。  もちろん哲学の場に拝借してきて思考を鍛えなおすツールとなりうるのならばそれを制止するつもりはありませんが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 重ねて掲げて――と言っても 必ずしも その中身について わたしが承知しているわけではなく 情けない限りなのですが―― 今後の指針にしていくべきことでしょうね。  お子さんが まだお小さいとか。知りませんでした。と言いますか 想像しませんでした。すでに 大御所の地位にお有りの方とお見受けしていましたから。(比較的に高齢での出産もあるわけですから なんとも言えませんが)。そうですか。楽しみですね。  そう言えば agrippaさん(ほかにもいくつか名前がありましたね) どうしていますかね。どこかで 自分に・自分の思考の翼に 壁か境界を わざわざ 設けているところが あったように 記憶していますが。対話を 行き着くところまで すすめない。か もしくは 進んだとしても 持論を変えない。・・・(もう やめときます)。  ★ 宗教ではなく態度、アティテュードの次元の事項だからです。  ☆ これが なんとも あいまいになっていると わたしも 考えます。もしくは  ○ 態度も何もかにも 果ては 人格までも 宗教のほうに 寄せて行き あたかも蚕が繭にくるまるように 自我か超自我か あるいは むしろ ほかの人間に求めたところのカリスマ自我か何か 結局は大いなる幻想に 寄りすがって行くかに見えます。  ★ 例に従うなら、母や葉っぱが、これほど存在を不安定にした時代はないと言えるほどです。  ☆ そうですねぇ。テレビのニュースなどで 生徒たちが 田植えを体験したりして 自然に親しもうとする動きもあるにはあるように見受けられますが そのことは やはり めづらしいことになっているのでしょうね。それ以上に このような変化について 次の評言は 盲点をついたものになるのでしょうか。  ★ 社会の固い網の目に変動があってわたしたちはこぼれるのではないということは言えそうです。  ☆ 例に挙げられている《68年の革命》について 語り得るほど詳しくありません。ミラン・クンデラとかいう人のその著作には たまたま勧められて読んでいますが だからどうなのかという問いを抱いたまま 来ています。  上の評言は ちょうどここでも触れることがあった《〈羞恥心〉現象》のごとく わたしたちの むしろ何かを意図しないままの ふつうの生活に根ざした姿が 少しづつ 変わって行き これが 社会のあり方をも変えて行くというふうにも とれる内容にも思えますが。《こぼれる》という言葉を 拡大解釈しての読みですが。  これは まだまだ うかうかとしてはいられませんね。この何気ない質問にも いくつかの課題が 詰まっているようですね。  《合議制民主主義》 然り。《自我・超自我・本能》然り。精神分析も 同様でしょう。《自然本性》 あるいは 《ものごとの自然のありさま・あり方》。信仰に対して 宗教の現状。  たとえば現代っ子といえども 落ち葉が どこかの工場で製造しているものだとは 思っていないでしょうね。  一歩一歩 あゆんでまいりましょう。

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  • hakobulu
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回答No.52

逸れた横道をそのまま進む形になるかもしれませんが、 > ○ 信仰にとっては 《いま・ここなる〈わたし〉》が 存在の全体として 人格の全体として あるのみです。  ☆ いちいち 自我もへちまも ありません。本能も どうでもよいものです。 :そうですね。 素人の悲しさでうまく説明できないのですが、信仰といい、なんでも良いのですが、社会的に自己を顕現しているものは大体自我と捉えることが可能だと思います。 本能の超自我のといったところで、それらだけが発現することはまずありません。 必ず自我という門をくぐらざるを得ないわけで、信仰も犯罪も無為もすべて自我の表明と言えます。 本能や超自我の調合具合によって、様々な形態を持つ自我として私たちは対社会的な顔を持つことになります。 つまり、社会的存在と認識された段階ですでに自我の発現があるわけで、その自我は本能と超自我が妥協した産物というわけです。 自我もへちまもあるわけですし、本能がどうでもよい、といっても信仰という超自我性のみで 『 《いま・ここなる〈わたし〉》が 存在の全体として 人格の全体として ある』 ことはできない、ということになると思われます。 >信仰は 非思考であり それは 無根拠という意味です。 :これはわかるような気がします。 ただ、非思考であり、無根拠である信仰というものに引き寄せられるには、それなりの理由があるのが自然です。 そんなことを言ったら、なにごともそうではないか、ということになりますが、そのとおりと思います。 ただ、それらを構図として把握しておくことがそれほど無駄なこととも思われません。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ :という文言も、私にとっては興味ある視点で、非常に新鮮な印象を受けます。 ただ、真理というよりはひとつの戒めとしてより解釈できません。 どうも不信心者は無粋でいけませんが、このへんが食い違いの大元なのかもしれませんね。 せっかく宗教は別にして、とおっしゃってくださっているのですが、私としては、信仰についてもう少し理解しないと難しいのかなという気もします。   >自我など どうでもよいと言えば それは 自我が崩壊することだと採るでしょうかねぇ。 :少なくともそう感じはするんじゃないでしょうか。 または、(無意識的にせよ)それを求めて・・・ということもあるでしょう。 「自我はどうでもよい」という自我があるではないか、と言われそうですが、「自我はどうでもよい」と認識すること自体が自我の弱体化を物語る、ということになるでしょうか。 >こわいでしょうか。 :というか、甘美の沼に入り込むような印象ですかね。 >自我など・あるいは いわゆる自尊心とやらなども 気にしていませんでしたから。 :どの分野においても(本能・自我・超自我の)バランスのとれた方はいますしね。 同時に、これがバランスのとれた生き方みたいなものもないわけで、それ(バランス)自体の必要性を認識しているかいないか、というあたりが関係してくるように思います。 今回たまたまそのバランスの例として述べたわけですが、信仰すること自体を云々したわけではありません。 なんか横道に逸れさせてしまったようですみません。 そういえば、まだ顔洗ってなかったような気も・・・。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  なるほど。信仰の理解を 伴なったほうが 分かりやすいのかも知れません。  ★ (本能・自我・超自我の)バランス  ☆ という言い方・見方をするのであれば 信仰という・これも――その対象は 非経験の絶対ですが それを信じる・つまりは 受け容れるというのは――経験行為ですから その意味で この信仰のあり方と 自我のあり方との異同を明らかにすることは よいことであるようです。  けれども  ☆○ あやまつならば 〔その気づきにおいて〕 われあり。  ☆ というとき   ○ 欺かれるならば われ あり。 Si fallor, sum.( Augustinus )  ☆ とも表現し得ます。すなわち これが 信仰の立ち場〔もしくはその立ち場を同じくする思想の立ち場〕であるわけですから このときの 人格のあり方を探るとよいかも知れません。  すなわち 《あざむかれる》のです。いわば自我も本能も超自我も どこかへ行ってしまっているその隙に乗じて 起こる事件であり その事件を契機にして われに返るという自己還帰を得るわけです。  はっきりしていることは この自己到来において 自己の回復のために 自我も超自我も本能も それとして はたらいていないことです。  わづかに 《気づき》が起きますから そこに 《思考》を伴なうようになりますが――そして その思考を 取り立てる場合もあるでしょうが―― はっきりしていることは すべて(自己到来のすべてが) 向こうからやって来るということです。内面に起こることですが 必ずしも内発的ではないようです。  《あやまつならば・・・》と表現しても けっきょく 同じだろうと思います。《あざむかれる》場合を取り上げるなら いっそう あざやかに分かるというものです。その《気づき》には むしろ 自我も超自我も どこかに放り投げておかれていると言ってよいのではないでしょうか。  《気づく》その能力は わが身体=精神のもので それこそ  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言われることにかかわっているそれだと思われます。内発的でないと言っても そういうふうに 内面の能力とその発動であるようです。  ★ 信仰という超自我性のみで  ☆ これは――表現として違和感を持つというただそのことを言おうとするのですが―― やはり 両者は 同じものではないでしょう。  ○ 信仰が 愛(意志)をとおして はたらく。 / あるいは 愛が信仰をとおして はたらく。  ☆ という言い方をしますが 意志の発動およびそれによる自己表現 これが 《わたし》の生きることであり 実際の動態でもあります。そこに 信仰が位置しています。だとすれば かなり譲歩して すり合わせを行なうならば  ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。  ☆ これが 《わたし》という生き物であるということになると思うのです。  * 《信仰》とは何ぞや?を推し進めても いいかも知れません。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.51

私がこのように強弁するのもおかしなものですが、「誤解」ではないように思われます。 やはり、信仰は賭け(言い得て妙です)でしょうし、(教義を信じるのでない以上)非思考でもあるでしょう。 ただ、 >こうであれば  ★ 自我も 超自我も  ☆ 関係ないのです。 :ということにはなりません。 ここでこのようなことを言うのはお門違いかもしれませんが、自我や超自我は思考ではありませんし、ある一個の生命エネルギーの顕現の仕方にすぎません。 思考そのものではなく、「思考させる力」あるいは「思考させない力」などなわけです。 >《想像》あるいは 何らかの《表象》とは いっさい かかわらないゆえ 《信じる》というわけですから。 :まさにおっしゃるとおりですよね。 素人の分際で講釈を始めようというわけではありませんが、本題に絡む大事なところだと思うので、もう少しだけ補足させていただきたいと思います。 超自我とは本能の抑圧(または抑制)によって作動する、ある意味で「非動物的な指向性」を指す、と(素人なりに)解釈しております。 人が言動するとき、その時点ですでに本能や自我、超自我はすでに仕事を終えていることになります。 あえて言えば、それらもまた、非思考ということです。 といったようなことを前提にして、 > ☆ ですから 信仰が与えられ その持続が始まったとするなら その時点からは 自我は もはや どうでもよいと捉えています。自我を見張る超自我も 要らなくなります。 :「>その時点からは 自我は もはや どうでもよい」となるように、 そのようにして自我の崩壊につながりやすい、ということです。 また、超自我が自我を見張るのは確かですが、これはむしろ、自我が超自我の顔色と窺う、という構図のほうがより実態に即しているようにも思います。 超自我が過剰な要求をすることもありますし、自我に(本能との)調整力がないと、たとえば自分を犠牲にして困窮する人を助けようとする宗教者などのように、「私=自我」を見失ってしまうでしょう。 それはそれで、むしろ賞賛されるべき所為なのかもしれませんが、そして嫌いではありませんが、しかし、生命の本質から言うとやはり「すなお」とは言えません。 つまり、そこにはなんらかの「無理」が働いているわけで、なぜそのような無理をするのか、ということに関して精神分析などからのアプローチもあったりするのでしょう。 とはいえ、誰しもぬるま湯の中で暮らしているわけではなく、何らかの無理は必然ですから、そのことを特異視するつもりはありません。 しかし、その「無理」の善性によって、その「無理」を普遍性と解釈してしまいがちなこともありがちです。 だいぶ横道にそれてしまったのかもしれませんが、このような感想です。 逸れついでに、 >そしてそれは 無神を信じる・つまり信じないと言うのと まったく 同等・対等だという見方が 正解だと考えます。 :に関しても少し述べさせていただけば、これは2つのパターンがあるのではないでしょうか。 ともかく信じない、という立場。 信じないというわけではないが、信じるに足る根拠が薄いので信じると言い切ることはひかえている、という立場。 後者の場合は無思考とは言えないような気もします。  

noname#80116
質問者

お礼

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  まづ  ○ 信仰は 非思考であり それは 無根拠という意味です。思考しうべき根拠とは いっさい かかわらない。  ☆ という意味です。これで 無神論が 信仰のひとつの形態だという見方で よいはづです。    そうだとすれば――つまり 無根拠だとすれば――  ★ 自我・超自我・本能  ☆ とも 信仰は かかわりがないと言えるはづです。それは  ○ 無理な自己犠牲は 信仰にとっては 何の意義もない。  ○ なぜなら 信仰が もし命じたとするなら まだ わかるけれども 超自我が命じたというとき 信仰にとっては 何ら かかわっていません。  ☆ ゆえです。超自我が どうはたらこうと 信仰にとっては 知ったことではありません。  ○ 信仰にとっては 《いま・ここなる〈わたし〉》が 存在の全体として 人格の全体として あるのみです。  ☆ いちいち 自我もへちまも ありません。本能も どうでもよいものです。  * 自我など どうでもよいと言えば それは 自我が崩壊することだと採るでしょうかねぇ。こわいでしょうか。――わたしの場合 もともと 能天気で 自我など・あるいは いわゆる自尊心とやらなども 気にしていませんでしたから。すんなり 信仰が与えられ 入っていきましたけれども。  でも  ○ あやまつならば 〔その気づきにおいて〕 われあり。  ☆ といえば 存在ないし人格の全体のことを言っているはづですよ。その気づきのときの思考を 取り立てて見せれば 《われ考える。ゆえに われあり》になりますけれど。でも こちらのほうは やはり 自我の問題と癒着してしまいましたね。

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  • hakobulu
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回答No.50

理解力が足らず、つい断片的な感想にならざるを得ないにも拘わらず、丁寧に対応していただきありがとうございます。 今回は、私の最初の回答である#32に対する bragelone さんの補足に関連して述べることになります。 >まぁ 《さとった》と能動的に表現するのも いいかも知れませんが 《さとりを得た》ことを《すくわれた》と表現しても  ★ 矜持  ☆ を失うとも思えないのですが どうでしょう?  ★ 自我崩壊  ☆ にむすびつきますか? :むすびつくように思われます。 今回おっしゃっておられる、 >信仰に関しては 煮詰めた議論としては けっきょくのところ  ○ 賭け  ☆ であると捉えるものです :という観点は同感できますし、それゆえに、ということになるでしょうか。 賭けるという場合、そこには自らの力で立つという、つまり自我に関しては放棄してもよい、という暗黙の了解の下に第一歩を踏み出すのではないでしょうか。 賭ける対象が神であろうとギャンブルであろうと、それは同じだろうと私は思います。 学問的裏づけは持ちませんが、個人的に表現させていただければ、(信仰の場合)超自我の比重が高くなりますから、どうしても不安定になるでしょう。 一見安定しているようですが、本性である本能や、調節機構としての自我の領土が狭いため、もろさは付きまとわざるを得ないでしょう。 決して信仰に対する批判ではありません。 ただ、即座にというわけではありませんが、また常に、あるいは全てがというつもりもありませんが、自我崩壊という指向性を伴うものではないか、ということです。 公言するという行為が、こういった指向性に拍車をかけるものではないか、という気がするので、個人的には疑問符がつくかな。 ということになるのかもしれません。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  今回は 信仰について 誤解があります。あるいは 《賭け》が 誤解を生んだかと 恐縮です。  ★ 賭けるという場合、そこには自らの力で立つという、つまり自我に関しては放棄してもよい、という暗黙の了解の下に第一歩を踏み出すのではないでしょうか。  ★ (信仰の場合)超自我の比重が高くなりますから、どうしても不安定になるでしょう。  ☆ 《賭け》という場合に たしかに 誤解を避けるために 最低のこととして  ☆☆(No.47補足欄) 信仰は 非思考です。  ☆ と添えるべきでした。こうであれば  ★ 自我も 超自我も  ☆ 関係ないのです。《思考》とは関係ないからです。《想像》あるいは 何らかの《表象》とは いっさい かかわらないゆえ 《信じる》というわけですから。頭の中のはたらきとは まるっきり かかわらないのです。心の向きあるいは傾きと言うべきような その決断のときの決定としての意志行為 これのみ 起きます。  別様に言えば  ○ 信仰は 自我・超自我 あるいは 経験思考 あるいは 頭の中で処理する調節・管理の操作 これらをすべて 超えています。  ☆ ですから 信仰が与えられ その持続が始まったとするなら その時点からは 自我は もはや どうでもよいと捉えています。自我を見張る超自我も 要らなくなります。  というような からくりです。  ただし たとえば いわゆる 《キリスト教を信じている》などという場合には その《教義》を信じているというのは おかしいことになります。  つまりは《教義を 思考の対象として捉え その認識によって 物事の判断をおこない みづからの意志決定をおこなう》ということになります。これを 信仰と言うほど ばかな話は ありません。それなら ただの思想であり せいぜいが いわゆる信念信条のことになります。  信仰の対象は あくまで 《絶対》であり これを思考によって把握したなどと言う人がいれば 自己矛盾です。分からない・なぞだから 絶対であり 絶対とわたしとの関係として 信仰であるというものです。  《〈教〉を信じる》というのは あり得ません。言うなら 神を信じるです。そしてそれは 無神を信じる・つまり信じないと言うのと まったく 同等・対等だという見方が 正解だと考えます。《信じない》というのは やはり 非思考なのです。思考ではありません。賭けです。ですから 実態は 無神論の信仰者なのです。どうでしょう。  経験と超経験(絶対)とは きちんと 識別すべきです。もっとも 後者は ただの想定であるに過ぎません。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.49

>この《宣言》をめぐっては 結論が 総じて言って 逆になるようですね。 :そうですね。 関連性があるのか無いのかよく理解できていませんが、件の「悪は存在しない論」のときと似たような印象を受けています。 端的に言うと、そういった視点から何が得られるのだろうか? ということになるでしょうか。 人間の本性に沿った視点だろうか? という疑問でもあります。 本性が何かということを今持ち出す煩雑になるでしょうが、無理のない、つまり、普遍的な真理と言える(あるいはそれにつながる)のかどうか。 これが気にかかる点です。 ◇ >《さとり・すくい》という概念じたいは 絶対的な中身を言っているのでしょうが その体得・体現は 段階があって 完全なものだとは捉えていないという意味です。 :そうだったんですか。 であれば、「救われている」と宣言しない者こそ真の救い(あるいは悟り)に向かいつつある、という可能性もあるわけでしょうか。 そのような趣旨であれば、 『さとりや救いを得たと感じても、それらが完全なものである場合は稀である。』 という前文があればわかりやすかったような気がします。 聖書からの引用(ですよね?)があったりしたことも加え、『「>絶対的な」救い』を想定してしまったので。 おっしゃるような「さとり」なり「救い」なりに関して、 『だから、たとえば「救われている」と公言することによって、「>ひととの関係 社会の中でこそ 確かなものにしていこう。」』 と続くのなら(理屈としては)わかります。 しかし、そうだとすると、冒頭に戻りますが、 「救われている」と宣言しない者こそ真の救い(あるいは悟り)に向かいつつある。 ということにならないでしょうか。 >なぜ すなおでないのでしょう? :ということに関しては、それほど大事なこと(救われる、あるいは悟る)に関して、たとえ方便にしても、そうやすやすと素直になることのほうが問題ではないだろうか。 といったような感想も浮かんだりしています。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  拍子ぬけなさったかも知れませんが そういうことなんです。  ☆☆ (No.38補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点も〔* ひとがおしえてくれるぶん より一層〕わかるし 出れば ただちに 直そうとします。  ☆ ということなんです。公言していなければ 自分の内面において 自分の努力だけで 気をつけているし 直していくということだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 骨子ですね。  あらためて 振り返りますと――  まづ 《すくわれている》と 心には 思っている場合から もはや 出発してよいようですね。  これを 今度は 公言するかどうか そういう選択を迫る質問になります。  ★ 「救われている」と宣言しない者こそ真の救い(あるいは悟り)に向かいつつある、という可能性もあるわけでしょうか。  ☆ これを 今度は 論じていただけるとありがたいのですが 別の主題になりましょうか。また 同時に  ★ 人間の本性に沿った視点だろうか?  ★ 無理のない、つまり、普遍的な真理と言える(あるいはそれにつながる)のかどうか。  ☆ に 当然の如く かかわっています。じつは 地続きと言いますか 存在論あるいは自然本性の理論もしくは自由意志論 そして善悪の議論 これらに 直接に連なっていると見越しています。あるいは それらに最先行するものとして 非思考なる信仰の議論 これが あります。しかも 論理的には この信仰(もしくは 良心および信教)から 生活のすべては 派生してくると捉えますので 信仰に関しては 煮詰めた議論としては けっきょくのところ  ○ 賭け  ☆ であると捉えるものです。だとすれば   ○ その内実をいっさい問わずに 《すくわれている》と宣言するか否か  ☆ という設問の仕方は 経路をたどってですが しかも 直結していると考えるものです。  ですから ここでは 普遍性の議論をしませんが あたかも おこなったと見なしての今の質問というかたちにも 形式上は 成っている。こういったからくりです。  余計なひとこととしましては  ○ すなお  ☆ の問題も いまの《賭け》としての決断の問題であるように捉えているというのは 正直なところなのです。  一方的・主観的すぎると言われるかも知れませんが そのあたりにも批判を頂戴できれば ありがたいと思うようなこととなります。    * なるほどと思われる補足要求が いくつか 挙がって たいへん うれしい限りです。思えば そういうこと つまり いくつかの論点につながっているということ なんですよね。いま そういう中間段階にいるようです。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  § 5‐b 日本教について  この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。  ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99  (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。    (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。  (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。  (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。  (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。  (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。  その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。  (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。   おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。  KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。  (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。   【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】   【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】  (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。  (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。   ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~   ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの    ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本    と申す泥沼に敗れたのだ。   ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。    ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。   ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん    だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申    したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言    葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。   ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。  司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。   ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言    った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが    ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな    らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて    おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは     それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな    く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる    とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲    げてしまったのであろう。  基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。   ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支    丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では    もう捕える気もない。   ――なぜでございます――と通辞が聞くと   ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ    のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば    なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百    姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても    似つかぬものになっておる。  頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。   ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知    れぬものとなっていこう。  そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。   ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。  奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。  菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。      (遠藤週作:『沈黙』 IX)   cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか?  (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか?  (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか?    日本教・総本山     =シントウならびにシントウイズム     日本教・ブッダ派     日本教・キリスト派     日本教・マルクス派     日本教・新興宗教派(遺憾ながら)     ・・・・  (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか?  (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。

  • 《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?

     《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。  その文章を取り上げ 二件 問います。  ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から  ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~  http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。  一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。  仏教はこころの自由は大事にします。 故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。  人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。    「救う事」は非仏教的な行為です。    仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。    スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。    話を聞きたいと思う人には話せます。 自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。 放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。    地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。 人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。    仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。    生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。 経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。  終り。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?  ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。  ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに  「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。    ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A.投稿ありがとうございます。  批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。  しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。  世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。  その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。  「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。  キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。  しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。  とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。  A.Sumanasara  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?   《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?  《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?  テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

  • 曹洞宗は戦争をどう考えているのか?

    懺謝文を読んでいたら気になったので質問しますが、 曹洞宗は戦争についてどう考えているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~ 懺謝文 われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外開教の美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。また脱亜入欧のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。しかも仏教の教義にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。まことに恥ずべき行為というほかない。 われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔したいと思う。 しかし、それはかつて海外伝道に従事した人たちだけの責任ではない。日本の海外侵略に喝采をおくり、それを正当化してきた宗門全体の責任が問われるべきことはいうまでもない。 さらにまた、曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人びとの痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するかのような視点で執筆し出版したことを恥と感じる。 また同時に、このような書籍の出版が太平洋戦争後三十五年を経てなされたということについても、重大な罪の意識を感じざるをえない。何故ならばそれは、宗門が明治以後、ある時は国家に阿諛(あゆ)迎合し、ある時は積極的に国策に荷担して戦争協力を行い、アジアの民衆に塗炭の苦しみを強いてきたという事実について、なんら反省することもなく、その責任すらも感じていなかったということに他ならないからである。 「歴史とは、過去と現在の間の尽きることを知らない対話である」といったのは、歴史家E・H・カーであるが、遺憾ながらわが宗門はこの対話の努力を怠り、過去の歴史に今を問いかけ、過去の歴史に学びつつ自らの座標軸を糾そうとする姿勢を持つことなく今日に至った。われわれは一九四五年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。 曹洞宗は、遅きに失した感は免れぬとはいえ、あらためてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。 われわれは「戦争責任」の重大性を認識し、アジアの人びとの痛みの上に立って、一九八五年二月以来、『曹洞宗海外開教伝道史』の文言の一々について徹底した読み直しを開始し、同書の随所に「民族差別による差別表現」「国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」が見られ、同書が歴史の書として誤った歴史認識によって執筆されているのみならず、抑圧された人びとの人権の視点を欠いており、人権擁護を推進しようとするわが宗門の立場と相矛盾するものであることを確認し、同書を回収し、廃棄処分することとした。 また、われわれはこの書籍の誤った歴史認識と差別表現を指摘したが、それは同書の誤りを指摘するのみでなく、歴史への反省を怠り、戦争責任を回避してきたわが宗門、及びわれわれ全宗門人にこそ向けられるべきことはいうまでもない。 思うに、仏教は、すべての人間が仏子として平等であり、如何なる理由によろうとも他によって毀損だれてはならぬ尊厳性を生きるものである、と説く。しかるにその釈尊の法脈を嗣受することを信仰の帰趨とするわが宗門が、アジアの他の民族を侵略する戦争を聖戦として肯定し、積極的な協 力を行った。 特に朝鮮・韓半島においては、日本は王妃暗殺という暴挙を犯し、李朝朝鮮を属国化し、ついには日韓併合により一つの国家と民衆を抹殺してしまったのであるが、わが宗門はその先兵となって朝鮮民族のわが国への同化を図り、皇民化政策推進の担い手となった。 人が人として存在する時、人は常に自らの帰属する場所を求めずにおかない。家族、言語、民族、国家、国土、文化、信仰等、自らが帰属するアイデンティティーを保障されるとき、人は安息を覚える。アイデンティティーは人間の尊厳を保証するものなのである。しかるに皇民化政策は、朝鮮民族の国家を奪い、言語を奪い、創氏改名と称して民族文化に根ざした個人の名前までも奪い去った。曹洞宗をはじめとする日本の宗教は、その蛮行を宗教により正当化する役掌を担った。 また、中国においては、宗門が侵略下における民衆の宣撫工作を担当し、中には率先して特務機関に接触しスパイ活動を行った僧侶さえいた。 仏教を国策という世法に隷属せしめ、更に、他の民族の尊厳性とアイデンティティーを奪い去るという二重の過ちを犯していたのである。 われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。 人は、何人といえども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。人は、かけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。それは国家においても、民族においても同じである。 また、人も、民族も、それ自体で独立した存在として、他の侵犯を拒絶するものであるが、一方、それ自体が、個として独立的に存在し得るものではない。人も国家も、相互依存的関係の中においてのみ存在し得るものである。 通信や交通の技術が進歩して地球が狭隘(きょうあい)化し、政治や経済が国際化した今日、地球は一つの共同体であることを明らかにしてきた。仏教のいうすべての存在の「縁起」性があらためて確かなものとなってきたのである。 人も、国家も、民族も、それが「縁起」的存在として、他との相互依存性の中に存在するとすれば、他を侵すということは、自らの存在の一部を否定するということである。自らの存在の根拠を侵すということである。 故に、仏教においては、他との共生は必然である。他との共存こそが自らの生きる根拠なのである。自を見つめ、自を律し、他と共に生き、他と共に学ぶ生き方こそ仏教の平和思想なのである。われわれは過去において、この視座を見失い、仏教と遠く離れた位置にあった。 ある一つの思想が、ある一つの信仰が、たとえいかような美しい装いを凝らし、たとえどのように完ぺきな理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を拒否するとするならば、われわれはそれに組みしないであろう。むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶであろう。 人のいのちの尊厳性は、それらを越えてはるかに厳粛なものだからである。 われわれは、重ねて誓う。二度と同じ過ちを犯さない、と。そして、過去の日本の圧政に苦しんだアジアの人びとに深く謝罪し、権力に組みして加害者の側に立って開教にのぞんだ曹洞宗の海外伝道の過ちを心より謝罪するものである。 一九九二年十一月二十日 曹洞宗宗務総長 大竹 明彦 http://www.sotozen-net.or.jp/wp2/wp-content/uploads/2012/12/sanjyamon_20121206.pdf