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人は何のために生きているのか?

tumaritou1の回答

回答No.31

この疑問を解決したいとお思いならば、あせらない事です。結論を急がない事です。そうして学ぶのに良い教材が在ります。その教材とは「禅」の事です。 昔から人間は悩むものでした、悩みも、苦しみも、疑問と云うものも元を正せばみな同じ事です。それは「心の矛盾」と云えます。他の言い方をすれば、「今現在の自分を肯定できない事」或いは「自我意識が全てに疑問を抱いている事」と言っても良いと思います。 貴方が抱いている疑問は、貴方の自我意識が抱いている疑問です。貴方が「子供の頃には」この疑問は無かったと思います。子供の頃には何も疑問も、悩みも無かったはずです。是が聖書に書いてあるところの「天国」と云う事です。 そうして「疑問を持った、或いは疑いを持った」と云う事が知恵のリンゴを食べた事に相当します。貴方は「天国から追放された」と云う訳です。是はどういう事なのか科学的に説明します。 ある年頃になって悩みや、深い疑問を抱く事が在ります。是は脳の機能が発達して「機能分化」が完成に近ずいた事に関係します。それに対して子供が「無邪気で、楽しそうに」生きていられるのは脳が発達していなくて「心が一つ」のためです。 機能分化が完成に近ずくことによって「心は二つになります」是は分かりにくい事です。非常に分かりにくい事です。ですが一人の人間には二つの人格が「混在しています」これは1,980年代に科学で証明された事です。てんかんの治療の一環として左右の脳をつないでいる脳梁を切断して左脳と右脳が完全に分離された人達に各種の実験を行いました。 その分離脳の研究でアメリカのスペリー博士がノーベル賞を授与されましたが、その分離脳の研究成果の中で「左脳に一つの人格が在り、右脳にも左脳とは全く別の人格が在る」と云うのが在ります。この事が貴方に今の疑問を抱かせています。 それでは「禅」の説明です。これは本当に理解するためには「見性」と云う体験が必要となりますが。頭でわかってその方向を目指すという事もあるかと思い書いてみます。 禅とは何か?と云う事になると説明に困りますが簡単に説明します。禅は「お釈迦様」が考案した「見性=自分の性を見る事」つまり悟りを開いて抱いていた疑問や悩みを解消すると云う事。 その原理は次の事です。人間の悩みは自分で自分を悩ませている。決して他人が自分を悩ませている訳ではない事。その事から自分をを悩ませていたものを突き止めて、その悩みを根底から解消しようとする事と云えます。 現代の科学的な言い方をするならば、自分の自我意識を悩ませているのは、右脳に或る一つの人格と云う事です。その人格を訪ねて「会う」事によって、心の矛盾を解消する事と云えます。 キリスト的に言うならば「神にあって和解する」と云う事です。 他力本願で言うならば、「向こうからお助けが来た」と云います。 自力本願ならば「見性成仏」「悟りを開く」と云う事になります。 自分を悩ませていたものと出会う事によって「心の対立と矛盾」が解消します。「心が言い争いをしなくなります」この事を「涅槃」「心が限りなく静かになって、穏やかになる事」と云えます。 では悩みとは何かと云う事を他の言葉で言ってみます。それは「禅問答」の中にあります。禅問答は難解なものです。是は左脳の分別脳にはとけない問題と云えます。ところがこの問題に命がけに取り組む時に遂に「自我意識」では無理だという事がわかる時が来ます。その時に「右脳の意識である仏性あるいは神」が出てきてこの問題を解いてくれます。 禅問答は分別脳では解けません、それで禅坊さんは「分別を捨てろ」と云うのです。右脳の意識に出て来て貰えるなら即刻わかる問題なのです。これは脳の機能の問題です。 人生は矛盾に満ちています。分別するという事は論理的に理解して、割り切ってゆく事です。分別脳に割り切れる問題だけを振り向けてやるならば、何の問題も起こりません。ですが人生には割り切れない問題も生じます。分別できない問題です、感情とか、永遠とかの問題です。この分別できない問題が「自我意識に」割り込んできます。これが「人間を悩ませて来た事なのです。」 従って貴方が悩むのは「分別脳」に分別できない問題を抱え込んだ事と云えます。貴方の自我意識が疑問を抱いたという事、そうしてその疑問は誰が抱かせたのかと云う事。貴方がその疑問と一つになる時に「全ての答えが」出てきます。参考になるものは鈴木大拙博士の書いたものが良いと思います。博士は25歳で見性体験をしています、その事によって大事なところを親切に解説してくれています。私の場合は「禅」体験は全くしたことはありません。他の深い悩みが在って博士の本によって疑問の解消が出来た者です。

symmetry5
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 大変参考になりました。脳梁を切断し左脳と右脳を分離した解きの実験は僕も知っています。すごく興味深いです。これが自分の悩みと関係があるとは考えませんでした。 鈴木大拙博士の本も読んでみたいと思います。

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