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ブッダは 神ですか

maggaの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.32

<<☆ (1) 《想定する》とは 《〈虚構〉として設定する》という意味です。小説という虚構を読んで・あるいは著わして それは 虚構だと分かっているのですから…。>> 決め付けるのではなく。現実とつなげるのではなく物語として・虚構(事実でないことを作り上げること。)としての物語として思考すると言うことですかね。この先の話は「こうだからこうではないか。」と言う性質でなく、ただ言ってみただけということですね。 <<(2)《見たと想定する》というのは 結局 基本としては あとに出てくるように 《〈絶対〉が ある または ない》といういづれか一つの虚構を設定することです。《何かを見たと言い張る》ことではないのです。「決め付け」ではありません。>> 虚構の設定ならば一つに限定せずとも、両方と無回答。「有る」「無い」「議論さえない」の三つが有るでしょうね。 それぞれについての虚構の物語としての無限の想定が発生しますね。 ここまでは決め付けは無いかもしれませんね。「まぁ、無限にあるよね」と受け入れている状態かも知れません。 しかし、ここに自分の愛好する設定に対して、論拠無く全てを信じ仰ぐ(信仰)をなせば、多くのものが決め付けと他の見解の排除の思考にいたると思います。 もちろんその他の見解の排除や、決め付けを禁じるような想定ならそうはならないでしょうが…。 仏道では「信じろ」とは言いません。仏法やいろいろなものにより学んで納得・実証なしてない部分は「想定」と言えるでしょう。つまりその「想定」も新たな事実が見つかれば、柔軟に変えていき、更新していくのが仏教的と言えると思います。「想定」は実証するまで「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」と言うものですからね。 <<小説という虚構を読んで・あるいは著わして それは 虚構だと分かっているのですから 読んだり書いたりしたことを 《妄想思考》したとは言わないでしょう?>> 妄想思考にはなりやすいとは思いますね。解りやすいのは感情が出たら確実に妄想してますね。論理的に理性的に読んだなら妄想思考したことにはならないでしょうね。 <<それと同じように 心の志向性として 涅槃を 神として 設定するのです。涅槃を 無や無神としてではなく 有神として 想定するのです。>> 決め付けではない、根拠論拠を必要としない事実と関係ない虚構の物語としての数多有る中の想定に中の一つですよね。 涅槃=神=有≠無としなくても良いのですね。何の根拠も必要としない貴方の物語を只述べているだけ。他人に押し付けたり、これこそ正しいのでは?と試行錯誤の考えでもないのですね。 貴方はこのように想定するのですね。 <<ということは 無ないし空(無自性)と設定するのと 類型として 同じです。>> これも貴方の想定ですね。 <<しかも この無ないし有 もしくは 無神ないし有神 どちらも 《絶対》あるいは《涅槃》のことを表現したものと想定しており>> 貴方は想定しているのですね。 <<互いに 同等で対等であるという認識を持ちます。>> そのように想定しているのですね。 <<決めつけているのではないわけです。>> 決め付けてないのですね。 <<むろん それは 想定であり 虚構であると言いますが>> はあ。そのように想定するのですね。 <<★仏教では全生命に対して「慈悲喜捨の念を持つ」ことを勧めています。むしろその念を持たねば平等を実践したことにならないとしています。それを完全に行うだけでも悟りを得ることが出来るといわれています。☆ この仏道が 絶対であるというお立ち場なのですね。>> 絶対と言う決め付けの態度ではありません。いつでも更新可能な柔軟な見解です。論理的に道徳的に実証的に検証を重ねるものです。 「慈悲喜捨の念を持ち身口意で行為する」ことに反対の論を持つものを私は危険なものと考えます。 <<経験思考による試行錯誤の道に就くなら いづれは ★ 物事を観る能力がついて、幸福を享受しながら振り撒き、ありのままを見て悟りを得て涅槃に至る。と言う見解を持ってます。☆ ということなのですね? ここで magga さんも 《絶対》を想定しておられませんか?>> 物語として、と言っても論理的に道徳的に実証的に最大限に理性的に「設定・想定・仮置」はしてますが、新たな情報が入ればいつでも更新可能です。絶対は想定しているつもりはありません。 <<《無》だということだから 想定してはいないとおっしゃるのでしょうか?>> 涅槃自体を「設定・想定・仮置」はしてますが、有とは想定してません。何だか難しいですが。それも一つの自由な想定ですよねw <<《涅槃》は 絶対ではないということでしょうか? 無余涅槃と言ったところで 絶対ではないということなのでしょうか? 限りなく絶対にちかづくということでしょうか?>> 絶対としての想定はなしていません。論理的に道徳的に実証的に最大限に理性的に「設定・想定・仮置」はしてますが、新たな情報が入ればいつでも更新可能です。絶対は想定しているつもりはありません 「絶対の想定」が常に更新し変化し続ける性質のものでないならば。 <<そうであっても そこでも 《絶対》は 想定されていますね!!>> 貴方の決め付けの想定はそうなのですか。 仏教は「ちゃんと観なさいよ」とガイドラインを引いているだけなので…自らがきちんと観るまでは「想定」は柔軟に変化更新していく性質のものですから…。この「想定」も根拠論拠に基づいたものですが。。 何も想定しなくとも、今をちゃんと観ることだけを実践している人も結果として、同じ道を歩んでいるのです。 我々の実践は八正道ですから。 八正道の論理理性に納得し実践する人は、何を想定しても柔軟に同じ道を歩むものとして認識しています。 有神も無神もない気がします。 想定し決めつけづ、柔軟に事実にもとずいて、自他の幸福のために、悩み苦しみを減らすように設定を変化させることが可能で、自己の見解に執着し、それを守ろうと他の見解を根拠論拠範囲も考えず壊そうとしないなら。危険なものにはなりにくいと思います。 そのような平和なものが多いと良いのですが。 この世を見渡すとなかなかうまくいかないみたいですね。 この辺にしときます。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん 逃げましたね。これで 何度目でしょうか。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ この辺にしときます。  ☆ ということが 都合の悪くなったときには 回答者にはゆるされているということでしょうか。それならば 今後は一切取り合いません。  可能性をこちらから消さないために 返答を述べます。  (1) 虚構の想定は 絶対にかんしては 有か無かの二つに一つです。  ★ 虚構の設定ならば一つに限定せずとも、両方と無回答。「有る」「無い」「議論さえない」の三つが有るでしょうね。  ☆ とはなりません。無神論だということになると 都合の悪いことがあるのでしょうか どうして 議論を曲げるのでしょうか。これは 想定するということは 経験合理性による議論ですよ。  たとえば 無限を思い浮かべてください。一・二・三・・・と始めて限りなく数え続けるというのとは 少し違います。無限という想定は それを分割しても その部分は やはり 無限なのです。そういう想定です。《無回答・議論さえない》という回答はありません。《八正道》が泣きますね。  無限という絶対を 概念として扱えば いくら分割しても やはり部分それぞれも無限であるという内容になりますが これは 想像の世界にしか 《有る》とは言えません。したがって この経験世界の人間の言葉では その同じものを《無い》と表現しても《有る》と表現しても 同等のこととなります。《答えない》のであるならば この議論を 反駁しなければなりません。それが 経験合理性による議論です。  (2) 《涅槃》の定義を しっかりとしなければいけません。絶対か否かです。その次元としては 上のように 《無回答・議論さえない》の答えや定義はありません。そういう無回答という回答は 自由ではなく はっきりと 妄想になります。  ★ 涅槃自体を「設定・想定・仮置」はしてますが、有とは想定してません。何だか難しいですが。それも一つの自由な想定ですよねw  ★ 絶対としての想定はなしていません。論理的に道徳的に実証的に最大限に理性的に「設定・想定・仮置」はしてますが、新たな情報が入ればいつでも更新可能です。絶対は想定しているつもりはありません。  ☆ いいですか。無限や絶対として想定したことの内容を説明すれば 有限性や相対性を超えているからには 経験的なものごとが有る・無いを超えているのです。《有とも無とも決められない》という仮構です。これを 《神》という言葉で代理表現させれば 有神論となります。《涅槃》という言葉で代理表現させるなら 何となるでしょう?  あっ ちょっと考え足りないところがあるのに気づきました。絶対をめぐる想定の問題で 《無回答・議論さえない》という立ち場が ひょっとしてあるかも知れません。《涅槃》を 人間の考えた思考と想像の産物だと見なす立ち場です。涅槃とは あるいは 成仏とは 泡沫(うたかた)や浮き草のごときまぼろしの理想だという意味です。  おそらく この立ち場は 結局は成り立たないのですが いわば人間以前の状態にある人間にとっては そう思い込まざるを得ない状態にあるというところでしょうか。無神論にしろ有神論にしろ 信仰という原点に立つことがおそろしいのであり この恐怖を紛らわせるために 涅槃を 自分たちの都合のよいように 概念づけ変えて この概念の繭のなかに あるいは 甲羅のなかに 閉じ籠もっているのでしょう。八正道が泣きますね。はやく人間になってくださいよ。  ★ 有神も無神もない気がします。  ☆ 気がするだけで 済むなら 世の中 まあるく治まるでしょうね。maggaさん 理性さえ放棄してしまっているのではないですか。

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     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?