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不存在の証明はかなり困難か不可能なもの?

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.29

 qsxdrfvgyhさん  回答番号:No.27  皆様のお目にお任せして、黙して通り過ぎるつもりでおります。  受け付けられないことばであろうが、矛盾的存在の境に居る身同士として、一応のコメントをしておきます。  ★そのような手法が、より一般的に、矛盾なく、言い表せているのならば、それで、安心できる人々は幸せだと思います。  ☆これは、ご聡明なqsxdrfvgyhさんとしては、配慮の足りない、しかもふ充分なご理解の言説と存じます。  偶然は存在しない、究極なる存在からの必然により、依拠により存在と現象がある。ということでありまして、それを確知するかのことは、懶惰な思索では難しいことであるというのが、私の歩む経験で有りました。  自己におけるそういう認識・確認から、存在は当為であるといういみであります。  ★矛盾を見つけず、探究を望まない者を引きずり回すことは、しません。  ☆まともに、拙い投稿をしてきた、お相手していただいてきた私へのコメントとしては、良識のあるqsxdrfvgyhさんらしからない、ものと存じました。  知と論理の重要性は私たちも、徹底的に認識しております。  しかし論理で終始する、懶惰なし方はこれも、潔しとはしておりません。  論理での明らかな矛盾には私たちも耐え難いものです。  そのことは人間としては同じです。探求を求めないということも、慎重なqsxdrfvgyhさんとしては、あるべからざるコメントです。  探求するから、知と論理を超える必要を知ったのです。  座し、或いは麓にも行かず、呼吸と飲食している、知だけ、論理だけの探求に終始したくはありません。  そういう次元には通じない、説明できないこともあるのです。  ことばであらわせるけれども、表したものを受け取ることができない。  そういうものもあるのです。  ことばの理解ではなく、意味の伝達と受け取り、共有の世界の問題です。  私は労働運動に身をおいてきている傘寿ではあり、民主主義の法治論で生きてきていますが、上に縷々説明した事柄の次元は、ことばがわかれば意味がわかるというものではありません。  そうなっていない人には判らない。  それだけです。論理は家来です、知は家来です。主はその奥におります。  論理と知ではどうしようもないものも、いえ根本は、そんな瑣末な用具たちにな出せないものです。  大脳生理学や心理学のことなどを申してはおりません。  私は肉体労働しながら、夜学の法学が専攻ですが、法は自らの拠る法源を、知と論理で示せなければ、何の命題にも、提言にも為りえません。これは最初から最後まで知と論理で行っているのだという〔建前)を通します。  しかし哲学は、論理と知、これの役割、出自を徹底して認識することをお勧めします。  自己の哲学自らが自己哲学の出自と権能を認識できないようでは、それこそ、哲学としての存在性を否定される事になりましょう。  私への先のコメントの前にそういう意識化が必要だと存じました。  この老人がqsxdrfvgyhさんに語りかける、入り口が示されることを切に懇願いたします。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

27では、かなり不注意に書いてしまったと反省しています。 書き込んだ際も、躊躇がありました。 ただ、当為だとする論が、実態に合わないとき、その矛盾を超える論を探究するのが、哲学だと思っています。 「★そのような手法が、より一般的に、矛盾なく、言い表せているのならば、それで、安心できる人々は幸せだと思います。  ☆これは、ご聡明なqsxdrfvgyhさんとしては、配慮の足りない、しかもふ充分なご理解の言説と存じます。  偶然は存在しない、究極なる存在からの必然により、依拠により存在と現象がある。ということでありまして、それを確知するかのことは、懶惰な思索では難しいことであるというのが、私の歩む経験で有りました。  自己におけるそういう認識・確認から、存在は当為であるといういみであります。」 つまり、「究極なる存在」という特殊な存在の場合、完全な円や円周率と同様に、有為の世界の側にはなく、有為の世界の裏側にぴったりと貼り付いた無為の世界に属しているようだと思いませんか?そこを探究するのが、知の営みだと思っています。そして、かなり困難でもあると思います。 「★矛盾を見つけず、探究を望まない者を引きずり回すことは、しません。  ☆まともに、拙い投稿をしてきた、お相手していただいてきた私へのコメントとしては、良識のあるqsxdrfvgyhさんらしからない、ものと存じました。  知と論理の重要性は私たちも、徹底的に認識しております。  しかし論理で終始する、懶惰なし方はこれも、潔しとはしておりません。  論理での明らかな矛盾には私たちも耐え難いものです。  そのことは人間としては同じです。探求を求めないということも、慎重なqsxdrfvgyhさんとしては、あるべからざるコメントです。  探求するから、知と論理を超える必要を知ったのです。  座し、或いは麓にも行かず、呼吸と飲食している、知だけ、論理だけの探求に終始したくはありません。」 「知と論理」の壁は厚いわけですが、「知と論理」を超える必要がある点には、疑問が残ります。矛盾点を正しく見て(正見)、正しく考え(正思)、矛盾の無い論を探るという困難な道を歩むものだけが、哲学するものだと思います。その困難は、想像を絶するほどだと思うのです。 「そういう次元には通じない、説明できないこともあるのです。  ことばであらわせるけれども、表したものを受け取ることができない。  そういうものもあるのです。  ことばの理解ではなく、意味の伝達と受け取り、共有の世界の問題です。  私は労働運動に身をおいてきている傘寿ではあり、民主主義の法治論で生きてきていますが、上に縷々説明した事柄の次元は、ことばがわかれば意味がわかるというものではありません。  そうなっていない人には判らない。  それだけです。論理は家来です、知は家来です。主はその奥におります。」 知と論が家来だとすると、意のままに操れるという意味でしょうか。 矛盾の無い論を見つけ出す苦労は、大変なもので、とても家来だとは思えません。 「論理と知ではどうしようもないものも、いえ根本は、そんな瑣末な用具たちには出せないものです。  大脳生理学や心理学のことなどを申してはおりません。  私は肉体労働しながら、夜学の法学が専攻ですが、法は自らの拠る法源を、知と論理で示せなければ、何の命題にも、提言にも為りえません。これは最初から最後まで知と論理で行っているのだという〔建前)を通します。  しかし哲学は、論理と知、これの役割、出自を徹底して認識することをお勧めします。  自己の哲学自らが自己哲学の出自と権能を認識できないようでは、それこそ、哲学としての存在性を否定される事になりましょう。  私への先のコメントの前にそういう意識化が必要だと存じました。  この老人がqsxdrfvgyhさんに語りかける、入り口が示されることを切に懇願いたします。」 少しだけ、立ち位置が違っているようですが、それはお互い様のようです。失礼な表現になってしまった部分は、申し訳ありませんでした。しかし、「論を超える」と言われてしまえば、論を探究する者としては、隔絶した感があるわけです。実態を見たとき、論の矛盾が見えますが、そのときに論を超えて解消することが、パラダイムシフトだとすると、それは正しいご意見であり、共通認識でもあります。つまり、全く別の論への転換ならば、同意見です。論を超越した当為だと言われると、ちょっと違うと思ってしまいます。

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