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陰陽道からくる風習や行事を教えて下さい。

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.4

こんにちは。 NO1.です。 yuhkohさんへ。 確かに、陰陽道は陰陽五行思想を起源としているようですし、それぞれの世界観は若干違うようですが、5~6世紀頃、日本に陰陽五行思想が入ってきて、「日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系」。(次のサイトの冒頭)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93 と、あるように、日本独自の発展をした、と、考えられ、占いの分野では、完全に分かれるものなのかもしれませんが、 少なくとも、陰陽師の「賀茂一族」や「安倍清明」が活躍した頃には、「混同している」と、言われるかも知れませんが、日本独自の「陰陽道」が出来上がっており、それが、今日まで続いている・・・と、考えた方が「自然」なのではないでしょうか? もし、双方が相容れないものであれば、日本においても、「陰陽道」と「陰陽五行思想」は、対立したまま発展をするのではないでしょうか。 >>(もっとも、質問者さんが参考にされたサイトも、どれほど信憑性のある話か分かりません。信頼のおける参考文献も提示されていないし、サイトを見ても啓蒙書や入門書のたぐいしか見あたらないし、それにサイト主の名前で検索をしても何だかな~ ということしかヒットしないし) 少なくとも、Webサイトでの検索で出てきたものを、色々集め、それらを総合して、自分の考えをまとめる・・・だけでも良いのではないでしょうか。それぞれのサイトでは、「出典」があるものもあれば、ないものもありますし、思わぬサイトで「出典」が分かるものもあります。 「出典」が明記されていない=「間違い」とは、言い切れないのではないでしょうか? この、陰陽道にしても陰陽五行思想についても、サイト検索では、バラバラと出てきます。それらは、時には「異説」もありますが、多くのサイトを照らし合わせて「自分の考え」とすることは、あながち、間違いとは言えないのではないでしょうか。 多くのサイトが「間違いだらけ」を公開しているのでしょうか? では、yuhkohさん、あなたの自論の「出典」は? 質問者のsitifukujiさんへ。 >>「迷信」「占い」を受け入れて歴史を考え直して見ると面白いのでは、と思いました。 そうですね。 「歴史」とは、○○年に××事件が起きた。その背景は☆☆であった。 と、言うように「単一的」に見ていく傾向がありますよね。 しかし、あなたの言われるように、特に、奈良時代や平安時代などを考える時には、占術や加持祈祷の盛んな頃でしたから、前述のように、「遷都」ひとつをとっても、 「・・・三方が山に囲まれ南が開け、占いにもかなっている」 と、占術に頼ったことも「考慮」すべきかもしれませんね。 同時代ですが、桓武天皇が延暦3年(784)6月に平城京から長岡京へ遷都をしましたが、その後、「飢饉」「疫病」「自然災害」が多発しました。そこで、桓武天皇は占術師に占ってもらったところ、弟の早良(さわら)親王の「たたり」だと言われた、といわれています。 早良親王は遷都に反対する公家たちと共謀して、桓武天皇の片腕であった藤原種継を暗殺した一味で、桓武天皇は激怒し、 「一味をきっと探し出せ」 と、指示し、10名近くの公家と、それにかかわっていた弟の早良親王が捕らえられました。 公家たちは、ただちに「斬首」の刑を執行し、早良親王は幽閉されましたが病死しました。 この後、色々な「災難」があったため、占術師に占ってもらい、早良親王が「恨み」を持ったまま死んでいった。とのことで、ただちに、「鎮護」の祈祷をした、と言われています。 また、 大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。 >>歴史の解釈は、「迷信」「占い」とかを受け入れない「解釈」で成り立っています。 と、書きましたが、やはり、側面からは、「迷信」や「占い」も十分考慮しなければならないのかもしれませんね。

noname#82952
質問者

お礼

何度もありがとうございます。 元号の無い時代があったなんて、オドロキです。 なんで元号がなかったんでしょうか。 そのようなことも古代人の気持ちになって考えてみると 新しい歴史の発見があるように思います。 これからもよろしくお願いします。

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