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あなたは すくわれていますか

 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。  ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?    へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。  民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。  人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。  それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。  これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。  もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?  この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?  なぜ すなおでないのでしょう?

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  • easy_all
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回答No.68

No.55、59です。 > でも サルトルも >  ○ アンガージュマン >  ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神  の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから  > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。

noname#80116
質問者

補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。  あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。  実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。  専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。  紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。  ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)  ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。  ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ  ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり  ▲ 無内容であり  ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。  ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい  ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。  と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。  ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。  ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。  もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。  ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう  ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。  振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。  けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。

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その他の回答 (68)

回答No.28

>すなおになれるし なるのだが それを打ち消す力が わたしの中で うごめく。  いえいえ、すなおになっていないとそれを打ち消す力がうごめくということです。  すなおになることは結構ですし、すなおか?と聞かれれば素直ですと答えることは  すでに申し上げた通りです。  すくわれるということを知っているのではないですか?と  聞かれれば知っていますと答えます。 >なぜ そのあと もう一歩を進めないのでしょう?という問いです。  しかし、現実として、すなおでいつづけることがどれだけ可能でしょう。  ほっておいて、すなおでいつづけることが可能なのでしょうか。  真の敵は姿を隠し続け、絶えず動いています。  不断の注意と忍耐が必要なのではないでしょうか。  その連続した苦悩、痛み、恐怖こそを愛し、立ち向い続けているから、  そこから解放されるという状態があるということで、  それが唯一の現実的癒しではないでしょうか。  一度、解放されればその後、永遠に解放されるということはないと思うのです。   >だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  今を切り取れば既に救われています。  しかし、救われ続けるには、それなりのお代が必要です。これは自分で支払わなければなりません。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん むつかしいですね。  つまり むしろ むつかしくしていませんか?  ★ 救われ続けるには、それなりのお代が必要です。これは自分で支払わなければなりません。  ☆ こうなれば たしかに 信仰(有神論および無神論)そして――おそらくは 無神論から派生するところの――さまざまな経験思想 これらの内容にかかわって来ます。  有神論のうち わたしの信仰としては   ○ 恩恵=無償=ただ(只=無料)  ☆ というのが すくいです。功績も深い信心も何もかにも 要りません。勝手に なにものかが 向こうから あわれもうと思えば あわれんで すくいを差し伸べます。  ★ >だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  ☆ と言ったその瞬間 すくいが持続します。まさに 《〔網で〕掬われ続けている》感じです。  ★ 一度、解放されればその後、永遠に解放されるということはないと思うのです。  ☆ と同時に つねに 網からこぼれそうになると また そのつど 掬ってくれます。それで もう 闇を見なくてよい状態になります。  そうですか。だめな場合もあるのですね。あるのですか。  ○ 究極の悪(または 真の敵)とは何か  ☆ という質問をしてみましょうかね。

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回答No.27

>何かどこか誤解をしているのか  誤解などなさっておられないと思いますよ。 >なぜ、すなおでないのでしょう。 と一般にそう聞かれれば、これまでの記載の如く、静的に内なる獣を答えます。 >あなたは、すなおですか と聞かれれば、動的に解き放たれていると答えます。 これはパラドクス、玉虫色です。 それこそ、あえて言えば静的な楽園のビーチベッドでうたた寝をすると内なる獣が起きあがり失楽園と化し、そして、失楽園から楽園が見える。 そして、ご質問は、「なぜ、すなおでないのでしょう。」です。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん。ということは こういうことでしょうか。  ○ すなおになれるし なるのだが それを打ち消す力が わたしの中で うごめく。  ☆ 古くさい言い方もありますが 全面的に 引用です。中で 《律法》は 《倫理規範》のことです。  ▲ (ローマ書7:1-24) ~~~~~~~~~~~~~~~  それとも、兄弟たち――と パウロは 書いています―― わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。  結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。  従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。  ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。  わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。  しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。  では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。  ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。  わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。  罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。  こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。  それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。  わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。  わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。  もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。  そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。  わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。  わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。  もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。  それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。  「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。  わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでも この現状を押して 《〈すくわれている〉と言おう》という趣旨になります。なぜ そのあと もう一歩を進めないのでしょう?という問いです。  ▲ だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  ☆ だれがすくうのであれ わたしたちは すくわれるということを知っているのではないですか?という問いです。どうでしょう。

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回答No.26

>《仮り と 本物》とを無理に区別しないでください イーグルスのホテル・カリフォルニアですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ようこそホテル・カリフォルニアへ ここはステキなところ お客様もいい人たちばかり どなたもホテルでの人生を楽しんでいらっしゃいます 口実の許すかぎり せいぜいお楽しみください 鏡を張りめぐらせた天井グラスにはピンクのシャンペン 誰もが自分の意思で囚われの身となった者ばかり やがて 大広間では祝宴の準備がととのった 人々は 鋭いナイフを突き立てるが 誰ひとり内なる獣を殺せない 気がつくと僕は出口を求めて走りまわっていた もとの場所に戻る通路を なんとかして見つけなければ・・・ すると 夜警がいった 「落ち着いて自分の運命を受け入れるのです チェック・アウトは自由ですが ここを立ち去ることは永久にできません」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ご質問は、なぜ、すなおでないのでしょう。です。 すなおになれるか、即ち、この呪縛たるものからは解き放たれているか と聞かれれば、解き放たれていると答えますよ。 ダイナミックに移り変わるからこそ、ここは騒がしい楽園でしょう。 ホテル・カリフォルニアのお楽しみの外ですね。極上のシャンペンは飲めませんが・・

参考URL:
http://g-onion.hp.infoseek.co.jp/hotel%20california.html
noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん わたしが 何かどこか誤解をしているのか どうなのかですが どうなのでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご質問は、なぜ、すなおでないのでしょう。です。  すなおになれるか、即ち、この呪縛たるものからは解き放たれているか  と聞かれれば、解き放たれていると答えますよ。  ダイナミックに移り変わるからこそ、ここは騒がしい楽園でしょう。  ホテル・カリフォルニアのお楽しみの外ですね。極上のシャンペンは飲めませんが・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《〈この呪縛から解き放たれている〉と答える。つまり〈すくわれている〉と宣言する》ですよね? もう これで 一たんとしてでも 成った のですけれど そのあとに 何が ひっかかっているのでしょう?  ★ ホテル・カリフォルニアのお楽しみの外ですね。  ☆ この意味が よく飲み込めないのですけれど。  歌詞の中で  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人々は 鋭いナイフを突き立てるが  誰ひとり内なる獣を殺せない  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 事実ではないと考えます。基本的に 《内なる獣を殺せている》。つまりは《内なる獣》じたいも   ▲ 誰もが自分の意思で  ☆ それを飼い始めたのですから。うそ ないし 心のへそ曲がりから出発したのですから。  ○ この《内なる獣》という《呪縛からも 解放されている》。  ☆ と言うべきでしょうね。《ナイフを突き立てる》ことによってではなくうんぬんですね。《欠陥を取り除こうとする》によってではなくです。存在が癒やされ自己を回復することをとおして 棘が抜けてゆき 欠陥も癒えてゆくうんぬんでした。  ううーん。まだ 理解が行き届かないでしょうか? 微妙な感じが残っています。すなおに そのようです。ご指摘ください。

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noname#96295
noname#96295
回答No.25

先日は束の間でしたが御回答をいただいておりました。お礼申し上げます。  抹消された件の質問には「他者を掬い取ること、哲学のアクション」と題をつけていたと記憶しますが、 アクションは化学反応を起こすような作用の意味でもありました。あるいは処置・方策でもありました。 brageloneさんの言うところの「すくわれている」は、 exaucement(聴許) のあの描きがたい次元にたいして、パースペクティヴで見通そうと、あるいは狭い額で解釈をほどこそうとする、主観であろうと考えます。 掬い取られたいと願う相手に掬われること 掛けられたいと願う相手から掛けられる言葉、注がれたいと願う相手からのまなざしでなければ exaucementの発動がない、そしてよそから差しのべられるならばいかなる侑けも言葉もまなざしも、渇いた咽喉にとって癒えない水、どぶ水でしかない という存在の仕方も、わたしたちの事実のうちのひとつです。 異なる個であるわたしたちが、他者を掬い取り合うこと、とりもなおさず互いを介して自己を掬い取り合うこと、 この自己形成の運動は周知のように母と子のあいだで始まります。 子どもは、自己が全一であることのうえに、全一のものの諸形態としてあらわれる世界の多様性を学びます。 短絡的に与える語の印象を恐れずに使うとするならば、愛の問題であろうと思います。 こんにち、どこか愛が欠けているのでしょう。exaucementの発動、そこに捉えがたく描きがたい難問として屹立する、客体化を果たした内部に主体を見出す力、 自意識の外側に成り立つ主体を受け入れる力のことです。 であれば、信の問題でもあるのが必然で、信も欠けているにちがいないのですが、 己の中に信が欠けている、愛によって培われるような信が、ということになるでしょうか。 そのような自己のうちで支配的なのは不毛であり、 能動的に受動的であろうとする、つまりすすんで耕地となる自己と出逢えぬまま 他の力の鋤鍬によって [習慣/場/時間] に掬い取られ消尽するという形です。 そういう自己を乖離してしまうような収拾の付け方が、蔓延しているかもしれません。

noname#80116
質問者

お礼

 ☆ ということが 成就するのならば それは とりもなおさず  ○ (α)の超経験における願いの成就  ☆ でもあると むしろ 言うべきではないか。むしろ そのような《 exaucement 》のほかに 成就は ないのかも知れない。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  exaucementの発動、そこに捉えがたく描きがたい難問として屹立する、客体化を果たした内部に主体を見出す力、  自意識の外側に成り立つ主体を受け入れる力のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく この力について もう少し 分かりやすいように 敷衍し説明していただくと みなさんにも (α)と(β)との関係が 理解できるようになるかと思います。わたくしも この表現のままでは まだ 手が出ません。というのが 正直なところで率直な反応です。   * どこか ふつうの生活日常の出来事であるかも知れないところのことを えらくむつかしく表現なさろうとしていませんか? 分かりませんが どうなんでしょう? とりあえず このようです。

noname#80116
質問者

補足

 amaguappaさん こんにちは。お久し振りです。そういえば 先日 お話し合いの機会がありえたのですが 残念でした。じつは わたしも 絡んでいますので 投稿いたしましたが 別の質問で amaguappaさんが回答者になって やり取りをしているところも読みました。それについて ひとことで言ってよければ わたしは あれほどまでに おつきあいを続けられないだろうなというのが ホンネです。自分なら どこかで切り上げてしまうだろうなと思いました。よくやり取りを重ねておられましたね。  それはそれとして まづは ご回答をありがとうございます。  ○ あなたは すくわれていますか  ☆ の問いのほうに どちらかと言えば 答えていただいたようですね。いやぁーっ むつかしい。だって  ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?  ☆ なる問いの中の《すくわれる》は ご推察のとおりに  ★ brageloneさんの言うところの「すくわれている」は、exaucement(聴許) のあの描きがたい次元にたいして、パースペクティヴで見通そうと、あるいは狭い額で解釈をほどこそうとする、主観であろうと考えます。  ☆ という意味ですから。つまりは それでよいという意味でもあります。まったく どのような信仰であろうとなかろうと 日本語で《すくわれている》という表現を みづからが発することがあるか・できるか・発しないのは なぜか。これだけのいわば表層でのやり取りなのです。  そうすれば――つまり そのような表層での自己表現を得るか得ないか その得たとするほうを選ぶことによって―― じつは 世界に あらためて おのれは 開かれていくのではないか。こうも見通してのことなのですが その当否・成否は まだのことかも知れません。  ★ exaucement(聴許)  ☆ この語は 仏英では そのままのほかには 《 fulfillment 》で出てきますね。この《願いとその成就》に関しては  ★ 信の問題でもあるのが必然で  ☆ すから 例の一度死んだラザロの話を取り上げたいと思います。そのときの身内の姉(?)マルタとイエスとの問答が おもしろいと考えます。  ▲ (ヨハネ福音書11:20-27) ~~~~~~~~~~~  マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った・・・。  マルタはイエスに言った。   ――主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟(* ラザ    ロ)は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになる    ことは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知していま    す。  イエスが、   ――あなたの兄弟は復活する。  と言われると、マルタは、   ――終わりの日の復活の時に復活することは存じております。  と言った。  イエスは言われた。   ――わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生    きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。    このことを信じるか。  マルタは言った。   ――はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうしますと 願いには ふたつの次元があるように思われます。  (α) 復活  (β) いちど死んだが 生き返る。  cf.《 蘇生の話》:    http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai2.html  ☆ イエスに相い対して マルタは (α)で信じていたが――つまり 《 exaucement 》が発動すると受け容れていたが―― (β)では 無理だと思っていたことになります。この場合 死後 四日も経っているし 埋葬されてもいるので 事実として扱わなくてもよいでしょうが 要するに 経験的な出来事として願いが叶うこと(β)と 経験を超えて願いが成就すること(α)とがあると捉えられます。  ところが amaguappaさんのおっしゃっているところを わたしが強引にでも解釈するならば けっきょく ひとは 子どものときから 親とのかかわりをとおして (β)の願いが叶うことを そのいくらかについて 経験して ひととなるが それは (α)につながっているのだということではないかです。ひとと成っていくとき そこには   ★ つまりすすんで耕地となる自己と出逢えぬまま / 他の力の鋤鍬によって [習慣/場/時間] に掬い取られ消尽するという形  ☆ すらがある。つまり 願いの叶えられないのに 叶えられたかに思い込むような  ★ 不毛  ☆ なその意味での愛から成る関係情況もある。のだが このとき もし  ★ 子どもは、自己が全一であることのうえに、全一のものの諸形態としてあらわれる世界の多様性を学びます。

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回答No.24

>その欠点に刺さった棘も取り除き 患部も癒えてゆくという過程 これを 実現させ 見とおしていくほかに あまり 解決の道はないですよ。 問題に対して、如何なる法律、システム、仕組み作りをしても、 本質的解決となる一定の対策などありません。 常に注意深く、先見性をもって判断し、行動し続けていないと 再び腐ってしまうものでしょう。 大切なシステムを守っていくのも行動に他なりません。 個々の事象への直接的、具体的行動の蓄積こそが実効性が あるのであって、愛と憎という制御不能な表層的事象も その過程に過ぎません。 >なぜ すなおでないのでしょう? 表現を変えると・・もう全て終わった・と毛布をかぶって眠ることができないからですね。 brageloneさんに言わせれば、それも含めてすくわれているということなのでしょうけど、それは、本物の毛布にくるまるときの話ではありませんか。そうでないと眠れませんからね。 我々は、楽園のビーチベッドで日を浴びながらうたた寝をすることが できるのでしょうか。

noname#80116
質問者

お礼

 主人は言った、   ――それは敵のしわざだ。  すると僕たちが言った。   ――では行って、それを抜き集めましょうか。  彼は言った、   ――いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。    収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る    者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてく    れ、と言いつけよう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《本物の毛布にくるまるとき》として《神の国》は あるのかも知れませんが いま・ここでは 《仮り と 本物》とを無理に区別しないでください。しないで 仮りも本物も いま・ここで ありがたく享受するなら そのすがたを 奴らに見せびらかしてやるなら かれらも 観念するようになるでしょう。十年・二十年・・・どれだけかかるでしょうか?  わたしたちが目指すのは イエスに逆らってでも 毒麦が ふつうの麦に変身することです。元のすがたですからね。  井戸端会議ですすんで行って いいと思いますよ。あとは インタナシオナルなインタムライスムの現実化ですが。お二階さんに頼っていても どうにもならないようですから。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん なるほど 重大な問題をつきつけておられたのですね。気がつかずに ごめんなさい。まづは ご回答をありがとうございます。  二点あります。  《問題に対して、如何なる法律、システム、仕組み作りをしても、 / 本質的解決となる一定の対策などありません》が  ★(α) 個々の事象への直接的、具体的行動の蓄積こそが 実効性が / あるのであって、愛と憎という制御不能な表層的事象も / その過程に過ぎません。  ☆ すなわち 全体的な総合的な《現実の行動》の問題なのだというご主張です。  ここでも 迂回生産に徹するだけになりますが その意味は 決して 別の行動を言うためのものではなく 別の思考形式でもないということを まづは 確認するためです。  ▲ (R.A. マーカス:『アウグスティヌス神学における歴史と社会』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《法( lawful authority )に従え》とアウグスティヌスが説くとき その言葉の向けられている(* つまり 批判のために取り上げている)第一の対象は 《自己による〔先験的な〕判断》という幻影である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 信仰からくる思想であれば 法律を超えて 人間的な判断を得ることができるという幻影には 注意をすべきだという議論です。この原則論の確認のみで 次に移りますが。  ★(β) 本物の毛布にくるまるときの話  ★(γ) 我々は、楽園のビーチベッドで日を浴びながらうたた寝をすることが / できるのでしょうか。  ☆ (γ)に対しては Yes,we can.です。茶化してはいません。《本物の毛布》と《仮りの毛布》とを この世界にあって 分け〔ることができ〕ないという意味です。したがって (α)の問題にしても 現実の法律によるものとしての秩序にも ふつうに 同じく 関心を寄せるということになります。  ▲ (承前=R.A.Markus:Saeculum)~~~~~~~~~~~~~  アウグスティヌスにおいては ここでキリストの出現より以後の歴史に対して 聖書の預言との関連をみることは 無縁とされた。  すなわちたとえば ローマ帝国が キリスト教徒を迫害するという事態に対して そこに 神の国に対する敵( Antichrist )をみることも あるいは逆に キリスト教を 普遍的な宗教としてみとめたという事態に対して 神の国の成就に与かるものをみることも それぞれともに かれの思想からは はずされ 従って 《国家は 神学に 直接にあずかるものではない( theologically neutral )》とされた。   *   *   *  世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。  それは 人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 世界( saeculum )というものを   《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )とのあいだの 中間地帯( no man's land )として》ではなく   《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る時間帯( temporal life )として》見る  というかれの理解から 発しているものである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ゆえに 《本物の毛布にくるまるときの国》と《仮りの毛布に眠るときの国》とのあいだに――もし 両者が 互いに対立しているとするならば―― 《非武装中立地帯 no man's land 》はないと言わねばならないという説です。両者は 互いに 分かちがたく 入り組み 結ばれ合っている。  ▲ (マタイ13:24-30) ~~~~~~~~~~~~~~  〔イエスは〕また、ほかの譬を彼らに示して言われた、    ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。  人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。  芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。  僕たちがきて、家の主人に言った、   ――ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでし    たか。どうして毒麦がはえてきたのですか。

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回答No.23

>平穏な日々を送るわれわれも 《厚顔無恥にして 落ちてゆく精神》と 無責任において夢見る日常性を生きることにおいて 同質だということですか? 微妙に違います。 あの輩は、私でもあるということです。同居しています。 非難し、絶対に許さないと言いながら、同じことを 繰り返えす愚かさを持っているということです。 あの輩との敵対は、和解するような、癒されるような性質なのでしょうか。 それぞれの個人を非難し糾弾し更迭しても本質は変わりませんし、 brageloneさんが言う排泄が伝染し感染してしまう土壌の方が、 その排泄を作り出しているとさえ思います。 >なぜ すなおでないか。 それで、すなおにすくわれていると言ってしまうと、排泄を繰り返してしまう恐怖があるからです。 夜は やすらかに ねむりましょう。おやすみなさい。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  ★ あの輩は、私でもあるということです。同居しています。  ☆ この見識は 普遍的なものです。人間は 人間であるという いろはのいにおける認識であるに過ぎません。すべての可能性が すべての人に まったく同じかたちで 潜在していると見るべきですから。  ★ あの輩との敵対は、和解するような、癒されるような性質なのでしょうか。  ☆ 世界との和解 あるいは 自己自身との和解そして癒やされ これは わたしたちは すでに 得ています。それが 《すくわれている》ということです。宣言したというのは そういう意味です。  和解や癒やしは 《あの輩》のためのものです。良心のために言うという言い方がありますが その良心が すべての人に同じく潜在しているという意味では その表現をするわたしの良心であることに間違いないのですが 一般に 批判を展開するときには その言説が批判の対象になっている人間 この人間の良心のために 言っているというのが 正解です。  《あの輩》が 自己還帰して 我れを取り戻し みづからの欠点に気づき 回復した自己のもとに その欠点に刺さった棘も取り除き 患部も癒えてゆくという過程 これを 実現させ 見とおしていくほかに あまり 解決の道はないですよ。  あるいは むしろ 《Q:悪は 存在しない》のほうの問題ですか? 《すなおになれない》のは。  ★ brageloneさんが言う排泄が伝染し感染してしまう土壌の方が、 / その排泄を作り出しているとさえ思います。  ☆ この土壌の清掃は あまり気にしなくてよいと思います。そこにおける人間 この存在を 徹底的に 愛しましょう。どこまでも 愛しましょう。しかも 同時に その欠陥を指摘し これも 徹底的に 憎みましょう。こういう 何もしないたたかい です。  人であるからと言って その欠陥を愛してはならず 欠陥を持つからと言ってその人を憎んではならないとのことです。それ以外に 道は ないようです。自分とのたたかいでもありますね。  わたしも 勘違いはいくらでもありますが 基本的な 見方のまちがい(片寄り)を侵してしまいました。No.4のyukkinn66さんのご回答に対してです。かのじょは 女性であるかどうかは関係ないのですが まだ二十代(後半)だそうですよ。

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回答No.22

maimai.susです。 んー今までの、質問回答読み直してみました。 そう言う意味なら、確かに救われていますね。 しかし、それで話が終わってしまうと、今までの私の努力も水の泡。 ただの、一方通行の話で、brageloneさん流に言うと。 お二階さん現象と言いましょうか >一たん 相手と相手の言うことを受け容れて それから 批判の話をするものですから その頃には もう 取り合わなくなっているのです。相手方は あさってや おとといの話で お茶を濁しにかかります。噛み合わないったら ありはしません。 状態になってしまうので何ともと言ったところですか。 正直こちらの話を理解してもらわないと、本当の意味でその話が、brageloneさんの趣旨合ってないかどうか分からないじゃあないですか。 どんな問題も、根本的な事を理解するに越した事はないと思うのですがね。

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ どんな問題も、根本的な事を理解するに越した事はないと思うのですがね。  ☆ この質問にかんしてでしたら おおまかに言って   ○ yukkinn66さんの《社会の経済生活的な基礎 そして 思想人間的な起点 これらに すくわれていると宣言しがたく思う原因がある》との説  ○ krya1998さんの《そうは言っても つまり 〈われとは何か〉という起点が分かり 〈貨幣経済が 社会を覆った情況では 人間存在や心までもが いわゆる商品と化し モノと化している〉ことによって その〈われ〉どうしの自然本性にのっとった人間関係が眩まされているのだとも分かっても そこまで見通すことが出来ても 人間は 〈すくい〉に関しては 未完成であるのが とうぜんであるから 宣言には慎重にならねばならぬ》との説  ○ bananasandさんのご見解は いまわたくしが理解の途上にあります。  ○ むろん ほかの方々のご見解も 注目です。分類するとすれば 上のようになるということだと思いました。  ☆ このようだと考えますが maimaisusさんも 忌憚のない自由なご見解を明らかになさってください。見落としはないと思っているのですが もしありましたら ご面倒ですが いま一度 ご指摘をお願いします。お叱りを受けつつ つつしんで 対処してまいります。

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noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 A8の続きです。 私は、(本来なら)救われたかどうかに無関心でも無関係でもありません。 ですが、すくわれたと言うならば神を語ることになります。 悟ったと言うならば、自ら、つまり人間性を語ることになります。 私はどちらかと言うと人間性を語るのがすきですが、それもやはり偏りの表れなのだろうと判断します。 このご時世ならば、その手の事柄は一切語らなくてさえもいいでしょう。 なんといいますか、全ての人の前に既に道は開けていると感じます。 言葉を変えれば「あなた方は既に救われていますよ」になりますが、それは例えでして、私はあくまでも無神論者です。 仏教と違う独自の人間普遍性への探求をして光に触れました。 神々しい光の姿を表現するならアマテラスさんでして、つまり神様です。 光は意思を備えています。 アマテラスさんとは恋人同士みたいにデートしたこともあります。 しかしこれらの発見から何を語ればいいのか。 誰かに聞かれたとしても、最も伝えたいことを語るのは難しいようにも感じます。 要するに問われても伝えきれないならば、人が人を救うことは困難であり、ただ先達として寄り添うような看病だけが出来るともいえます。それでも聖書や経典の類も人つての言葉です。その言葉の全てが真実でなかったとしても、その言葉にむしろ迷うことがあったとしても、それでも歩むのは、信じる心を持つその人自身です。その裏側でむしろどうしようも無いとりすがりをする落第生の面倒を結果的に見てしまうのが私です。この辺が(悟ると言うよりは)判っているとしてもむしろ煩悩を好む心がけです。俗物的ではありません。シャバ臭い匂いはむしろ嫌いです。今はいわゆる悟りや救いの類を忘れています。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  わぁっ しっかりした回答をいただきました。ただし この質問の趣旨とは 少し ちがっていますが。つまり 質問は そのあと 宣言するか否か しないとすれば それは なぜかですから。あるいは ひょっとすると 宣言する必要はないというご見解であるかも知れません。  どのように悟ったか どのようにすくわれたか そして そのあと どうするか。どのようにその経過を伝えるか。そのあと どのように自己表現していくか。――あるのですが ここでは 焦点を次のことに当てています。  すなわち 宣言するかどうかのあと その否という場合にその理由は何なのか。その内実いかんによって ずいぶん 世界あるいはそこにおけるおのおのの自己表現が 変わってくると思えるのです。しかも 悟りや すくいの中身は 問わないで いいということです。そういう《からくり》になっています。  全体として すでに触れましたように ご主旨に賛成していますが 二点 ひっかかった表現があります。表現のみの問題です。  ★ アマテラス  ☆ は まづ基本的に 太陽の神格化です。日本神話では 初めに 《あま照る》と出て来ます。その後 アマテラス大御神となったのは ふつうの市民スサノヲ(また その子孫であるオホクニヌシ)との対比で いわゆるアマアガリをした結果 その統治者のことを 象徴的に 言うものです。  タカマノハラなどは はじめには 無かったのですが スサノヲらの国つ神(=市民)との対比を作って 天つ神(=もっぱらの公民)にとっての故郷だというふうに 物語ったものです。その当時 そこここに湿原のような地が 多かったので 市民の住むところは アシハラ(葦原)と呼ばれました。すべて この《わたくし(スサノヲ)‐おほやけ(アマテラス)》の対比における虚構です。  もう一点は  ★ むしろどうしようも無いとりすがりをする落第生の面倒を結果的に見てしまうのが私です。  ☆ これは もう一方で 突っぱねることもありでしたら 分かります。その点のみです。  すくわれている と宣言するか否か これは けっこう 重大な分岐点になるように思っております。

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回答No.20

>自分の生活空間の範囲内ででしょうが 自分のいわゆる日常生活空間内は、救われていると宣言します。 自分が平穏に眠りに入るときのことと同じで、世の中で何が起こっていようが日々神に感謝して 毛布にくるまればいいでしょう。 平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえに素直になれない と言うのは、 輩の代表は   社会保険庁の支払い免除申請書偽造せざるを得ない状況を作った号令した者  アスベスト被害を知りながら結果的に放置した者  食品偽装を指示する経営者  などなどですが・・・ こういった安直な方向に走りやすいことはよく解りますよ。 これを制するのは、非常に難しいのです。この場合、夢見る楽園と落ちてゆく精神性は同じものなのですから。 そして、これらの輩を非難するのは実に簡単でしょう。 しかし、決して非難して解決する代物ではありません。 <真に知らない責任>と表現したのは、真の敵を知ろうともしない 落ちてゆく精神性は、これらの輩と同質だということです。 >なぜ すなおでないのでしょうか? すなおでないのは、結局、これらの輩と同じ問題を抱えているからです。お代は、見てのお帰りなのですよ。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  むつかしいーー。  ★ 夢見る楽園と落ちてゆく精神性は同じものなのですから。  ★ 真の敵を知ろうともしない / 落ちてゆく精神性は、これらの〔* 責任があるのに むしろ悠々として(?) 果たしていないところの〕輩と同質だということです。  ☆ 平穏な日々を送るわれわれも 《厚顔無恥にして 落ちてゆく精神》と 無責任において夢見る日常性を生きることにおいて 同質だということですか?  ★ 真の敵  ☆ は わたしにとっては こころのへそ曲がりです。その伝染です。  ひとは アマアガリ症候群に罹患すると やがて地位を得れば 何がしか そのみづからの地位と一般の人びとの無位との落差を みづからの意識に乗せて 公的な場においてか半ば公的な場においてか 回りの人びとに向けて 排泄します。いやな気持ちの場合には やはりそれを意識に乗せて 人びとに向けて アース(接地)すると考えられます。  このような意識の排泄や意識のアースが 伝染します。感染列島になっています。癒やしてやらねばなりません。その《わたし》を いやと言うほど やわらがしめてやらねばなりません。自己を回復するなら この敵対する心も 和解するようになるでしょう。世界との和解を勝ち得るでしょう。そういうたたかいだと思います。    このように ヱブ上でのやり取りにおいてさえ 最近は少なくなりましたが 一・二年前には そのような意識の発散を みごとに 自由に おこなう人も いましたよね。  あるいは もっときびしく見るならば――いぢわると言われようとも言いますが―― 中には 意識のではなくとも 知識の排泄をおこなっているだけの場合も見られるのではないでしょうか。おれは ここまで 勉強したぞというような場合ですね。  愛は 向きを持ったヱ゛クトル関係ですから 向きが マイナスになっていると もしくは ゼロになっていると 自家中毒のようになり これの克服とその中毒の増殖といった悪循環に陥るのではないでしょうか。  ま そうは言っても 夜は やすらかに ねむりましょう。  * パウロなどは 《わたしは 日々 死んでいる》とまで書いています。あの意識の電磁波を方々から浴びて その吸収無害化処理に つとめていたのかも知れません。(わたしの経験では その処理が それほど苦労をともなうようには 感じていません)。

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回答No.19

>☆ から自由になるところの《すくわれている》宣言なんですけれど 伝わりませんか?  伝わっているかどうかは解りません。  とすると回答する資格がないのかもしれませんが、一般にそのように聞かれればすくわれていると  宣言しますよ。  しかし、自らがすなおになれないのは、  恐怖と残酷を尻目に平穏な日々を貪る輩がいるように思うからですよ。  自由、人権、平和、安全、安定という言語で取り仕切る・・・  それでいいと思っている。それ以外はないとさえ思っている。  自由は自由を破壊し、民主は民主を破壊する訳で、  我々は何も知らされていません。  そして、知ろうともしない責任は我々にあります。  とはいえ、国(自らが属する集団)を守るために真に命を張って銃を持つ人がいれば、  すなおだろうがそうでなかろうが感謝せざるを得ないでしょう。  一方で、結局、持つ物が銃かどうかは、本来、関係のないことです。  各自、自分の銃をもって戦っているわけで、そこが失楽園から見たまさに楽園でしょう。  それ以外に、自分の愚かさを脇において  すくわれているとすなおに宣言するには、いささか自分に対して疑問があります。  つまり、平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえでしょう。 

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  ううーむ。たしかに 政治家やあるいは外交官らは いわば待ったなしの情況にあって 仕事をしていますからね。われらが自衛隊にしても そうですね。イラクにも行っていましたし。  二点 あると思います。やはり迂回生産としてのいとなみが ひとつ。これまでの国内政治や国際関係の場もしくは次元を 変えたいという方向が もうひとつです。  ですから 次の文章をひとまとめに捉えると どう受け止めてよいやら 惑いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一般にそのように聞かれればすくわれていると  宣言しますよ。  しかし、自らがすなおになれないのは、  恐怖と残酷を尻目に平穏な日々を貪る輩がいるように思うからですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 宣言するのなら 《平穏な日々をむさぼる》生活のあり方を変えて行こうと 少なくとも言論として 言っていくと思います。  むろん そこから一変して  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一方で、結局、持つ物が銃かどうかは、本来、関係のないことです。  各自、自分の銃をもって戦っているわけで、そこが失楽園から見たまさに楽園でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ と言って 互いに歩調を合わせることができるようです。しかも もとに戻って  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それ以外に、自分の愚かさを脇において  すくわれているとすなおに宣言するには、いささか自分に対して疑問があります。  つまり、平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえでしょう。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえでしょう》の言わんとするところは 何ですか。もし 重大なことでしたら 質問として挙げてもよいのではないでしょうか。  自分の生活空間の範囲内ででしょうが みな つとめて将来へ向けて あゆんでいると思うのですが。

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     《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。  その文章を取り上げ 二件 問います。  ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から  ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~  http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。  一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。  仏教はこころの自由は大事にします。 故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。  人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。    「救う事」は非仏教的な行為です。    仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。    スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。    話を聞きたいと思う人には話せます。 自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。 放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。    地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。 人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。    仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。    生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。 経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。  終り。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?  ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。  ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに  「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。    ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A.投稿ありがとうございます。  批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。  しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。  世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。  その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。  「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。  キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。  しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。  とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。  A.Sumanasara  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?   《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?  《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?  テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

  • 曹洞宗は戦争をどう考えているのか?

    懺謝文を読んでいたら気になったので質問しますが、 曹洞宗は戦争についてどう考えているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~ 懺謝文 われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外開教の美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。また脱亜入欧のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。しかも仏教の教義にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。まことに恥ずべき行為というほかない。 われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔したいと思う。 しかし、それはかつて海外伝道に従事した人たちだけの責任ではない。日本の海外侵略に喝采をおくり、それを正当化してきた宗門全体の責任が問われるべきことはいうまでもない。 さらにまた、曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人びとの痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するかのような視点で執筆し出版したことを恥と感じる。 また同時に、このような書籍の出版が太平洋戦争後三十五年を経てなされたということについても、重大な罪の意識を感じざるをえない。何故ならばそれは、宗門が明治以後、ある時は国家に阿諛(あゆ)迎合し、ある時は積極的に国策に荷担して戦争協力を行い、アジアの民衆に塗炭の苦しみを強いてきたという事実について、なんら反省することもなく、その責任すらも感じていなかったということに他ならないからである。 「歴史とは、過去と現在の間の尽きることを知らない対話である」といったのは、歴史家E・H・カーであるが、遺憾ながらわが宗門はこの対話の努力を怠り、過去の歴史に今を問いかけ、過去の歴史に学びつつ自らの座標軸を糾そうとする姿勢を持つことなく今日に至った。われわれは一九四五年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。 曹洞宗は、遅きに失した感は免れぬとはいえ、あらためてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。 われわれは「戦争責任」の重大性を認識し、アジアの人びとの痛みの上に立って、一九八五年二月以来、『曹洞宗海外開教伝道史』の文言の一々について徹底した読み直しを開始し、同書の随所に「民族差別による差別表現」「国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」が見られ、同書が歴史の書として誤った歴史認識によって執筆されているのみならず、抑圧された人びとの人権の視点を欠いており、人権擁護を推進しようとするわが宗門の立場と相矛盾するものであることを確認し、同書を回収し、廃棄処分することとした。 また、われわれはこの書籍の誤った歴史認識と差別表現を指摘したが、それは同書の誤りを指摘するのみでなく、歴史への反省を怠り、戦争責任を回避してきたわが宗門、及びわれわれ全宗門人にこそ向けられるべきことはいうまでもない。 思うに、仏教は、すべての人間が仏子として平等であり、如何なる理由によろうとも他によって毀損だれてはならぬ尊厳性を生きるものである、と説く。しかるにその釈尊の法脈を嗣受することを信仰の帰趨とするわが宗門が、アジアの他の民族を侵略する戦争を聖戦として肯定し、積極的な協 力を行った。 特に朝鮮・韓半島においては、日本は王妃暗殺という暴挙を犯し、李朝朝鮮を属国化し、ついには日韓併合により一つの国家と民衆を抹殺してしまったのであるが、わが宗門はその先兵となって朝鮮民族のわが国への同化を図り、皇民化政策推進の担い手となった。 人が人として存在する時、人は常に自らの帰属する場所を求めずにおかない。家族、言語、民族、国家、国土、文化、信仰等、自らが帰属するアイデンティティーを保障されるとき、人は安息を覚える。アイデンティティーは人間の尊厳を保証するものなのである。しかるに皇民化政策は、朝鮮民族の国家を奪い、言語を奪い、創氏改名と称して民族文化に根ざした個人の名前までも奪い去った。曹洞宗をはじめとする日本の宗教は、その蛮行を宗教により正当化する役掌を担った。 また、中国においては、宗門が侵略下における民衆の宣撫工作を担当し、中には率先して特務機関に接触しスパイ活動を行った僧侶さえいた。 仏教を国策という世法に隷属せしめ、更に、他の民族の尊厳性とアイデンティティーを奪い去るという二重の過ちを犯していたのである。 われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。 人は、何人といえども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。人は、かけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。それは国家においても、民族においても同じである。 また、人も、民族も、それ自体で独立した存在として、他の侵犯を拒絶するものであるが、一方、それ自体が、個として独立的に存在し得るものではない。人も国家も、相互依存的関係の中においてのみ存在し得るものである。 通信や交通の技術が進歩して地球が狭隘(きょうあい)化し、政治や経済が国際化した今日、地球は一つの共同体であることを明らかにしてきた。仏教のいうすべての存在の「縁起」性があらためて確かなものとなってきたのである。 人も、国家も、民族も、それが「縁起」的存在として、他との相互依存性の中に存在するとすれば、他を侵すということは、自らの存在の一部を否定するということである。自らの存在の根拠を侵すということである。 故に、仏教においては、他との共生は必然である。他との共存こそが自らの生きる根拠なのである。自を見つめ、自を律し、他と共に生き、他と共に学ぶ生き方こそ仏教の平和思想なのである。われわれは過去において、この視座を見失い、仏教と遠く離れた位置にあった。 ある一つの思想が、ある一つの信仰が、たとえいかような美しい装いを凝らし、たとえどのように完ぺきな理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を拒否するとするならば、われわれはそれに組みしないであろう。むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶであろう。 人のいのちの尊厳性は、それらを越えてはるかに厳粛なものだからである。 われわれは、重ねて誓う。二度と同じ過ちを犯さない、と。そして、過去の日本の圧政に苦しんだアジアの人びとに深く謝罪し、権力に組みして加害者の側に立って開教にのぞんだ曹洞宗の海外伝道の過ちを心より謝罪するものである。 一九九二年十一月二十日 曹洞宗宗務総長 大竹 明彦 http://www.sotozen-net.or.jp/wp2/wp-content/uploads/2012/12/sanjyamon_20121206.pdf