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あなたは すくわれていますか

 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。  ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?    へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。  民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。  人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。  それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。  これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?  この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?  なぜ すなおでないのでしょう?

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  • easy_all
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回答No.68

No.55、59です。 > でも サルトルも >  ○ アンガージュマン >  ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神  の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから  > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。

noname#80116
質問者

補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。  あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。  実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。  専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。  紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。  ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)  ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。  ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ  ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり  ▲ 無内容であり  ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。  ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい  ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。  と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。  ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。  ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。  もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。  ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう  ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。  振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。  けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。

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その他の回答 (68)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.38

> ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点もわかるし 出れば ただちに 直そうとします。 :よくわかりません・・・(-_-;)。 救われていると思えなければ、「すくわれている」と公言することはできませんよね。 > ○ さとりを確かなものにしよう。また ひととの関係 社会の中でこそ 確かなものにしていこう。 :ということは、ある程度さとり(または、それに近い内省)を得ている人たちを対象にしておっしゃっていることになるのでしょうか。 また、 「>ひととの関係 社会の中でこそ 確かなものにしていこう。」 とのことですが、それができないからこその悩みが多いわけですし、救いを求めるのではないでしょうか。 それに対する救いの方法論としてはどうなんでしょう。 宗教のように「なにはともあれ、すくわれている、と宣言したまえ」ということでもないのでしょうし、どうもよく理解できません。 >他者との関係において 自己に誠実であろうとするときには 上にも触れましたように わたしの自己欺瞞の危険性を 他者の前にも さらすということだと思います。それが 世界の中で 《すくわれた》と受けとめることではないでしょうか。 :私にはどうも逆としか思えませんが。 すくわれたと受け止めることができた段階で、「>わたしの自己欺瞞の危険性を 他者の前にも さらすということ」が可能になるのではないでしょうか。 >★ つまり、救ったものこそ救われた者だから、と私は考えるからです。  ☆ これは たぶん そのつどの情況における振る舞いと つねに 直接にかかわった事態を言っておられるのではないでしょうか。生きる上で 基本的な姿勢として 《すくわれた》と言うという境地の問題とは 少し 認識の意図がちがうように思えます。 :「認識の意図」が違っていますか。 ほんと頭悪くてすみません。 具体例があるとわかりやすくて助かるのですが、たとえば教会の神父さんと懺悔者との関係なんかはどうでしょうか。 教会のことはよく知りませんが、一応の図式として救い救われる者という認識が一般的だと思われます。 これは今回のご質問の意図の範疇に納まる例でしょうか。 そうであるとするならば、私としては神父も、というより、神父のほうがむしろ救われている者だろうと思う。 こういう意味だったのですが。    

noname#80116
質問者

お礼

 みなさんへ。  あす――あすに限って―― 朝早い用事があります。重要なものですので 早く就寝します。あす 昼前ころから ご返事を書けるかと思います。  この点 よろしくお願いいたします。それでは また あす。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ bragelone

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  ★ 私にはどうも逆としか思えませんが。  ☆ おそらく 目指すところは――とうぜんのことでもありますが―― 同じなのに この《宣言》をめぐっては 結論が 総じて言って 逆になるようですね。  ☆☆ ですから 相対的な意味合いにおける《すくい》です。  ☆ この前提において そのすくいの宣言から 出発します。ですから  ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点も〔* ひとがおしえてくれるぶん より一層〕わかるし 出れば ただちに 直そうとします。  ☆ ということなんです。公言していなければ 自分の内面において 自分の努力だけで 気をつけているし 直していくということだと思います。  ★ :ということは、ある程度さとり(または、それに近い内省)を得ている人たちを対象にしておっしゃっていることになるのでしょうか。  ☆ これも 同じですね。あくまでも《相対的なさとり・すくい》ですから。《さとり・すくい》という概念じたいは 絶対的な中身を言っているのでしょうが その体得・体現は 段階があって 完全なものだとは捉えていないという意味です。  それゆえに この段階に沿って しかも 自分ひとりとしてではなく(つまり 公言しないままでではなく)  ☆☆ ひととの関係 社会の中でこそ 確かなものにしていこう。  ☆ という姿勢を採ります。また みなさん そうしましょうという意味をも述べています。  ★ 救いの方法論  ☆ などは 問うていないのです。ここでは です。きわめて おおざっぱな中身であってもよいから すくわれていると ひとに向けても 言おうというものです。趣旨説明に述べたように 情況証拠は 出来て来ているわけです。それだけで いいはづだと踏んでいます。  (たぶん こんな提案をすることは いままで なかったでしょう)。  (宗教は 忘れてください。もしくは この宣言が 宗教を 飲むという理解で 捉えてください。宗教は どうでもよいという意味です)。  ★ すくわれたと受け止めることができた段階で、「>わたしの自己欺瞞の危険性を 他者の前にも さらすということ」が可能になるのではないでしょうか。  ☆ これは おっしゃることと ほぼ 同じです。わづかの差は  ★ 可能になる  ☆ というよりは こう表現します。  ○ すくわれたと受け止めることができた段階で――それを公言し その公言によって―― 「>わたしの自己欺瞞の危険性を 他者の前にも さらすということ」を自覚的におこない始めた。したがって 他者からの自由な批判を あらためて自覚的に すべて引き受ける決断をした。    ★ 救ったものこそ救われた者 / 教会の神父さんと懺悔者との関係 / 神父のほうがむしろ救われている者だろうと思う。  ☆ これは 無理です。と言いますか 認識が別です。わたしも 教会の具体的な事情は 知りませんが 神父だから救うというのは なんとも 分かりません。きっかけになるとは 捉えています。  そして そもそも――これは クリスチアニスムの根幹にかかわりますが―― 懺悔をしたから救われるというものではありません。すくいは 人間がどう思い行動するかには いっさい 関係ありません。神が 勝手に すくうのです。  そういう意味でも 宗教は忘れてくださいと申し上げていますし ただし 神を持ち出しては 話が進みませんから 《とにかく 誰に何にどう救われたかの事情は どうあれ 自分が〈すくわれている〉と思うか そして 宣言するか》を問題としています。  ということは いまの例では 神父にしろ告解者にしろ 仮りに それぞれが 相手によってすくわれたと思ったのなら その相手のことは出さなくてもよいという形で 《すくわれている》と宣言することを問題にしたいと思います。  《誰れによって 何によって どういうかたちで〔すくわれるか〕》を問わないというところが 味噌です。    ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?  ☆ 《すくわれている》の前段階とそこにおける事情は 問わないという意味です。問うたのは わづかに 情況証拠だけです。  ですから 《すくわれている》ととにかく思ったなら なぜそう言わないのかです。もしくは 《すくわれていない》からという答えがありうるというかたちです。どうでしょう。

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noname#117439
noname#117439
回答No.37

オコリザルです。 自分で質問を立てないのはずるいかもしれませんが。 人間は悪そのものになりきれるか。 こんな感じの質問はどうでしょう。 悪意は「意」と言う漢字を当てながら感情ではないとするのが私の見解です。 集まってくる回答はただの欲張りを悪と見なしているだけが多く、又は罪をなしているから悪なのだという、どちらにしろ間接表現ばかりでしょう。 つまり内面をうかがい知ると言行とは別に悪意が所在すると推測するばかりになるのではないかと考えます。 そこらら、悪は内面の問題で現象しない。 つまるところ存在しない。 と結べるのではないかと考えます。 私が質問するとまた八百長試合です。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり内面をうかがい知ると言行とは別に悪意が所在すると推測するばかりになるのではないかと考えます。  そこから、悪は内面の問題で現象しない。  つまるところ存在しない。 と結べるのではないかと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。現象として起こっていることは ひとの行為であるとしたら ともかく 意志の発現であると まづ 捉えます。  ★ 言行  ☆ のことです。そのとき  ★ 内面をうかがい知ると言行とは別に悪意が所在すると推測  ☆ される場合があるという事態です。ま 実際問題としては  ○ 前言をひるがえして うそを言っている。とか ナイフを持って 突き刺そうと迫ってくる。とか  ☆ その外面としての《言行》そのもので 《悪》だと分かるものがあります。問題は 意志行為であるという意味では その意志の発動において――もしくは その意志の判断・決断において―― 明らかに へそを曲げているというその歪みにあります。つまり  ★ 悪は内面の問題で  ☆ あります。善を損傷させるという内面決断にあります。あとは それが 外面の行為に現われたというに過ぎないこと このことをおっしゃっているのだと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 人間は悪そのものになりきれるか。  こんな感じの質問はどうでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。たしかに 組織ないし集団の責任ある地位にある人間が 決断を迫られる場合に 問題になると考えます。一対一で相い対している場合だとか 家族の内では 事情を説明することによって 《悪に成りきる》ことを回避すると考えます。  では 組織集団の指導者は どうするか。昔は あったでしょうね。《悪そのものに成りきる》ことが。とくに 戦争が 国際舞台では 政治の延長として 捉えられていたときには この戦争決行じたいが すでに 悪そのものに成りきることでしょうから。  収用という制度で 立ち退きを強要する必要がある場合もあるでしょう。  もっと 泥くさいこととしては 昔では 悪の親分との一騎打ちが 政治家にとっては ひと勝負だったかも知れません。もうこれは 壊滅させるにしても どこか中間で手を打つにしても 悪そのものです。  たしかに この場合  ○ 人間存在そのものが あたかも 悪である場合。  ☆ これが 課題になるかも知れませんね。あたまのてっぺんから爪先まで 悪に染まっている人びとも いるには いるようですから。  ただし そう簡単に 質問を作れる問題ではないようです。そもそも 具体的には 事情を知らないのですから。

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回答No.36

>☆ 総合的に言って もとに戻るのですが そして抽象的になるのですが >○ 《わたしは すくわれている》と宣言して あゆむ行き方 >☆ が 《次への備えになる》という考え方です。どうでしょう。 >いわゆる境涯の問題として見たいという意味です。ホテル・カリフォルニアに戻りましたか。 いちばん解りやすいと思われるポジティブシンキングを全面に持ってきます。 日頃から、この「シンキング」はいぶかしく思っているんですよ。 いわゆるポジティブシンキングは大いに結構ですが こう言う場合どちらかというとポジティブマインドとかポジティブスタンスのほうが 適切なんだと思うんです。 「シンキング」の論理思考部分はネガティブでないとその機能の半分は失われます。 例えば、ある交差点で衝突事故を起こして、 もし、ここで事故を起こさなかったら、次の交差点でもっと大きな 事故を起こしていたに違いない などとポジティブに思うことは、 大切なことです。 しかし、今後、交差点ではもっと左右をよく見て、通行することを 習慣づけようというネガティブシンキングをしなければ 失敗は繰り返されます。 ポジティブな思考だけをするのは愚かなことです。 すくいは、習慣づけ等の具体的な対応策、そしてそれらの積み重ねに あります。 失敗の傷にはしっかりと荒塩をすり込んで、対応策によってもう二度と失敗は しない、つまり、痛みを消化して完了するというのが現実です。 ポジティブスタンスというのは、その上の層にあって、 そういった痛みを通過することは当たり前であって、最終的には、上手くいく、 失敗しても最後は成功するという、漠然とした自信なのではないでしょうか。 そういった意味での「いわゆる境涯の問題」をポジティブに捉える、あるいは、 「わたしはすくわれている。」というスタンスは、大いに肯定するところです。 ホテル・カリフォルニアというのは、そういう意味では、この痛みや苦悶という代償を 支払わないことが楽園であるという勘違いを突いているのだと思いますね。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  おおっ わたしの意見も 土俵際で 残りましたね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ホテル・カリフォルニアというのは、そういう意味では、この痛みや苦悶という代償を / 支払わないことが楽園であるという勘違いを突いているのだと思いますね。  ★ ポジティブスタンスというのは、〔ネガティブシンキングを伴なったポジティブシンキングの〕その上の層にあって、 / そういった痛みを通過することは当たり前であって、最終的には、上手くいく、 / 失敗しても最後は成功するという、漠然とした自信なのではないでしょうか。  そういった意味での「いわゆる境涯の問題」をポジティブに捉える、あるいは、  「わたしはすくわれている。」というスタンスは、大いに肯定するところです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アウグスティヌスというおっさんも けっこう 血も涙もある人間でしょう? 言い方として 教条主義のところもあるにはありますが 基本としては そうではありません。人間に出来ないところ・弱いところを しっかりと見据えて ものごとを考えていきます。重ねて引用しておきます。   ▲ ( Augustinus)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的なものごとの判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。   * 《このようなもの》とは ここでは端的には 情欲のことですが ひとの侵す《失敗》ないし《毒麦》として いいと思います。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  * 次なる課題は なんですか?

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.35

>まぁ 《さとった》と能動的に表現するのも いいかも知れませんが 《さとりを得た》ことを《すくわれた》と表現しても  ★ 矜持  ☆ を失うとも思えないのですが どうでしょう?  ★ 自我崩壊  ☆ にむすびつきますか? :私にとっては論点の骨子を明確にしていただけた箇所と解釈しています。 つまり、 1、さとりを得ないうちから、得たような気になる。 このことを促進することにはつながりませんか? どなたかもおっしゃっていたかもしれませんが(意図が違うかもしれませんが)、本当に救われたわけではないから、つまり、まだ先があるから、という場合が多いのではないでしょうか。 この意味では無闇に「救われた」と口にすることが、また、それは一種の自己放棄という甘美も伴いやすいだけに、むしろ欺瞞的感覚への芽を育む危険せいこそあれ、なんら得るところはないとさえ考える次第です。 さらには、本当に救われたと感じる者はおそらく、そのことを口にしないだろう。 という気がします。 むろん、救われたと感じない者も同様に口にはしないわけですが、そこを峻別する必要はないでしょう。 なぜなら、それを確かめることによって得るものは何もないはずだからです。 つまし、救ったものこそ救われた者だから、と私は考えるからです。 2、1の見解をご検討していただきつつ、すくわれたと感じたときに、「すくわれた」と口にすることのメリットを教えていただけないでしょうか。 「>自分が自分をすくったとは言い難いと考えるからです。想定外のことであるとか 他者による助けであるとか そういう要因があるからには どうしても すべてが 自力の結果であるとは言い難い。」 ことは間違いないと思います。 しかし、それは、「親がいなければお前は生まれてこなかったのだから親に感謝しろ」という理屈に似ているような気もします。 親を親とも思わず、恨んで憎み、自力で苦労し努力し、しかし、あるとき、ふと、遺伝子の連なりなどといったような感慨に耽るゆとりが生まれたようなときに、ふと、親はありがたいものだ、と自然にひとりごちることはあるのかもしれません。 しかし、そう思ったからといってそう宣言するべきことではないのではないでしょうか。 自らの生き様を充実させることによって、親もそれを感じる。 こういったありようのほうがむしろ自然なように思われるのです。 つまり、「すくわれた」と聞きたいのは単に自己満足にすぎないのではないでしょうか。    

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。   最初に  ★ 「すくわれた」と口にすることのメリット  ☆ につきましては こう述べています。  ☆☆(No.16補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点もわかるし 出れば ただちに 直そうとします。  ☆ そして もう一点は この自己宣言を阻むものが じつは 外面にもあるのではないか そういう問題も考えております。広く人心操縦術(マインドコントロール)の問題です。あるいは 道徳規範は愚の骨頂の問題です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 後半の第二点は 措いておきます。前半のことがらが 最大のメリットです。  ということは  ★ さとりを得ないうちから、得たような気になる。  ☆ のではなく その逆です。  ○ さとりを確かなものにしよう。また ひととの関係 社会の中でこそ 確かなものにしていこう。  ☆ というのが ねらいです。このように 社会性を持つか持たないかで そのすくいなり さとりが 謙虚であるかないかを決めるのではないでしょうか。  ○ 宣言する・公言する  ☆ だけで えらい違いだと考えます。自己を取り巻く情況や局面が 右か左かの違いをさえ生むと思われます。謙虚でなければ出来ません。  ★ まだ先があるから  ☆ 宣言するのです。そうでなければ 仏道修行とやらの隠遁生活で済みます。  ★ 一種の自己放棄という甘美も伴いやすい  ☆ というのは あまりピンと来ませんが(《自己崩壊》と同じように ピンと来ませんが)  ★ 欺瞞的感覚への芽を育む危険性  ☆ は 見方によっては そうなのでしょうが(特に 組織宗教の中での《すくい》にかんしてです) ひとりで宣言するぶんには 何も 問題ないはづです。自己欺瞞ではないのかという・人々からの突っ込みが より一層多くなるだけですから。  ★ 本当に救われたと感じる者はおそらく、そのことを口にしないだろう。 / という気がします。  ☆ これは これも 社会性の問題だと考えます。すなわち 《口にしない》場合は 社会性を 《どこまでも自己に忠実であろうとして 誠実をつらぬく形で》得ようとするのだと考えられます。他者との関係において 自己に誠実であろうとするときには 上にも触れましたように わたしの自己欺瞞の危険性を 他者の前にも さらすということだと思います。それが 世界の中で 《すくわれた》と受けとめることではないでしょうか。   この場合は 自己欺瞞を みづからが みづからの力で 予防し克服していけるという自信の現われであるかとも推測されますが もしそこまでの自信がある場合でしたら 宣言したも同然なのではないでしょうか。  ★ つまり、救ったものこそ救われた者だから、と私は考えるからです。  ☆ これは たぶん そのつどの情況における振る舞いと つねに 直接にかかわった事態を言っておられるのではないでしょうか。生きる上で 基本的な姿勢として 《すくわれた》と言うという境地の問題とは 少し 認識の意図がちがうように思えます。もし同じであるなら それは 《すくわれた》と密かにでも宣言している人が 《救おうとする》その振る舞いのことを捉えて言っておられるのだと理解します。その結果が 好首尾であったという場合です。  ★ 親に感謝の問題  ☆ と社会の中において ひとから直接間接の援助を得ているということとは 別のように思うのですが? 親の援助は 社会生活をしていくことが出来る人となる前の段階におけるものですから。  どうでしょう?

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noname#117439
noname#117439
回答No.34

オコリザルです。 A30の逆質問に私なりの見解なんですが。 危機に打ちのめされるだけの現実から、危機を跳ね除ける会話術なり格闘技が勝利しつつあるように感じます。そして誰かもうろくした人が、相変わらずいずこかで、醜い行いを繰り返しているとしても、そのような危機はわたしからとうざかって行くのではないかと考えるといいますか、勝利の上に発展しつつあります。

noname#80116
質問者

お礼

 直前のお礼欄につづいて 最近の社会的な情況変化に関しての事項です。  (6) ★ 危機に打ちのめされるだけの現実から、危機を跳ね除ける会話術なり格闘技が勝利しつつあるように感じます。  ☆ そうですか。たのもしいですね。  ★ 格闘技  ☆ というのは 精神的なそれでしょうか? 大きく言った会話術の問題でしょうか。  (7) ★ そして誰かもうろくした人が、相変わらずいずこかで、醜い行いを繰り返しているとしても、そのような危機はわたしからとうざかって行くのではないか  ☆ はぁー。これは 変わりましたね。引っ張られることがなくなって来たということですね。そうして  ★ 勝利の上に発展しつつあります。  ☆ むかし   ◆ 勝利だよ。勝利だよ。  ☆ という文章を書いていた人がいましたが たしかに 勝負ではないのですが 勝利の問題になるでしょうね。そういうことだと思います。  ▲ すでにわたしは 勝利している。  ☆ と言っていた人もいました。  この質問は もうしばらく続きそうですね。ご回答をありがとうございます。

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noname#117439
noname#117439
回答No.33

オコリザルです。 なんといいますか、哲学において格闘技でない話し合いができるお仲間が多いみたいですね。 命題によっては二人きりで噂話のように話しこんでいた状態とは変わりつつあるようで喜ばしいです。 私は内観を主体に考え込む癖がありますので、今回のご質問に至った経緯など世の中の現状について、どのように変化しつつあるのか教えていただけないでしょうか。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  わたしのほうも   ★ なんといいますか  ☆ 情況が変わってまいりました。すでに 社会全体として《〈羞恥心〉現象》と ここでの《女性の参加の増加》の二点を 挙げてみました。  ★☆ 喜ばしい〔こと〕です。    ★ 今回のご質問に至った経緯など世の中の現状について、どのように変化しつつあるのか教えていただけないでしょうか。  ☆ そうですね。  (1) この質問では 歴史の大局に立って No.4でのyukkinn66さんとのやり取りが 現代社会における情況をも説明すると考えます。   (2) あとは この哲学範疇での質問の推移を 直に 体験して来て その流れに棹差して得た質問形式になると思います。  (3) その質疑応答の中においても 日本社会にかんしての情況変化という事態も 要因に加わっています。それは いわゆる権威を へのかっぱだと見てよいとさえ思わしめた(?)《羞恥心》トリオの活躍という現象ですね。これは (2)の内容として  《Q:道徳規範は 愚の骨頂》   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html  《Q:道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)》   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4650551.html でのやり取りであり 特にはこの(3)としては そこでのbananasand さんのご回答が 発端となっています。  (4) 同じく ここでの質疑応答としては  《Q:悪は 存在しない》  〔最初のは 削除されましたね〕  《Q:存在は 善悪を超えている。》   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html  《Q:悪は 存在しない》〔あらためての設問でした〕   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  これらが 積極的な流れを作ったのではないでしょうか。すぐに思い出すものとしては CUE009さんの《存在は 善悪という価値判断に先行する》という命題でしたね。  (5) それと 手前味噌をひとつ追加しますと 日本社会論を 自前でつくったものとして わたしが 披露しているところも 促進したかも知れません。これは この質問においても そこここに 出て来ますので 参照してください。  こうして 水嵩が増して来たという情況なのではないでしょうか。  かんたんでしたが さらに突っ込んでもらっても よいと思います。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.32

○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? 1、 まず、「すくわれている(のに)」という仮定条件の設定自体が誤っている場合でしょう。 bragelone さんとしては無論、折込済みでしょうが、「どう見ても救われている」という絶対的(断定的)価値観は存在しないのだろうからです。 2、 言わずもがなの視点から入ってしまいましたが、では、たしかに救われているのにそう言わないのはなぜか。 それは救いではなく「(単なる)きっかけ」に過ぎない、と認識されるからではないでしょうか。 つまり、自分を救ったのはあくまで自分であると捉えるのではないか、と思います。 「救いかもしれない」という感覚はあるでしょう。 ただ、その救いを受身的に受け入れてしまうと、自己の喪失につながってしまうような不安を覚えるのではないでしょうか。 「救い」という語から神が連想されるように、「救われた」と受け止めることは、相手に全てを委ねてしまいそうな危険性を感じるわけで、つまり、自我の崩壊を防ごうとする防衛機制の一種と捉えることができるかもしれません。 逆に、全て委ねても差し支えないような相手に対しては「救われた」と言えるような気もします。 ただ、この場合、方向性としては自我崩壊しても構わないということのほうへ傾くことになるでしょう。 その意味では、自我のバランスを取り続けざるを得ない人間らしい反応であるのかもしれません。 身も蓋もない結論かもしれませんが、矜持によってであり、しかし、矜持が全くなくなることが好ましいとは思えないので、「救われている」とあえて宣言する必要はないのではないか。 ということになりますかね。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ◆ (No.1=maimaisusさん) ~~~~~~~~~~~~~~~  「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という見解を受け取って 考えたことは こうです。  ○ いわゆる《絶対他力》――わたしが そうなのですが――の場合を採って比べても 《絶対》の領域ないし《〈絶対〉との関係》を想定した領域を別とすれば 《自力による努力》は まったく 誰れもが同じように おこなっている。  ☆ ということです。経験世界では 有神論・無神論の区別はないと考えます。  では なぜ 《すくわれている》というように 受け身で表現するか。  これは かんたんです。そもそも ひとが 社会の中で 思うように生き動き存在することは かなわないという基礎に立つということです。  自分の能力と努力とで 自分をすくうのですが そうではあるのですが 最終的に――という意味は すくいをもたらした結果すべてについて 残らず自分の功績であり意志のはたらきによるという形において―― 自分が自分をすくったとは言い難いと考えるからです。想定外のことであるとか 他者による助けであるとか そういう要因があるからには どうしても すべてが 自力の結果であるとは言い難い。  以上のような前提で 質問趣旨における表現のかたちが選ばれています。どうでしょう。  ★ 「どう見ても救われている」という絶対的(断定的)価値観は存在しない。  ☆ ですから 相対的な意味合いにおける《すくい》です。また だから 宣言し得ます。  ★ ただ、その救いを受身的に受け入れてしまうと、自己の喪失につながってしまうような不安を覚えるのではないでしょうか。  ☆ ですから 《受け身》で表現しないとなれば あまりにも 自己中心的になるのではないでしょうか。むしろ その認識の仕方は 世界観として 歪んでいると考えられるではないでしょうか?  《天上天下唯我独尊》ととなえた人も 過去に 壮烈な修行をおこなったわけではないですか。誰からも助けをもらっていないということは ないでしょう。まぁ 《さとった》と能動的に表現するのも いいかも知れませんが 《さとりを得た》ことを《すくわれた》と表現しても  ★ 矜持  ☆ を失うとも思えないのですが どうでしょう?  ★ 自我崩壊  ☆ にむすびつきますか?  今回は 全体として わたしからの尋ね返しになると思うのですが?

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回答No.31

おはようございます。 >そうですか。だめな場合もあるのですね。あるのですか。 >○ 究極の悪(または 真の敵)とは何か ☆ という質問をしてみましょうかね。 「悪」は、長くなりすぎ、「真の敵とは何か」というと難しいので何が真の敵かを考えてみました。 その一つは、何かの欠落があるために、「失敗」というものを未然に防ぐことが出来なかった場合の何かにあたる部分です。 何が「失敗」にあたるかは、議論があるところでしょうけれども、 少なくとも、結果として、自・他の生命・財産を侵し侵されることは これにあたると考え、純粋に精神的なもの、情報だけのものは取りあえず除外しておきます。そして、人間が事前に知りえて、人間の行動によって防ぐことが出来たものは不可抗力も含むとします。 「失敗」は、有形で現実的なもので、時間変化、状況の変化に伴い、どうしても発生してしまいます。ここがbrageloneさんの言われる だめな場合にあたるのではないでしょうか。「失敗」が敵とも言えますが、未然に防げなかったことが敵となります。 この「未然に防げなかったこと」に対して、 救われている、神のご加護、他からの救助、ポジティブシンキング を持ってきたところで、その失敗は癒されても、それだけでは次への備えにはなり得ず「失敗」は繰り返されます。 「失敗」を「未然に防ぐ」には不断の注意と忍耐を自分で支払わなければなりません。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 「失敗」は、有形で現実的なもので、時間変化、状況の変化に伴い、どうしても発生してしまいます。ここがbrageloneさんの言われる だめな場合にあたるのではないでしょうか。「失敗」が敵とも言えますが、未然に防げなかったことが敵となります。  ☆ そうですね。まづ 古典的には 問題は 決まっています。  ○ あやまつは 人のつね。To err is human, to forgive divine.  ○ 過ちては則ち改むるに憚ることなかれ。It is never too late to mend.(これが 載っていましたが もっと的確な表現があったみたいですが)。  ☆ 問題は 同じあやまちを繰り返しても 平気でいる神経。あるいは さらに 平気で 同じあやまちを――看板の塗り替えだけで――繰り返す神経。これが 難なくゆるされ 無責任体制のもとに 存続するという事態。なのでしょうか。  例によって 旧い表現形式ですが そして すでによく引き合いに出して来た文章ですが 引用します。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的なものごとの判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。   * 《このようなもの》とは ここでは端的には 情欲のことですが ひとの侵す《失敗》ないし《毒麦》として いいと思います。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。  魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。  自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。  (アウグスティヌス:『三位一体論』12・10 中澤宣夫訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  救われている、神のご加護、他からの救助、ポジティブシンキング を持ってきたところで、その失敗は癒されても、それだけでは次への備えにはなり得ず「失敗」は繰り返されます。  「失敗」を「未然に防ぐ」には不断の注意と忍耐を自分で支払わなければなりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 総合的に言って もとに戻るのですが そして抽象的になるのですが  ○ 《わたしは すくわれている》と宣言して あゆむ行き方  ☆ が 《次への備えになる》という考え方です。どうでしょう。  いわゆる境涯の問題として見たいという意味です。ホテル・カリフォルニアに戻りましたか。

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noname#82286
noname#82286
回答No.30

>(1) アマアガリ症候群にかかった人たちの心理作用  (2) アマテラス予備軍シンドロームに罹った人たちの心理作用 > いやよく分析していらしゃる、まったく同分析です  勝手に分析して怒られるかもしれませんが、おそらくですよ失礼な書き方になると思いますが思い切って書きます  おそらくご自身が自分が自由に振舞いたいとか待遇をよくしてもらいたいとかいう願望があるのかな?と勝手に思ったりしました、無論無関係なら別ですが関係があってそれで投稿しているとなるならばそうなのかな?と おそらくお上のものに対する劣等感としてあらわれているような気もします、このようなのを投影とかいいますが、投影というのはおそらく90度位ずれているんだと思います、ずれているのでそのズレの部分を不当と感じるのがおそらく複雑投影ということになるのかな?と、おそらく「高慢な態度」「不当な権限」「不当な圧力」「悪行」などがズレの部分で、「待遇が良い」「自由に振舞える」「権利がある」などが投影の部分なのかな?と思ったりします  もう一つに考えられるのは相当不当な圧力を掛けられたという経験か感化されたことがある、というのです、これはどう違うのかというと自己満足を四方八方から圧力を掛けられるということで憤りを感じるというのものです、これは投影ではなく単純に圧迫というものです、いじめられる子供と同じようなものです  どちらかわかりませんがとにかくその反動なのかニアンスからお二階さんや統治者に対する憤慨とコントロールがうかがえます、それでコントロールの方がわずかに上回っているのでそのせいか分析がおそらく的ているのではないかという気がします >とにかく 鬼火が燃えています。排泄された意識が 亡霊となってのごとく そこら中を 網の目のように たむろしつつ徘徊しています。  おそらく このような分析を みなの共同主観(コモンセンス)にすることができたなら この幽霊は そろそろ 成仏するようになるのではないでしょうか。> まさにそうでしょう そうなっていただけるとこの国も進歩になるのだと思いますね

noname#80116
質問者

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 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ ・・・この〔アマアガリ病から来る意識の排泄およびアースという弱い者いじめの電磁波なる〕幽霊は そろそろ 成仏するようになるのではないでしょうか。>  そうなっていただけるとこの国も進歩になるのだと思いますね  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということで もう 何もつけ加えることもありません。  ひとつ気になったことは あります。余談に近いものです。  ★ 投影 複雑投影  ☆ これは 哲学にとっては いっさい 関係ないと知るべきです。  いくら ルサンチマンが強くても いいのです。ルサンチマンの塊であろうと かまいません。分析と理論が 妥当であれば ひとは それによって 癒やされます。世界との・また自己との和解が 得られます。  つまりは たとえ わたし bragelone 自身が 《アマアガリ病の亡者》であったとしても かまわないわけです。問題は その意志行為や判断の妥当性いかんにあります。(その点 ニーチェのルサンチマンに関する議論は これも亡霊となってのごとく この論点では ひとに 襲いかかっている部分が 大きいようです)。  《投影》があろうがなかろうが 理論内容の問題なのです。学者が言おうがひとりの人間が言おうが 誰が言ったのかは 問題になりません。(ま 発言の答責性 あるいは 果ては 著作権の問題さえ 別の側面では あるにはあるでしょうが)。  現代人は 心理や精神を分析すれば かっこうよいと思っているのでしょうか。心理は心の海の表面に立った波でしかありません。精神は この心です。心理の悩みや苦しみによって 精神が病むということはあり得ません。その心の海の分析などというものは そのことを一度知って――つまりは 自己にいちど還帰して われを回復するならば―― おしまいなのです。精神分析は その入門・即・卒業なのです。能天気たるべし。(このひとことは わたし自身の主観が色濃いものです。つまり 自分の性格が 世の中で 有利にはたらいて欲しいという欲の皮が張ったところの言動です)。  人びとは 波立つ海面にばかり なぜ 注意を向けるのでしょう? 逆に すくわれていると宣言するならば そのような海面の胸騒ぎは すべて 外からやって来たもので むしろ こちらは 相手の動揺を そのようにして 受け留めてやっているのだと なぜ 分からないのでしょう。  ★ 投影も 複雑投影も 二重三重の投影輻射も  ☆ どう言おうと すべては この世界において わたしの外側に起きている現象を――とうぜん 反映させているでしょうし―― 分析したものです。わたしの中に ルサンチマンがあったとしたら それは 内側にもあるということでしょうが ひとから見れば 外側のものになります。つまりは 外側の おもには 心理現象の――海の表面における波風の――哲学的分析であるということでしょう。  そういう愛が――思いやり合いが―― 世の中には ふつうに自然にと同時に意志をとおして はたらくというべきものではないでしょうか。たとえ すくいや和解や癒やしが まだであっても そのように心理の波風を 包みこみ合い 温め合っていけば 何の問題もないでしょう。それが 心理学・精神分析の究極の結論であるはづです。人びとは 何をめんどうな・こむつかしいことを 研究し 議論しつづけているのでしょう?  ★ おそらく「高慢な態度」「不当な権限」「不当な圧力」「悪行」などがズレの部分で、「待遇が良い」「自由に振舞える」「権利がある」などが投影の部分なのかな?と思ったりします  ☆ 当たっていると申しておきますが このような《ズレ》や《投影》を入れて 表現することのほうが わたしの主観を 公共的な精神に仕えさせ その言論内容に妥当性を与える こう思います。それは いわゆる自己言及性の問題です。自分の問題を 棚に上げて 議論をしたり あるいは 精緻な理論を作ったりしても あまり 面白くなく 役に立つことも少ないというのが 実際であることを意味します。  主観丸出しであっても 一般的な妥当性を持つというのも 不思議です。  TENNTENNSEVENOKさんに対して わたしbragelone からのお小言です。いつもえらそうぶりたくなるという心理の投影です。どうでしょう。

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回答No.29

こんばんわ。 なるべく質素に回答したいと思います。 >あなたは すくわれていますか :はい。ありがとうございます。 >あなたは すくわれていますか :体を張つて(?)大きな声で(?)「悪は存在しない」 ということを言いふらしている方に たまたま出くわすという幸運があつたためだと思います。 >ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? :すくわれているからこそ、生きている、 「善」を、常に受け取つているからこそ、生きている、 ということを、忘れてしまつたからではないかと思います。 >なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? :大声で堂々と「善」を求めることを、阻害された人がいるのだと思います。 阻害されたこの人には「善」が不足することになるので、 「善」を得て、「善」を与える、という「善」の循環を見ることはできません。 >なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? :(わたしを含め)大声で「善」を求め、循環させたがるものに対し、 異質感(?)のようなもの・偏見のようなもの、拒絶のようなもの、 これらをときどき強く感じます。 >なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? :忙しいような気分になつているからです。 時間には向きがあり、生き物は発酵・腐敗に向かうので、 声を発する「時間」と「労力」を、たびたびケチつてしまうのです。 >なぜ すなおでないのでしょう? :「すなお」というのは「己の欲求に従順である」ということですか? そうだとして続けます。 これは「己の欲求」について考える機会に恵まれなかつたからです。 また何か話したくなつたら現れます。 現れないかもしれませんが。 読んでくださりありがとうございました。

noname#80116
質問者

補足

 neutralさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。(字数制限により 補足欄にて お礼をお伝えします)。  わたしのことをほめてもくださり ありがとうございます。ここに現われて 実質的にほぼ三年になりますが こんなふうに 直接に光栄なおことばをいただけるなんて ありがたいですし 感覚としては 世の中 変わったなぁというような思いがして来ます。  ちょうど 今年になってから わたしは 次のような一見 挑戦的な質問をしました。  ○ 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》  ○ 《Q:道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)》  ☆ そこで 〔ちょうど〕この質問でも回答してくださっている〔お名前を挙げてもよいと思いますが〕 bananasand さんが   ○ 《〈羞恥心〉現象》  ☆ を指摘してくださいました。これは  ○ 固定した道徳規範の縛りを 難なく 突き破って 自然本性の解放を 実践し 人びとは――あるいはむしろ 人びとのほうこそが―― この《羞恥心》の連中の振る舞いを よろこんで 迎え容れた。  ☆ というものです。そのような世の中の変化も そう言えば 連れだって 見られるのだなぁと思いましたし あるいはまた このところ――何も特別視するわけではないのですが―― neutralさんを含め 女性の方々の活躍と言いますか ご投稿が多くなったようにも感じます。ちなみに 質問者ですが わたしは  ○ 万葉集のルネサンス  ☆ と呼ぼうと思っています。万葉集は 無名の作者の作品が 半数を超えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  :すくわれているからこそ、生きている、  「善」を、常に受け取つているからこそ、生きている、  ということを、忘れてしまつたからではないかと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ri-zyuさんは これを 昔からの言い方になるかも知れませんが  ○ 自覚の有無  ☆ として指摘されましたし yukkinn66さんは 次のことを説明に加えておられます。  ○ 貨幣経済における貨幣という媒介物の存在に 人びとは 馴染み過ぎた。つまり 何も 利益をむさぼったり 強欲であったりするからというのでは必ずしもなく 社会生活あるいはコミュニケーションじたいが 媒介物を あたかも常に必要とするかたちで 行なわれている。愛も性も心の動きも 媒介物をとおして あたかもモノであるごとく やり取りされている。このことによって みづからが  ★ 「善」を、常に受け取つているからこそ、生きている、/ ということを、忘れてしまった  ☆ というふうにです。  ★ 大声で堂々と「善」を求めることを、阻害された人がいるのだと思います。  ☆ この《阻害》については 質問者のほうから  ○ 人びとは お二階さんによって そのえらい人たちの不快な意識の排泄を浴び その感情を 電磁波のごとく アース(接地)しようとしてくるごみ処理場と化しているのではないか。  ☆ というふうに 受け身の問題を 仮説して 指摘しています。これでは そこからさらに 弱い者いじめが始まるかのように 意識の排泄やアースの悪循環になってしまう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  :(わたしを含め)大声で「善」を求め、循環させたがるものに対し、 / 異質感(?)のようなもの・偏見のようなもの、拒絶のようなもの、 / これらをときどき強く感じます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 《道徳規範は 愚の骨頂》の問題として 《和を以って貴しと為せ》なる道徳律の代物があります。《「善」を求め 和を求め いじめ循環を断とうというごくふつうの心を訴える声が 世間一般からは 〈和を乱す〉から黙れと見られがちであった》。  いいことを言うと 信じられないという反応を 条件反射のごとく 起こします。一人で 勇気ある行動をすると 権限を持った上の者が取り上げ称賛するまでは むしろ和を乱す個人プレーだと見られます。  ★ 時間には向きがあり、生き物は発酵・腐敗に向かう  ☆ とのこと。いつも いつまでも 泉のごとく 新鮮でみづみづしくいたいものですね。  上に触れましたように あの 閉塞感を吹き飛ばす突破口として 《〈羞恥心〉現象》を指摘したbananasand さんが ここでは この《いつも新鮮でみづみづしいすなお》が 永続しないのではないかと嘆き訴えておられます。これも 今後の課題です。  勝手な言い分のところもあるかと思いますが このように率直に受け留めております。ありがとうございました。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  § 5‐b 日本教について  この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。  ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99  (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。    (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。  (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。  (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。  (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。  (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。  その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。  (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。   おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。  KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。  (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。   【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】   【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】  (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。  (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。   ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~   ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの    ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本    と申す泥沼に敗れたのだ。   ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。    ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。   ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん    だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申    したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言    葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。   ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。  司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。   ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言    った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが    ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな    らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて    おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは     それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな    く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる    とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲    げてしまったのであろう。  基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。   ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支    丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では    もう捕える気もない。   ――なぜでございます――と通辞が聞くと   ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ    のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば    なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百    姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても    似つかぬものになっておる。  頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。   ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知    れぬものとなっていこう。  そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。   ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。  奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。  菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。      (遠藤週作:『沈黙』 IX)   cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか?  (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか?  (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか?    日本教・総本山     =シントウならびにシントウイズム     日本教・ブッダ派     日本教・キリスト派     日本教・マルクス派     日本教・新興宗教派(遺憾ながら)     ・・・・  (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか?  (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。

  • 《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?

     《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。  その文章を取り上げ 二件 問います。  ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から  ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~  http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。  一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。  仏教はこころの自由は大事にします。 故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。  人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。    「救う事」は非仏教的な行為です。    仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。    スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。    話を聞きたいと思う人には話せます。 自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。 放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。    地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。 人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。    仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。    生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。 経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。  終り。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?  ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。  ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに  「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。    ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A.投稿ありがとうございます。  批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。  しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。  世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。  その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。  「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。  キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。  しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。  とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。  A.Sumanasara  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?   《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?  《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?  テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

  • 曹洞宗は戦争をどう考えているのか?

    懺謝文を読んでいたら気になったので質問しますが、 曹洞宗は戦争についてどう考えているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~ 懺謝文 われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外開教の美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。また脱亜入欧のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。しかも仏教の教義にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。まことに恥ずべき行為というほかない。 われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔したいと思う。 しかし、それはかつて海外伝道に従事した人たちだけの責任ではない。日本の海外侵略に喝采をおくり、それを正当化してきた宗門全体の責任が問われるべきことはいうまでもない。 さらにまた、曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人びとの痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するかのような視点で執筆し出版したことを恥と感じる。 また同時に、このような書籍の出版が太平洋戦争後三十五年を経てなされたということについても、重大な罪の意識を感じざるをえない。何故ならばそれは、宗門が明治以後、ある時は国家に阿諛(あゆ)迎合し、ある時は積極的に国策に荷担して戦争協力を行い、アジアの民衆に塗炭の苦しみを強いてきたという事実について、なんら反省することもなく、その責任すらも感じていなかったということに他ならないからである。 「歴史とは、過去と現在の間の尽きることを知らない対話である」といったのは、歴史家E・H・カーであるが、遺憾ながらわが宗門はこの対話の努力を怠り、過去の歴史に今を問いかけ、過去の歴史に学びつつ自らの座標軸を糾そうとする姿勢を持つことなく今日に至った。われわれは一九四五年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。 曹洞宗は、遅きに失した感は免れぬとはいえ、あらためてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。 われわれは「戦争責任」の重大性を認識し、アジアの人びとの痛みの上に立って、一九八五年二月以来、『曹洞宗海外開教伝道史』の文言の一々について徹底した読み直しを開始し、同書の随所に「民族差別による差別表現」「国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」が見られ、同書が歴史の書として誤った歴史認識によって執筆されているのみならず、抑圧された人びとの人権の視点を欠いており、人権擁護を推進しようとするわが宗門の立場と相矛盾するものであることを確認し、同書を回収し、廃棄処分することとした。 また、われわれはこの書籍の誤った歴史認識と差別表現を指摘したが、それは同書の誤りを指摘するのみでなく、歴史への反省を怠り、戦争責任を回避してきたわが宗門、及びわれわれ全宗門人にこそ向けられるべきことはいうまでもない。 思うに、仏教は、すべての人間が仏子として平等であり、如何なる理由によろうとも他によって毀損だれてはならぬ尊厳性を生きるものである、と説く。しかるにその釈尊の法脈を嗣受することを信仰の帰趨とするわが宗門が、アジアの他の民族を侵略する戦争を聖戦として肯定し、積極的な協 力を行った。 特に朝鮮・韓半島においては、日本は王妃暗殺という暴挙を犯し、李朝朝鮮を属国化し、ついには日韓併合により一つの国家と民衆を抹殺してしまったのであるが、わが宗門はその先兵となって朝鮮民族のわが国への同化を図り、皇民化政策推進の担い手となった。 人が人として存在する時、人は常に自らの帰属する場所を求めずにおかない。家族、言語、民族、国家、国土、文化、信仰等、自らが帰属するアイデンティティーを保障されるとき、人は安息を覚える。アイデンティティーは人間の尊厳を保証するものなのである。しかるに皇民化政策は、朝鮮民族の国家を奪い、言語を奪い、創氏改名と称して民族文化に根ざした個人の名前までも奪い去った。曹洞宗をはじめとする日本の宗教は、その蛮行を宗教により正当化する役掌を担った。 また、中国においては、宗門が侵略下における民衆の宣撫工作を担当し、中には率先して特務機関に接触しスパイ活動を行った僧侶さえいた。 仏教を国策という世法に隷属せしめ、更に、他の民族の尊厳性とアイデンティティーを奪い去るという二重の過ちを犯していたのである。 われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。 人は、何人といえども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。人は、かけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。それは国家においても、民族においても同じである。 また、人も、民族も、それ自体で独立した存在として、他の侵犯を拒絶するものであるが、一方、それ自体が、個として独立的に存在し得るものではない。人も国家も、相互依存的関係の中においてのみ存在し得るものである。 通信や交通の技術が進歩して地球が狭隘(きょうあい)化し、政治や経済が国際化した今日、地球は一つの共同体であることを明らかにしてきた。仏教のいうすべての存在の「縁起」性があらためて確かなものとなってきたのである。 人も、国家も、民族も、それが「縁起」的存在として、他との相互依存性の中に存在するとすれば、他を侵すということは、自らの存在の一部を否定するということである。自らの存在の根拠を侵すということである。 故に、仏教においては、他との共生は必然である。他との共存こそが自らの生きる根拠なのである。自を見つめ、自を律し、他と共に生き、他と共に学ぶ生き方こそ仏教の平和思想なのである。われわれは過去において、この視座を見失い、仏教と遠く離れた位置にあった。 ある一つの思想が、ある一つの信仰が、たとえいかような美しい装いを凝らし、たとえどのように完ぺきな理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を拒否するとするならば、われわれはそれに組みしないであろう。むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶであろう。 人のいのちの尊厳性は、それらを越えてはるかに厳粛なものだからである。 われわれは、重ねて誓う。二度と同じ過ちを犯さない、と。そして、過去の日本の圧政に苦しんだアジアの人びとに深く謝罪し、権力に組みして加害者の側に立って開教にのぞんだ曹洞宗の海外伝道の過ちを心より謝罪するものである。 一九九二年十一月二十日 曹洞宗宗務総長 大竹 明彦 http://www.sotozen-net.or.jp/wp2/wp-content/uploads/2012/12/sanjyamon_20121206.pdf