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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:卒族を「士族」と「平民」に分けた。)
卒族を士族と平民に分けた理由と割合の変遷
このQ&Aのポイント
- 明治時代になると、新政府は卒族の名称を廃止し、彼らを士族と平民に分けて編入することを決定しました。
- 士族とは、それまで身分を世襲していた者であり、平民とは一代限りの家臣を指します。
- 「壬申戸籍」のデータによれば、卒族の大多数、9割以上が士族に編入されていることが分かります。
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 卒族の人たちは同心とか足軽を務めていた人たちです。身分的には世襲の家格と一代抱えがありました。世襲の家格の人は士族としてお侍と同じ身分になりましたが、一代抱えの人は平民になりました。もちろん、世襲家格の家の方が多いに違いないですね。一代抱えの人の場合はその人の才覚で出世したものですからね。そういうのは身分制を形の上でも取っている封建社会である江戸時代にとっては破壊者になる可能性がありますからね。 卒族 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%92%E6%97%8F
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回答No.2
1説では足軽の伊藤博文の影響と言われます。 藩により身分が違ったのですが、足軽を武士と扱った為では。 政治的には維新は下剋上に過ぎません。 足軽の伊藤博文が藩主の上に立った訳です。
質問者
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど! “伊藤候のご意向”これはありそうです。 元足軽の身で、卒族全員を無条件に士族にするとは言えぬから、ほぼ全員が士族になれるように、もっともらしい理屈―世襲―を付けたというところですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 世襲家格の家の方が多い、それも圧倒的に多かったということですね。 それならそれで、「大多数の卒族は士族に編入された」と一言追記してあれば、と思います。 「一部は士族に、一部は平民に」と説明している資料もありますから。