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壬申戸籍の次世代版!?

こんにちは。 数十年前から、今ではもう取得できない戸籍謄本を取って、 ルーツ探究をしている知人がいます。 その知人によると、 「士族は『士族』、農民は『農民』と書いてある」そうです。 しかし、私は壬申戸籍等の古い戸籍は、 士族と被差別部落以外の人は、『平民』との表記、 後に、被差別部落の人を『新平民』と記したと思っていました。 でも、その知人は、 「『農民』と書いてあるから、先祖が農民だったと分かった。 『平民』という表記は見たことがない」、 「壬申戸籍は取得できなかった。 自分が取ったのは、壬申戸籍の次の戸籍だ」 と言います。 なぜ『平民』ではなく『農民』と具体的に書いてあるのでしょうか? 仮に江戸時代に商人であれば『商人』と書いてあるのでしょうか? 『平民』を具体化して書きかえた戸籍があるのでしょうか? どなたかご教示願います。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 どなたも回答がないようですので・・・。 私の知る範囲で・・・。 (1)明治4年(1871)に、江戸時代の「宗門改帳」を改め、全国的に統一した「戸籍簿」が始めて作成されました。その理由には、国家としての徴兵制度や徴税制度を把握しておく必要性からでした。完成したのは、明治5年(1872)で、この年が壬申(みずのえさる)年だったことから、音読みで「壬申(じんしん)戸籍」と呼ぶようになりました。(この辺りのことは、すでに、ご存知かと思います)。 史料によると、(男女別とかの詳細は省きますが) 皇族・・・29人 華族・・・2666人 士族・・・1,282,167人 卒・・・・659,074人 地士・・・3,316人 僧・・・・211,846人 旧神主・・102,477人 尼・・・・9,621人 平民・・・30,837,271人(この中に、いわゆる、新平民も入る) 樺太人・・2,358人 ------------- 計・・・・33,110,825人 この時、江戸時代の「穢多(えた)」「非人」(これらの区別はWikipediaなどを参照してください)を「新平民」としましたが、各地の役所でさえ、その家の戸籍に「折り目」を付けたり「何かを挟んで」、目印として蔑視することが行われていました。 この「壬申戸籍」は、昭和43年まで「取り寄せ」や「閲覧」がされていました。 現在は法務局に「厳重保管」されるようになり、「取り寄せ」や「閲覧」は厳禁。意外と近年になってからのことです。 従って、大企業など、特に、銀行関係や保険関係の会社では、こうした「新平民」の採用の取り消しや入社試験では合格しているにもかかわらず、会社の信用にかかわる、と、いうことで、採用の取り消し等が行われました。これが今日の「同和問題」の発端です。 (2)明治19年式(明治19年10月16日より、新戸籍編纂)。 屋敷番制度から、地番制度への変更。ただし、一部地域では、番地、番戸、番屋敷、番邸の4つを併用しました。 そして、「除籍制度」の導入。つまり、嫁に行ったり、分家などをした時、家長の戸籍からその人を削除し、嫁ぎ先の戸籍に編入したり、新戸籍を作った。 また、新たに「戸主ト為(な)リタル原因及ヒ年月日」が記載されることとなる。 (3)明治31年式(明治31年7月16日より、戸籍制度の一部変更)。 完全に「地番制度」となる。 民法(旧民法)で、「家制度」が制定され、人の身分についても詳細な規定が設けられる。 ※知人の方が手に入れたのは、この時の戸籍ではないかと考えます。実際にどのように記載されていたかは、不明ですが、次のサイトで図表化した資料が見られます。 http://tnms.servebeer.com/home_site/mitsumine/t2_2.html (4)大正4年式(大正4年1月1日より、一部改正)。 「戸主ト為(な)リタル原因及ヒ年月日」が削除される。 また、身分制度が複雑、煩雑となったため廃止。 (5)昭和23年式(昭和23年1月1日より、改正)。 これまでは、「家制度」であったが、戸籍が「夫婦単位」となる。 (6)平成6年式。 電算化やコンピューター管理が自治体で普及し始めた。ただし、法律で「電算化」を強制はしていないので、小さな町村あたりでは、まだ、手書きの役場もあります。 以上ですが・・・あなたの答になったでしょうか。

john_john
質問者

お礼

大変丁寧な回答ありがとうございます。 私も現物がどのような物か知らないのですが、 >人の身分についても詳細な規定が設けられる という経緯があったわけですね。 向学になりました。

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