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ブッダは 神ですか

bananasandの回答

回答No.31

神、絶対、悟り、愛、等々抽象的な概念に対する態度には二面性があって、それを解くには、 たとえば「絶対とは何か」とう問いと、「何が絶対であるか」という視点を持つことにあると思います。 「絶対とは何か」と問うとき<絶対>の性質や原理あるいは原則を要求されているのではなく <絶対>の定義、あるいは<絶対>の概念そのものが問われます。 これに対して「何が絶対であるか」は<絶対>の性質や原理、原則をその解答として問われます。  <絶対>概念の表現者は、自己のもつ<絶対>の意味やイメージを万人に共通する完全な定義がなされる前に、 「何が絶対であるか」のみを使っておかしくありません。 定義が重要な法律関連であっても、結論が出るまでは多くの抽象的概念がそうして展開がされているじゃありませんか。  定義や概念の限界の確定など後回しなのです。紆余曲折あるにしろ、結論の時にその結論範囲内で前提概念が定義される あるいはお互いの共通部分のみの概念として確定するのです。また、そうでないと結論が確定しませんし、 結論は前提にの概念に拘束されます。当たり前です。  そして、お互いに共通の概念が存在しなければ、そもそも対立点もないし言語は同じでもお互いに別の概念を イメージしていることになり接点もないのです。理解不能、曲解、誤解、錯誤であって、この状態で仮に結論に達したなら、 その結論も勿論バラバラで、無効だったり、取り消し自由という状態なわけです。お互いに解っているなら、よく条約にみられる いわゆる玉虫色の結論ですね。 両者肯定における<絶対>の定義は単純です。森羅万象の対立概念としての変化しないものです。当然に単に物質、エネルギー が変化しないのではなく、原子、量子、電磁波、運動、思考、想念、感情、感覚あらゆるレベルで変化しないという概念であって 森羅万象の発生原因です。ここまでです。無とも言えるし神とも言え、これらはこれまでの記載で使いましたが、そこまで範囲に入れる 必要はありません。森羅万象の定義は必要ないでしょう。 最後に悪い癖でメルヘン、ある意味狂気の世界を一つ。そして<絶対>の補完でもあります。 神、絶対、悟り、そして特異点と宇宙、森羅万象・・・・ 両者肯定の帰着点から、もう一つの森羅万象を考え得るというメルヘンです。 一点に集中した無限大のエネルギーという特異点から発生したと考える森羅万象は、 実は、未だに特異点そのものを包含している、あるいは、特異点などそもそも無いという物語です。 別の言い方をすると森羅万象側を<絶対>(→変化しないもの)として無理矢理固定してしまうということです。 一般相対性理論の風穴ですが、森羅万象には、完全に厚・み・が無いという実相からの帰結です。 これほどまでに鮮烈な森羅万象は実は無いのです。 厚みをもたせ、過去と未来を紡いで質感をもっているのは森羅万象から乖離した意識のみです。 物質、光、エネルギー、空間の実相は点と変わらないのです。厚・み・がないのですから。 では、なぜ絶え間なく変化するのか・・・ 森羅万象が時間軸に沿って変化しているのではなくて、 変化など全くしていない森羅万象=特異点=絶対を人間が直接知覚していない次元に沿って 意識側がスイープしているとするのです。 空間的無限を無限に重ね、さらに人間が知覚していない次元を加え、 因果律が守られた量子論的可能性を全て包含した超多層構造の宇宙が森羅万象であって、 (必然的に意識も森羅万象側としては超多層構造として固定されているのですが)、 潜在意識がその超広大な変化のない絶対の海を泳ぐから変化を体感するということです。 (パラドクスはあります。森羅万象に固定された意識がなぜ変化を体感するのか。       しかし、これは絶対から発生した森羅万象がなぜ変化するのかの逆の相なのです。) そうであっても、時間軸は無く、結局森羅万象に厚・み・はないのです。これこそが人間知性から見て特異点であり 絶対だからです。(さらに上位の特異点は否定できませんが・・) この場合、悟りとはスイープ幅のその次元軸方向への拡大となります。 また、ブッダ悟りのさらに高次の悟りがあるという重厚さが発生してしまいますが・・・ もしそうあっても、人間の潜在意識はこれを垣間見てはいます。目指す方向に変わりはありませんけどね。 あくまでメルヘンです。失礼しました。

noname#80116
質問者

補足

 ふうむ。bananasandさん ご回答をありがとうございます。  後半の《ふうむ》は たのしく 前半のそれは 何だか よく分からないという感覚を含んだものです。  前半から行きます。おそらく そのとおりだと思うのですが なぜ いまそういう定義のことを言い出しておられるのか。それは あれですか。ブッディストの方とのやり取りが 滞っているのを心配して 助言を与えてくださったのですか。たぶん 今回(No.32)で 決着はつくと思います。わたしも いさかいの渦に巻き込まれていますが。  絶対の定義と言いますか その属性として 《不可変性》は そうですね いままで 抜けていましたね。《善・至高善》は わざと 省きましたが。  ただし 経験科学による《不可変性》の定義としては では どのように測定するのかという問題も 生じてくるでしょうね。(来ませんか?) ですから 単純に《移ろい行かないもの・朽ちることのないもの》というふうにも表現すると思います。  後半です。わたしに分かる範囲でですが 《特異点》は どうなのですか 経験科学において 規定されていて 経験現象ないし合理性による想像力の成果であるのみなのか。それとも 抽象的に絶対を表わそうとするものなのか。  wikipediaの《特異点定理》を読むと  ▲ 相対論と量子論を融合する理論は量子重力理論と呼ばれており、この理論が特異点を解消、あるいは説明するものと考えられている。量子重力理論は現在多くの理論物理学者が構築中である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9%E5%AE%9A%E7%90%86  ☆ と記しています。どうなのでしょう 経験的に移ろい行くもの 可変性を持つもの なのでしょうか。絶対は まったく この可変性を超えたところに想定するものと考えます。   とは言うものの   ★ 一点に集中した無限大のエネルギーという特異点から発生したと考える森羅万象は、 / 実は、未だに特異点そのものを包含している、あるいは、特異点などそもそも無いという物語  ☆ これは わたしには むしろ文学的に解釈してしまう材料になってしまうのですが おもしろいと思いました。  ★ 森羅万象が いまだに 包含している特異点  ☆ というのは 人間にとって この有限の世界が 閉じられておらず 《開け》ないし《窓》をもっているというその窓のことかと空想します。《いまだに 現在においても》というところが おもしろいのではないでしょうか。  あるいは   ★ 特異点から発生したと考える森羅万象は、 実は、〔そうは言っても〕特異点などそもそも無い  ☆ というとき それは たしかに あの《窓》は 経験現象ではないと やはり 言うべきだからだと考えられるからです。  ★ ・・・時間軸は無く、結局森羅万象に厚・み・はないのです。これこそが人間知性から見て特異点であり / 絶対だからです。(さらに上位の特異点は否定できませんが・・)  ☆ このように 《絶対》の説明をしつつ 但し書きとして 《(さらに上位の特異点は否定できませんが・・)》とするところに それこそ議論の特異性があるように感じ取れます。  ううん。でも どうでしょうか。特異点は やはり 経験現象に属しますね。特異点の奥のほう(?)もしくはそれ以前のことを 絶対というのかも知れません。  ★ ・・・潜在意識がその超広大な変化のない絶対の海を泳ぐから変化を体感するということです。  ☆ 潜在意識でさえ 厳密に言えば 触れ得ない(触れたかどうか いっさい 分からない)ゆえに 《絶対》という領域を設定するのだと考えるからです。そして 《不可変性》としての絶対は 可変性の世界を 包むと言わなければならないかも知れません。  つまり 神の国と地上の国とが この地上で 互いに入り組み 互いの国境さえ分からないように 交じり合いさえしているのではないか こう想定されてくるという問題です。  逆にいえば 経験的に一定の《特異点》において そうであるかも知れず またさらには 特異点などはない つまり言いかえると 到るところが 特異点であるという情況を残しているかも知れず どちらにしても そのような情況は 神の国が地上の国を包むという状態を表わし得るのかも知れないと思いました。  おとぎ話としては もっと簡単に 神の霊が われわれの身体=精神に宿るという言い方をしますが。  * 話は尽きないようですね。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?