• 締切済み

キリスト教 子供が死んだ親

幼い子供を亡くした親の、 「なぜ私の子供が死ななければならなかったのか?」 という問いに対する、納得できるキリスト教的な説明はありますか? どうやったら、子供を亡くした親をいやすことができるでしょうか?

  • keeps
  • お礼率38% (364/950)

みんなの回答

  • ishiid1
  • ベストアンサー率0% (0/11)
回答No.4

聖書は復活するという希望を約束しています。 *** 聖8‐参 ヨハネによる書 5:28 *** このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。 神は人間を創造された方ですので、死んだ人の遺伝子や記憶まで 覚えておき、再創造する能力をお持ちなのです。 以下のサイトに幾つか慰めとなる良いたよりが 載せられています。 http://www.watchtower.org/j/archives/index.htm#religion

  • puregrape
  • ベストアンサー率25% (12/48)
回答No.3

「いちど死ぬことは人々に定められたことであり、その後には審判があるように、キリストも多くの人の罪を負うためにいちど捧げられたのであり、二番目には自分を待ち望んでいる者達を救いに至らすために罪無しに来られます。ヘブライ9:27~28」                                                                               最初の人であるアダムは神様を形とって作られました。                                                                               しかし、アダムは罪を犯す事によって神様の似姿を失ったのです。                                                                                       すなわち、私達は神様の似姿を失ったアダムを形とって作られたのです「創世記5:3」。                                                                                       だから、全ての人々は罪人なのです。                                                                               私達は人々をむやみに殺す通り魔のような形をしているのです。                                                                                                    罪が無い人は一人もいません。                                                                                      罪が支払う代価は死です「ローマ6:23」                                                                                                          どんな人でも早かれ遅かれ死にます。そして、裁かれます                                                                                                     。このように哀れな人々のためにイエスキリストがこの世に来れれ、私達の罪の身代わりになられ、十字架に掛けられ死なれたのです。                                                                                                 旧約聖書で多くの人々の罪の身代わりになって殺された羊達の血は、後に来られて私達の罪の身代わりになられ殺されて流すイエスキリストの血の模型だったのです。                                                                                    今は、十字架で流されたイエスキリストの血によって自分の罪が赦されたと信じる人は誰でも救われます。                                                                                   これを分からないカトリックは洗礼を受けると救われるという異端教理を作りあげました。                                                                                     そして、幼児にも洗礼をさせたのです。                                                                                 そして、子供が死ぬとLIMBOという処にいくと教えたのです。                                                                                                 LIMBOという教理はさくねん撤廃しましたが、まだ彼らは沢山の異端教理を教えています。洗礼、聖体説、教皇制、神父制、聖母マリア信仰など数え切れません。                                                                                        結論を言います。                                                                                          {子供は死んでも楽園に行きます「申命記1:39」}                                                                                                     善と悪の区別が出来ない子供は裁かれないからです。                                                                                                      善悪を弁える人は罪が裁かれ地獄にいきます。                                                                                                           しかし、イエスキリストが十字架で流された血が自分の罪の身代わりだったと心から信じる人は楽園にいきます。                                                                                                             残念ながらキリスト人だと言いながらもこれを信じない人が殆んどです。                                                                                               多くの人々が十字架で流されたイエスキリストの血を無視して、自分の善良な行いによって楽園に行こうとしています。路宿者に御飯を与えたり、ボランテア活動などは良いことですが、神様の福音を変形した責任からは自由がありません。                                                                                      代表的な人がカトリックのテレサと言えるでしょう。                                                                                                        十字架で流された血が自分の罪の為だったということは極めて簡単な事ですが、殆んどの人が信じない狭き門なのです。                                                                                                       これを信じない人はキリスト人ではありません。                                                                                                             彼は羊「キリストの僕」の皮を被った山羊「悪魔の僕」なのです。                                                                                               我々の周りには数え切れないくらいの偽牧師、偽キリスト人がいます。                                                                                               「マタイ7:13~14狭い門から入りなさい。それは滅亡に導く門は広く、その道が広大なので、その道に入って行く人が多いけれども、命に導く門は狭く、またその道が狭小であり、その道を探す者が少ないからです」                                                                                          「No Cross,No Crown.十字架無しには冠も無い」

回答No.2

キリスト教に拘るには、それなりの理由があるのでしょう。亡くされた両親がキリスト教と言うのであれば、そう考えるでしょう。  そこで、父親か母親がキリスト教、両親ともキリスト教、どちらも違がキリスト教に関心がある場合で違ってくるでしょう。組み合わせ次第では、理解できない部分が生じると思います。  人は自分よりも不幸な方に出会う時、自分の不幸が軽減されると言います。或いは、理解してくれる人に出会うと軽減されると言います。つまり、誰も分かり得ない悲嘆の場合が、最上級の悲しみと言えるのでしょう。  それでは何故亡くなられたのでしょうか?どのような理由で、病気・事故・事件など考えられます。その死の原因に両親が直接関わっていればショックは大きいでしょう。現代医療で直せない病気、発見時すでに手遅れの場合、交通事故(加害者がいる場合)、本人の不注意の場合、自殺の場合、誰かのいたずらによる場合など。 先ずは、それらを聞いてあげる事から始まると思います。悲しみを共有する事に、軽減する効果があるからです。キリスト教に限らず、喜びも悲しみも分かち合う事による増幅、軽減です。  次にクリスチャンで有れば、その方が拠り所としている信仰があると思います。しかし、この場合は試練ですから、”神様は何故このような悲しみを与えられるのか?”です。その答えを、聖書から発見出来る事があります。それは、牧師や司祭の役割でしょうが。信者も関わりますね。葬儀などは、亡くなった子供を天国に送る意味もあります。短い人生だったけれども、あなた(子供)は私たちの希望でした。余りにも早い神様からの召しを本当は恨んでいますが、私達にはどうする事も出来ません。私達より先に召された事は悲しいですが、残された私達に神様からの使命がある事を信じます。私達もやがて貴方の所に行きますから、その間待っていて下さい。 葬儀にはその様な意味が含まれると思います。  聖書にある希望:旧約聖書のコヘレトの言葉1:2~7“ コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。 日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き/風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく/どの川も、繰り返しその道程を流れる。”ここには、全てが無常であると語っています。コヘレトには神様は登場しなかったと思います。但し、その代弁者が登場したと思います。この世の全ては、無常でいったい何処に希望があるのだろう。文面には無い神様を信じて生きようとする意図が感じられます。  同じような人物に、ヨブ記のヨブが有ります。彼は正しい人であると共に、豊かな資産家でした。神様に忠実に生きてきた恵まれた人物でした。ところが非の打ち所の無いヨブが、ある日から突然に不幸が襲い掛かります。信仰の厚いヨブは”なぜ神様はこのように、私を苦しめるのか”と言って問い続けます。回りの人達は、”貴方が何か悪い事をしたので、その天罰と言います”が、無垢なヨブは神と人々に、その正しさを問い続けます。そして、妻との会話の中で、ヨブ記2:10では“ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。つまり、幸福だけでなく不幸も神様から頂くという心境に成れたのです。どのような時でも、自然体を失わず受入れて行こうする生き方ですね。自分で変わるのはなく、神に委ねて生きる事が大切だと思います。  最後に、新約聖書マタイ11:28~30 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 ”とあります。これを神の子イエス・キリストの言葉と信じる事です。 キリスト教の人は、その様な信仰によって、世の悩みや困難を乗り越えて来たと言えます。

回答No.1

他人は癒す事が出来ません。癒しを求める事が救いを求めるという事です。人生には救いはありません。その事が体で判った時には子供が自分の中に今も生きている事が判った時です。 救いが無いという事を受け入れた時に救いが成就します。心には神も、仏も自分と共に在るという事が納得できた時だからです。

関連するQ&A

  • キリスト教では親を敬えと教えないのですか?

    仏教では、親を敬い親孝行をすべきだと教えますが、キリスト教ではそのように教えているとは思えません。 親を敬うどころか、親を捨ててキリストに従えと言っています。 キリスト教では神が絶対だからそうなるのだと思いますが、やはり、親を敬い親に感謝し、親を大切にする、などという教えは、キリスト教にはないのでしょうか? もし、あると言うなら、聖書のどこにそんな事が書いてあるか、教えて戴きたく、よろしくお願い致します。

  • もし、キリストに子供がいたら、キリスト教社会はどうなっていると思いますか?

    私はキリスト教は全くの門外漢ですが、単純な疑問です。 もし、キリストに子供がいて、その子孫が現在も暮らしているとしたら、キリスト教社会はどうなっていると思いますか? キリストに子供がいては都合が悪いという意見がありますが、それはどうしてですか?

  • 親は仏教 子供はキリスト教 変ですか?

    先祖や親 墓を尊ぶ生き方 仏教の考え方もわかりますが これから私は神の導きで自立した愛の生き方 キリスト教を 信じて家族を愛していこうと思います お墓 葬式など問題点など経験をしたかた 教えてください 少子化で子供の墓守の負担を考えています クリスマスが近ずき愛と自由の神の教えを 学び子供に幸せになる心を伝えようと思います 信仰の自由とはいえ我侭ですか?

  • キリスト教になるには?

    親が仏教です。私はキリスト教に興味があるので色々試してみたいと思います。少し勉強したいのすが、もし大人になってからキリスト教になるとしたら何から初めてどうすればいいのでしょうか?

  • 親が子供の要望を断ることについて

    親子で相談し子供(未成年)の語学留学を決め、現地での生活が始まってから子供本人の意思で親に日本に帰りたいと訴えたが、親は子供には最後まで続けて欲しく、親が留学を続けることを判断したら、子供はその生活を続けるしかありませんか。 また、親は子供の要望の理由では納得できず、子供の将来と教育の為に留学を続けさせたく、子供の「親に負担させた金は必ず返す。」などの決心や自己主張を踏まえて親が判断した結果を子供が納得していなくても通す時、親子間の在り方としてどうでしょうか。

  • キリスト教!!

    キリスト教についてですが、キリスト教の象徴はなぜ百合の花がよくでてくるのでしょうか?どなたか説明できる方教えてください。お願いします。

  • キリスト教 愛する神 苦しみ

    キリスト教徒と自認するものです。 なぜ、神様は私たちを愛しているはずなのに、私たちが苦しんでいるのをそのままにしておくのですか? 愛しているなら、苦しみを取り除いてくれてもよいのではないですか? 旧約聖書をみても、ダビデなどが苦境に立たされたり、苦しんでいる様子が描かれています。 神様とは、「そのような存在」なのでしょうか? どなたか、納得のいく説明をお願いします。

  • 親の宗教に子供も入らないといけないのでしょうか?

    本当はこのようなことをここに書くべきではないのかもしれませんが、 誰に相談していいかも分からず、十数年間悩んでいるので、 意を決して質問させていただきます。支離滅裂で長くなると思いますが 真剣に悩んでいますので、目を通していただけるとありがたいです。 私の両親はキリスト教徒です。といってもはじめから、というわけではなく、 それぞれ大学時代に洗礼を受け、信徒になりました。 そんな両親の元に生まれた私は、小さい頃から教会に連れられ、 子供のための礼拝や、大きくなってからは普通の礼拝に 行かされています。(こういう言い方になってしますのは失礼ですが…) 私自身、神様を信じていないわけではないですが、 小さい頃から、言ってしまえば洗脳のように 「神様を信じなさい」と教えられてきた、という印象が強いので 信じざるを得ない、といいますか…。 そのため、完全に信じている、という状態ではないので 礼拝に「連れて行かれる」や「行かされる」という 言い方になってしまっているのです。 それに、何か事あるごとに「これは神様のお導き」 「教会に行けば道が開かれる」と言われ正直うんざりです。 高校に合格した時も、大学に合格した時も、 何でも神様のお導き、神様のおかげ、です。 確かにそうなのかもしれませんが、 受験の時は、勉強も面接の練習もものすごく頑張ったのに、 その努力よりも神様なのか…と思ってしまいました。 そんなこんなで、まだ洗礼を受けていない私は 完全なキリスト教徒ではありません。 私は20代前半なのですが、母はもういい加減 洗礼を受けなさい、教会に行きなさい、と毎日毎日言ってきます。 それが私は嫌で嫌で仕方がありません。 酷い時には、洗礼を受けないと地獄に堕ちるよ! とまで言われます。これじゃあ脅しじゃないですか…(;_;) ですが、大学費用とかいろいろ世話になっているため こんなことを言ったら、出て行け!と言われそうで 強く反発したことはあまりありません。 本題の戻りますが、 母の両親はキリスト教徒ではなく仏教とか違う宗教の人です。 母はそれに反発して、(という言い方は変かもしれませんが) 自分から神様を信じてキリスト教徒になりました。 だったら私にだって宗教を選ぶ権利はあるのではないでしょうか? 親がキリスト教徒だから子供も、 という考えは親のエゴだと思っています。 キリスト教徒の方には失礼な質問だと、重々承知の上で 質問させていただきます。 このようなことを思う私はおかしいのでしょうか? 親に従って、強制的にキリスト教徒に ならないといけないものなのでしょうか? みなさまのご意見お聞かせください。

  • キリスト教の彼なのですが・・・

    私には遠距離恋愛中の彼がいます。 遠距離ですが特に問題もなく良い関係を保っています。 ですが、ひとつ問題があります。 結構前に聞いたのですが、彼はキリスト教らしいのです。 (カトリックかプロテスタントかは分かりません) でも両親がキリスト教で、自動的にキリスト教になったらしいので 熱心に教会に行ったりはしていないみたいです。 私はキリスト教のことはよく分からないですし、 別に怪しい宗教でもないと思うので特に気にしてはなかったのですが 以下のことを言われて「ん・・・?」と思ってしまいました。 ・正月や雛祭り等は他の神様を崇めることになるのでしない。 (おせちくらいは食べるみたいですが) ・初詣等にも行かない。 ・結婚式も必ず教会で。 ・結婚したら、私も教会に連れて行くと言う。 ・子供が生まれたら、子供も教会に連れて行くと言う。 ・自分達が死んだら、お墓は無し。 私は無宗教ですが、お正月やお雛祭り等は普通にやりたいですし 結婚式の時も着物を着たいですし、自分のお墓も欲しいです・・・ キリスト教を批判するつもりも嫌うつもりもありませんが 宗教自体に全然興味がないので、教会も行きたくありません。 彼に「行くつもりはない」と言っても ふざけた感じで「駄目だよ~連れて行くよ」と言われました。 彼が「お正月等の行事をやらない」と言ったのも、サラッと言っただけなので 私が強情に「絶対やる!!」と言ったら出来るのかもしれませんが・・・。 彼が言ったこと以外にもキリスト教の掟(?)みたいなものが あると思うので、それも不安です。 彼と宗教について真剣に話し合った事はないのですが (話し合わずに相談してすいません) 意見を譲らないと言われたらと思うと、気持ちが滅入ります。 もし結婚して子供が生まれたら、子供をキリスト教にしたくないですし・・・ キリスト教を批判するつもりも嫌うつもりもないとは言いましたが 正直、宗教というもの自体毛嫌いしてるとこがあります。 とにかく何も崇めるつもりはないのです。。 問題はこのことだけで、彼のことは大好きなんです。 結婚も考えています。それなので上記の悩みが出て来たのです。 もし結婚したら宗教の事で衝突があるかもしれないと思うと不安です。 彼の両親も、結婚相手がクリスチャンでないと嫌な顔をするかもしれないんだそうです。 極端ですが、どうすれば彼にキリスト教を辞めさせることが出来るのでしょうか。 (もともと親に流されてる感じもあって嫌だったのです) 辞めさせるまではいかなくても、 結婚してから普通にお正月したりと行事を決行する方法はあるのでしょうか。 それとも、考えたくありませんが、別れたほうがいいのでしょうか・・・。 パートナーがキリスト教の方や他宗教の方、 無宗教の方、どなたでも宜しいので意見やエピソードなどを聞かせて頂けると嬉しいです。 拙い文章を長々と失礼致しました。

  • 聖母マリアにはキリストの他に子供はいたのでしょうか

    聖母マリアには、イエスキリスト以外にも子供はいたのでしょうか? もし、いたとしたらイエスキリストと同じく神聖なる受胎だったのでしょうか? 聖母マリアの母が聖母マリアを生んだときも神聖なる受胎であったと、先日、テレビでレオナルド・ダ・ビンチの絵画の説明のときに聞いて、聖母マリアの母と聖母マリアは、子供が一人でなかったとしたら、他の子供も神聖なる受胎だったのかな?とふと考えてしまいました。 なにか、ばちあたりな質問かもしれませんが、お教えいただけましたら助かります。 よろしくお願いいたします。