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キリスト教 子供が死んだ親

puregrapeの回答

  • puregrape
  • ベストアンサー率25% (12/48)
回答No.3

「いちど死ぬことは人々に定められたことであり、その後には審判があるように、キリストも多くの人の罪を負うためにいちど捧げられたのであり、二番目には自分を待ち望んでいる者達を救いに至らすために罪無しに来られます。ヘブライ9:27~28」                                                                               最初の人であるアダムは神様を形とって作られました。                                                                               しかし、アダムは罪を犯す事によって神様の似姿を失ったのです。                                                                                       すなわち、私達は神様の似姿を失ったアダムを形とって作られたのです「創世記5:3」。                                                                                       だから、全ての人々は罪人なのです。                                                                               私達は人々をむやみに殺す通り魔のような形をしているのです。                                                                                                    罪が無い人は一人もいません。                                                                                      罪が支払う代価は死です「ローマ6:23」                                                                                                          どんな人でも早かれ遅かれ死にます。そして、裁かれます                                                                                                     。このように哀れな人々のためにイエスキリストがこの世に来れれ、私達の罪の身代わりになられ、十字架に掛けられ死なれたのです。                                                                                                 旧約聖書で多くの人々の罪の身代わりになって殺された羊達の血は、後に来られて私達の罪の身代わりになられ殺されて流すイエスキリストの血の模型だったのです。                                                                                    今は、十字架で流されたイエスキリストの血によって自分の罪が赦されたと信じる人は誰でも救われます。                                                                                   これを分からないカトリックは洗礼を受けると救われるという異端教理を作りあげました。                                                                                     そして、幼児にも洗礼をさせたのです。                                                                                 そして、子供が死ぬとLIMBOという処にいくと教えたのです。                                                                                                 LIMBOという教理はさくねん撤廃しましたが、まだ彼らは沢山の異端教理を教えています。洗礼、聖体説、教皇制、神父制、聖母マリア信仰など数え切れません。                                                                                        結論を言います。                                                                                          {子供は死んでも楽園に行きます「申命記1:39」}                                                                                                     善と悪の区別が出来ない子供は裁かれないからです。                                                                                                      善悪を弁える人は罪が裁かれ地獄にいきます。                                                                                                           しかし、イエスキリストが十字架で流された血が自分の罪の身代わりだったと心から信じる人は楽園にいきます。                                                                                                             残念ながらキリスト人だと言いながらもこれを信じない人が殆んどです。                                                                                               多くの人々が十字架で流されたイエスキリストの血を無視して、自分の善良な行いによって楽園に行こうとしています。路宿者に御飯を与えたり、ボランテア活動などは良いことですが、神様の福音を変形した責任からは自由がありません。                                                                                      代表的な人がカトリックのテレサと言えるでしょう。                                                                                                        十字架で流された血が自分の罪の為だったということは極めて簡単な事ですが、殆んどの人が信じない狭き門なのです。                                                                                                       これを信じない人はキリスト人ではありません。                                                                                                             彼は羊「キリストの僕」の皮を被った山羊「悪魔の僕」なのです。                                                                                               我々の周りには数え切れないくらいの偽牧師、偽キリスト人がいます。                                                                                               「マタイ7:13~14狭い門から入りなさい。それは滅亡に導く門は広く、その道が広大なので、その道に入って行く人が多いけれども、命に導く門は狭く、またその道が狭小であり、その道を探す者が少ないからです」                                                                                          「No Cross,No Crown.十字架無しには冠も無い」

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