• 締切済み

存在とは?

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.3

 point-8さん おはようございます。お邪魔します。  さきほど わたしの芸術についての質問で ご回答へのお応えを書いたところです。  Q:存在とは?  という問いですよね。  《存在》とは おのおのの主観にとっての自同律つまり自己同一性のことです。《人が人である / わたしが 人である / わたしが わたしである / わたしが わたしする》というそのあり方です。  ですので このあり方をあたかも否定するような何ものかを想定して その《何ものか》と《主観(わたし)》との関係において――ということは まったくの《虚構》においてということですが―― 捉えると あたかも分かったような納得が得られる。こう思われます。    もっとも 実際にも この人としての生においては おのれの意志のとおりに振る舞えるものではないという実態がありますので 主観にとって 《なぞ》があるのも ほんとうですし 主観やその意志をあたかも否定するような何らかの力が はたらいているのではないかというのも 真実であるようです。  この《なぞの何ものか》が これも一般に《神》として 想定され 持たれています。そして この神との関係にある《わたし》という話になると 社会性が発生します。(もともと 社会的な動物であるわけですが 自覚し意識するようになります)。 つまりあるいは主観にとってその価値観が 伴なわれて来ます。  次のような物語を たとえとしてのように 導入します。  その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。じゃあ どこへかとも定まらずに これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすでしょうね。  次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。  目覚めたというようなことでしょうか。この自己表現も 《存在》にかかわりますよね。また 先ほどの《行けと言われたから 行った》 これも そういう――受け身のかたちですが―― 自己表現になっており その表現のごとく生きることが おのれの存在だと言っている場合だと思います。  さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。    これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで     貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げるためである。     (『イザヤ書』61:1-3)  さらに時は飛んで イエスという人の話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い   てある箇所が目に留まった。     《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。      存在せしめる者がわたしを遣わしたのは       貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を      告げ知らせるためである。》     (=つまり『イザヤ書』61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人   びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは       ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち       に実現した。   と話し始めた。      (ルカ4:17-21)  という《存在》をめぐる歴史物語です。  わたしは この究極のお節介版としての存在関係論が――むろん 虚構としてですが―― 《存在》にかんする人類最大・最高の思想であると考えます。point-8さんにとっては いかがでしょうか。

関連するQ&A

  • 存在証明

    デカルトなどが行ったと思いますが、神の存在証明を言うものがあると聞いた事があります。(私は哲学か科出ではないので、詳しくは知りませんが…) デカルト以外に神の存在証明をした人がいたら教えていただけないでしょうか。 お願いします。 アリストテレスもかな?

  • 神は存在しない、神は「妄想」です!

    従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)自然神学的証明(一名、目的論的証明) これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。 カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。 ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。 (2)宇宙論的証明 これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、 「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。 しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。 アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。 だから、この証明は間違いです。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明) これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。 以下のものがあります。 聖アンセルムスの証明。 「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」 デカルトの証明。 「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。 この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。 「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。 つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。 アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。 デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。 こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。 現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。 みなさん、どう思いますか? 確認質問です。

  • 存在ってどういう意味ですか

    デカルトの、神の存在証明で 神は完全であり、存在も含まれていなければならない したがって神は存在するとあります。 この 存在 というのは、どいう事かという疑問です。 そこで (1)存在 (2)認識 (3)知覚 は現象として何を意味していて、何が違うのかをしれば 神の存在の 存在 の意味が分かりそうです。 知覚は、赤いものが脳にうつった事 認識はそれを既存の考えでとらえた事 存在は、、、共有? わからんです

  • デカルトの神の存在証明

    デカルトは「我思う、故に我在り」によって、“不完全な存在である我が存在できる”のは“完全な存在である神が存在するからである”ことを証明したと聞きましたが、どうしてこのように考えられるのでしょうか。 不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。

  • デカルトとマルブランシュとライプニッツ

    私は大学で哲学を学び始めたものです。初心者のなかでも一番したのランクです。デカルト、ライプニッツ、マルブランシュの3人について10回くらい講義を受けた中で引っ掛かかった箇所があるので聞いてください。身体と精神は別物で神の力によって精神から身体に働くという場面がありました。例えば腕を上げるのも神が都合よく手を動かしにくるというのです。 3人に共通するものに神の存在がありました。一番納得できないところはそこです。デカルトは「実体とは実在するのにそれしか必要としない。、、、厳密に言えばそうした存在は神しかいない」と書いてありました。この文の意味もよくわからないんです。人形とかも単一(人形のみ)で存在しているといえないんでしょうか? 神という目に見えないものを3人とも出してきています。ここまで物事を深く考えている人たちは目で見えないものをどうしてこんなに信じているんでしょうか。考えても不明なものはみんな神のせいにできる気がします。 ここまで自信ありげな文章になっていますが、間違っている箇所もあると思います。それから絵がないと説明も難しいとは思いますが回答よろしくお願いします。 ながくなってすみません。

  • デカルトの神の存在証明

    デカルトは方法序説で神の存在を定義していますが、ここで言っている神は第一部で述べた良識と同等に考えて良いのでしょうか? なぜそうなのか等、詳しく教えていただけるとありがたいです。

  • なぜ哲学は神を捨てたのか?

    哲学と神の関係について古代から中世までは、哲学と神は切っても切れないほど密接な関係を持っていました。しかし近代以降、哲学は神のことを語らなくなってしまったように思います。 それはどうしてなのでしょうか? もはや神の存在を人々が信じられなくなったからとは聞きます。 でもこのことは語られない基準としてあいまいな気がします。 どのくらいの人が神を信じられないと神を語ることはできなくなるのか? 欧米では現在でも人口の50%以上はクリスチャンですよね。 たしかに無神論の人はいるでしょうが、どちらかと言うと変わり者と考えられています。 現在でもかなりの人が神の存在を信じていると思うのです。 哲学者の中にもかなりの数のクリスチャンがいるはずです。 彼らは神を信じているなら神の哲学をしないのでしょうか? 私は物理学者でクリスチャンの人の話を聞いたことがあります。 彼は神のことを心から信じていました。しかし物理学の研究では直接神が登場する機会はありません。ですが哲学者で神を信じているなら神の哲学を語ってもいい気もします。 デカルトの神の存在証明をカントは否定しました。 しかしそのことも神の存在が否定されたことにはなりません。 現在でも誰も神の存在を証明することも、存在を否定することもどちらもできないはずです。 自然科学で神が語られないのは明快な理由があります。 それは神は観察できないし、実験できないので議論するための根拠を示せないからです。 ですからもし根拠さえ示せれば神を語ることもあると思います。 哲学が神を語らない明快な理由がありましたらお教えください。 それから私が調べたところではベルクゾンという哲学者は神について語っていたと聞きます。 それは後半の神秘主義に傾倒してからの話です。 ベルクゾンについてはあっちの世界(神秘主義)に行っちゃった人が神を語ったという評価なのでしょうか?それとも哲学として神を語ったという評価なのでしょうか? このことについてもご存じでしたらお教えください。

  • 神は存在しないのか?

    苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。 その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明 したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから) 完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。 しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも 人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた 完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか? つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか? まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか? 私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。 肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも 教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。

  • デカルトの《明証性》って何ですか?

     デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?

  • 神の存在

    私は無神論者で神の存在を否定しますが世の中には神の存在を信じている人がかなり居ますがこれってどう考えればいいですか。