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「存在論」って何のためのもの?

「存在論」ってどういう哲学で,何のためにできたのでしょうか? WikiPediaを見たのですがさっぱり分かりません. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96 何か,日常の具体例があるといいのですが・・・

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noname#25358
noname#25358
回答No.4

>もしよろしければ文献を教えていただけないでしょうか?  俺が読んでたのは「空想哲学読本」です(^_^;  想像してたよりは面白かったけど、まぁ、素人向けの本でしたね。俺くらいの知識量の人間には丁度よかったです。

white-tiger
質問者

お礼

ありがとうございます.具体的な話が多くて面白そうです!早速注文しました.

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  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.6

哲学を多少とも齧った人間が答えると、確かにwikipediaのような 教科書的な答えになると思います。 間違っていないし、何も付け加えることもありません。 しかし、なぜそんなことを考えたのか?という問いに答えるのは、 質問されてみると、確かに難しいと思います。 私は、哲学は「外部」についての想像力が働かない限り、ほとんど 言われていることが無意味にしか思えない、と考えます。 「外部」とは、通常の自分の思考の届かないような何かのことです。 例えば、「私の死」。 死んだあとに何があるのか?死んだあとで、私の意識は、どうなっ てしまうのだろうか?というようなこと。 あるいは「宇宙の始まりと終わり」。 子供の頃、誰もが一度は考えたことがあるはずです。全宇宙の始ま りのその前は、いったい何があったのか? ビックバンなるものが あったとしても、それより前には、いったい世界なるものは存在し たのか、それとも無だったのか? こういうことを、突き詰めて考えると、本当に気が狂いそうなくら い難しいことのように思えてきます。 いや、私たちは、そうした問いを真剣に考える能力を、たいていは 失っています。日常の当たり前の世界に慣れきっていて、もはやそ れを越えたような、あまりにスケールの大きな問いに対しては、思 考能力を失っていますから。 むしろ、まだ世界のことをよく知らない子供の方が、そうした「外部 についての想像力」を備えているでしょう。彼らは、まだ日常の世界 を当たり前のものとして学習していないですから。私も、子供の頃に 「世界の始めと終わり」について考えてみて、巨大な恐怖に襲われた ことを覚えています(今はそんな想像力はない)。 簡単に言って、そのような「世界の限界」について考えていった結果、 辿りついた考え方が哲学であり、あるいは存在論である、といえるで しょう。 例えば宗教や神話が、「初めに光があり、そして7日間で世界が生み だされた」というようにして、世界の原初を説明していったのに対し て、哲学は、そうした説明を、より論理的に、言葉を使って行おうと した試みであった、といえると思います。 ですから、哲学の言葉は、「世界の限界」を考えるような極限的な 思考、巨大な想像力がないと、なかなか実感をもって理解できるも ではないでしょう。それは、世界の終わりを実感するような何がし かの「体験」がないと、理解できるものではないかもしれないです ね。(言葉の上では、いくらでも追えるのですが)。

white-tiger
質問者

お礼

ありがとうございます. おかげさまで何となく分かったような気がします. 何で自分はこの世にいるのだろう,という疑問は確かに小さい頃はあります.それを言葉で論理的に考えようとした営みが存在論でしょうか.

回答No.5

「存在論」というのは、文字通り、ものが「ある」というのはどういうことか、ということをもんだいにしていきます。 下の回答では一気にイデアに話がいってしまってるんだけれど、そもそも「ある」というのは、どういうことなのか。 質問者さんは、「ある」ってどういうことか、説明できます? ものが「ある」。 自分が「ある」。 あなたが「ある」。 わたしたちは、個別の「もの」に関しての「ある」「ない」についてはいえるけれど、そういう個別の「もの」を越えた「ある」ということそのものについて、どう考えていったらいいのか。 それが存在論、というか、形而上学なわけです。 ギリシャのパルメニデスは、「ある」をどんどんさかのぼっていきます。 「ある」はどこから生じたのか。 「ない」ものから「ある」ものが生まれたとは不合理である。 あるいは目を未来に転じます。 「ある」ものが「ない」ものになるのか。 そんなことは不可能である。 となると、「ある」というのは不生不滅である、ということになる。 人間の感覚器官は、変化していくもののありようしかとらえることができないけれど、その感覚器官ではとらえられない向こうに「不生不滅」の「あるもの」があるのではないか。 ここからプラトンはイデアということに向かうのですが、もう話していくと哲学史そのものになっちゃうので、端折ります。 中世に入って、「ある」ということは「神によって保証」されたもの、もののありようを認めるということは、その奥の神の存在を認識するもの、という具合に考えられるようになります。そうして、中世の終わりに、デカルトが登場します。 神が存在する、と、どうして証明したらいいのか。 デカルトはこの根拠を「思惟するわたし」に求めます。 「考えているわたし(=コギト)」という存在は、うたがいえないものであるから、存在しているのだ。 これが一切の根拠となる。 ここから「存在論」は、「もの」の奥にある唯一不動の「あるもの」や、神ということから、「人間」に大きく動いていきます。 このデカルトの「考えているわたし」をさらに押し進めたのが、ハイデガーです。 ハイデガーはプラトン以降、ずっと「存在者」(人間を含むさまざまなもの)にばかり目が向いてきた西洋哲学を批判します。 ただし、「存在」とはなにか、に答えようと思えば、まず、人間はどのような「存在」なのかを明らかにしなければならない。 これが『存在と時間』という本なんです(わたしは読んでませんが)。 読んでないけど、何が書いてあるかはだいたい知ってます(笑)。 人間は、自分自身が作り出したものではない世界に「投げ込まれて」いる。 この世界に存在している「物」とは何か。それは「過去」に作り出され、「未来」の目的のために「現在」使用されている。ここから「物」「人間」「時間」には、わたしたちの日常とは別の基本的な関係がある。 けれども、多くの人間は、そうした基本的な関係ではなく、既存の個体の世界に埋没した生き方をしている。ならばどうした人間が「存在」について問えるのか? 人間は不安という感情によって、自分が存在しなくなるということ、〈死〉に直面させられるけれども、これによってみずからの外へ脱する特異な「存在者」となる。 このハイデガーの存在論に対して、「他者」の観点から存在について考えていったのが、レヴィナスです。 他者が「ある」とはどういうことか。 通常、他者はわたしへと現れるためにわたしたちは他者を認識しうるもの、〈知〉の次元でとらえることができるもの、と受け止めます。 けれども、「他者」も「わたし」と同様に「わたし」という経験を持ち、言葉を発し、他者と関わる。この「他者」の存在を、「わたし」の存在と同一線上に考えることができるのか。 あともうひとり、忘れてはならないのが、ハイデガー同様、〈死〉に直面する人間、ということに、まったくちがうやり方で迫っていったのが、バタイユです。 バタイユも〈死〉について考察しますが、死というのは、わたしたちがそこへ向かい、どれほど接近したとしても、死そのものと出会うことはできない。真に経験され、完了することがありえず、「経験」とはなりえないまま、その経験のうちにとどまる。これを「内的体験」と呼ぶ。 バタイユはものすごくおもしろいけれど、いわゆる存在論、いわゆる形而上学に位置づけられる人とはちょっとちがうのかもしれません。 ですから > 現代社会で存在論が問題になる例 としては、ハイデガーとレヴィナスをあげることが一般的ではないでしょうか。 「存在論」の有効性が、徹底的に批判されたのは、二十世紀初頭の論理実証主義の時代です。 論理実証主義というのは、観察によって検証され得ない「命題」には、意味がない、とします。実在する「もの」を超えたところでの存在のありようなど、経験的に検証することができないもんだいは、問うこと自体が無意味である、と。 けれども、第二次世界大戦を経て、こうした「近代的思考」の確かさが揺らいでくる。 そうなって、もういちど見直されてきたのが、形而上学、存在論としてあるわけです。 こういうことを問うことに「重要性」があるのかどうなのか、わたしにはなんとも答えようがありませんが、他者について、あるいは死について、あるいは、芸術について、あるいはまた人間の知覚について、表面にあらわれてくるものを超えて、その奥にあるものを考察しようとしたときは、なんらかのかたちで存在論に結びついていくものなのではないでしょうか。

white-tiger
質問者

お礼

> 「存在論」の有効性が、徹底的に批判されたのは、二十世紀初頭 > の論理実証主義の時代です。論理実証主義というのは、観察によ > って検証され得ない「命題」には、意味がない、とします。実在 > する「もの」を超えたところでの存在のありようなど、経験的に > 検証することができないもんだいは、問うこと自体が無意味であ > る、と。 これを読んで少しほっとしました.やはりそう思う哲学者もいたのですね. 私も,観察によって検証され得ない「命題」には、意味がないと素朴に思っていたので,むしろ何で「存在論」みたいなものが生まれたのかな,というのが不思議だったのです.

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.3

存在論は、「存在」をどのように扱うかが命題です。 たとえば「木」があります。 木は確かにそこに存在しますが、枯れれば腐ります。 また火をつければ燃えて、炭になりかなりの部分が無くなってしまいます。 石でさえ、割れればその形をなくしてしまい、粉々にすれば砂と呼ばれる状態になってしまいます。 このように万物は状態によって変化するということに気づいた古代ギリシャの哲学者たちは「では何物にも変化しない根本のモノは何か」と考えました。 これが存在論の始まりです。 そしてこれが神の概念とくっつき、スコラ哲学に発展したり、また存在があるとして、人がそれを正しく認識できるのかといった「認識論」とも融合していきます。 古代のギリシャ哲学者は同時に科学者でしたから、モノを変化させる(錬金術とかです)というのに長けていましたし、また数学的に有る(存在する)・無い(存在しない)・あるけど無いという世界(数学的な有理数・無理数・虚数などの世界です)も知っていましたから、現実に目に見えているものをどのように扱うかというのがとても重要だったのです。

white-tiger
質問者

補足

ありがとうございます. >古代ギリシャの哲学者たちは「では何物にも変化しない根本のモノは >何か」と考えました。これが存在論の始まりです。 分かったような気がする一方で,いまいち重要性がまだ理解し切れていません.. 例えば,現代社会で存在論が問題になる例はあるのでしょうか? それとも,哲学者達の間の遊びでしょうか?

noname#25358
noname#25358
回答No.2

 #1です。こちらで追記できそうな疑問点があるようなので。 >理想の自分を目指す,というのは誰でもやっていそうなので  えとですね。  俺がプラトン哲学しか知らないのであしからず限定させていただきますと、あの時代は現代と同じような「相対主義」が席巻する時代だったんだそうです。  相対主義ってのは、「人は全て相対的である。絶対的な何かがあるわけではない」という考え方ですね。分かりやすくいうと「人は人、自分は自分」となります(笑)  現代の日本で戦争が起こったら若者はどうするのか、を考えていただければ分かるとおり、相対主義が席巻する国は戦争には勝てません。  ゆえに、民衆をまとめ上げるために「絶対主義」という考え方を打ち立てる必要があったのです。(そもそも戦争のために作られた哲学ってあたり、自分でもうろ覚えっぽいなとは思うんですが(笑))  絶対主義というのは、相対主義の反対で「みんなで1つの目標を目指そう」ってな感じの考え方です。これがつまり「人は究極(=イデア)を目指すべき」という考え方に繋がるわけです。  そうやってプラトンは民衆を1つにまとめようとしたわけですね。  これをキリスト教哲学に当てはめると、目指す神というのは天空(?)とか、雲の上の届かない場所にいれば充分なわけで、人々の心の中にいるのはあくまで「理想の自分」です。  「理想の自分」はあくまでも「神」ではありませんので、単に自分なりの努力をすればいいのです。  そのような考え方だったため、せっせと努力した人こそがイデアに近づける――すなわち、教会のために金を積んだ人が神に近づけるという理論がまかり通る世界が出来上がっていったわけです。

white-tiger
質問者

補足

その戦争との絡みは非常に面白いですね. もしよろしければ文献を教えていただけないでしょうか?読んでみます.

noname#25358
noname#25358
回答No.1

 そもそもは、戦争機運の高まっていた頃、時の哲学者プラトンが、戦争というものに対して実感を抱けない若者達をまとめ上げるために考え出したものなのだそうな。  全ての存在の根源として「イデア」があり、人間は全てイデアを目指すべきであるとか何とか、そういう考えだったと思います。  のちにこのイデアは「絶対物」として「神」と融合され、キリスト教哲学の基礎となりました。  キリスト教が信者をまとめ上げるために、「我々は神(=完全体)を目指すべきである」としたのです。  昔読んだ本で見たうろ覚えの知識なので、いちおー自信なしで。

white-tiger
質問者

補足

なるほど,「存在」というのはイデアとか神とかだったのですね. 理想の自分を目指す,というのは誰でもやっていそうなので,これが学問になるというのが結構不思議です. 神を目指す,ということは,それぞれの人の中に神はあるということでしょうか?(つまり,神が沢山いる)

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