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ブッダは 神ですか

maggaの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.23

<<今回は 次の一点を確認していただけるなら 解決すると思います。☆ 《非経験の領域》に対しては 《考える》では らちが開きません。★ そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。☆ とおっしゃるとおりです。>> 思考・妄想(考えることを)することも無意味で、それに対する態度も成り立たないと言うことですね。 <<ただ ほんの一つの思いとして その《どのような態度を採ればよいかと考えても 考えられ得ず 態度じたいが成り立たない》領域に対して ひょっとすると そこへの道がひらいているかも知れないとは 思うことができます。>> ??? 捉えることが不可能な思考・妄想・想定を受け付けないしそれに対する態度も成り立たない「」(カッコ内は無記入にしときます)への道ですか? うーん。 「」が、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦を悟る」もしくは「最終的な涅槃」というところに同じならば、なんとなく解る気もしますが…。 その道がそれを悟るための道である八正道と言うなら…。 しかし、それが無神論って言うのはちょっと… そもそもその「」自体を「神」としているところがよく解らないのです。 そして無神論も有神論もどちらも有から始まっている論理の感じがするので…なんとも。仏陀に言ったら質問が間違っていると言われそうです。 <<少なくとも その道が閉じられていない ということ そういう態度は 採れるようです。>> 「道」と言うことは至れる境地。 「開く」とはその至る道に対して歩む姿勢。 「閉じる」とはその道に否定的もしくは受け付けない姿勢。 という理解で良いのかな。 「この想定までは いいとしますと」 そうかもしれないしそうでないかもしれません。 「その向こう側を《絶対》の領域として想定するならば」 そうかもしれないしそうでないかもしれません。 「あくまで虚構として《絶対との関係》が《わたし》に成り立ちます。」 妄想で成り立つのですね。 <<どういう現実かと言いますと――つまり《態度・姿勢・心の傾き》と言うからには 経験現実でありますから それは どんな現実かと言いますと―― 《あらゆる資料を集めて あらゆる可能性を考え尽して 最良の判断をするというその経験合理性》をも超えているかも知れないという心の志向性であると言えるのではないでしょうか?>> 以前も言ったかも知れませんが、十二縁起の順観を知り(経験合理性にあたるかな)逆観(涅槃に向かう道)でそれを滅し乗り越える。といった理解でよかったらなんとなくは解るきもします。 その方法が八正道で、戒定慧の順に進むと…。 <<妄想であるかも知れません。ですが この妄想は 《経験合理性》が あくまで相対的な判断力であるということを知っています。言いかえると この能力を超えた絶対に立つ判断があるかも知れないというところまでは その《開け》の姿勢において 現実なのです。ないかも知れないというところまでは 現実です。>> うーん。妄想は知っている、とかは善く解りませんが 経験的に思考するのでなく、即座に出る「閃き」の境地と言うなら、仏教でも八正道によって順序良く進む・至るべき境地として考えている人も多いと思いますよ。 <<そうしますと ここからは 具体的な態度が 二つに分かれます。《開け》の姿勢から さらにもう一歩その絶対の領域へと踏み込むか それとも こちらの経験世界に戻って来るかです。>> ちょっとここに概念思考の相違があるようですね。 《経験合理性》によって善に至る道と「悟り」「涅槃」の道は一本道と憶測しているんです。 《経験合理性》によって順序良く善に至ることをせずに「悟り」「涅槃」は無いと憶測しているんです。 踏み込むとは、八正道を歩こと。そのようになると思います。 荒い感情・妄想を無くし、細やかな善の感情や理性を育てる(戒)集中力を身に付ける(定)ありのままを観る(慧)でその悟りの境地に至ろうと。 確かめるだけ。解らないことは保留。さらに確認確認。 生滅の「滅」を悟り涅槃(滅)に至るということで、《経験合理性》を超えた境地(境地と言うとちょっと違う感じですが)・「無・滅」とでも言いましょうか。それに「」を当てはめて妥当と感じるなら、仏教徒の立場がりかいしていただけたかなぁ…。なんて憶測してますw 最初の質問に戻りますね。     ゴータマ=ブッダ=絶対者=神 でなく、ゴータマさんが《経験合理性》によって善に至る道と、根本的な問題である生まれる性質を絶つ方法である「悟り」「涅槃」の道の一本道を発見し、悟った(独覚の阿羅漢となりそのまま滅することなく、他者に説法することで師である敬意をはらって仏陀と呼ばれるようにになった)方法をあらゆる方法で語った。のち数十年後涅槃につき全ての生まれる性質を滅した(涅槃)。 それを今私達は実践している。だけです。 もし、貴方の言う絶対者・神の概念が=阿羅漢の境地・涅槃の境地=生まれる性質を滅したもの。ならばその道であると思われる八正道を歩んでいるのでそこに向かうものとなるともいえるかもしれませんね。 涅槃が「有る」とはなんとなく誤解が生まれそうですね。 滅するが有る… 無いが有る… と。 大体伝わったのではないかと思います。 「」を神とするとなんだか有に限定されるようで混乱しますね。 「生まれる性質を滅したもの」が僕にはしっくり来ます。 貴方のそれとは違うかもしれませんが。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん ご回答をありがとうございます。  これなら もう 類型は あるいは 骨格は 共通の基礎ができたのではないですか?  ですから 今回は 短いお応えで済みそうです。(と言っていて 長くなりました)。  たぶん ただ一つのことに焦点があたり 実際 ほとんどすべての議論が そこに帰着するように思います。  絶対に対して閉じていないその《開け》の姿勢 ここに と言いますか むしろ その窓の向こう側に 何を見たと想定するかです。  何を見たか ではなく そうではなく つまり 見たかどうかの問題ではなく 何を見たと想定するか です。  じつは しかしながら 想定することじたいも 妄想です。と同時に ただし 絶対あるいは無限 これを想定すること自体は ふつうの想像行為です。相対や有限を超えたところという設定ですから。言いかえると やはり 《経験合理性》の有効性いかんという問題にもなります。それは おそらく論証無しに 有限であり 間違い得るというものです。試行錯誤の過程をまぬかれるものではないわけです。  そのとき 絶対をめぐって その中身をさらに想定してみようという虚構の世界が 生じて来ます。  すなわち とりもなおさず 絶対は 限界を持ち相対的であるところの有無(有ったり無かったりするその可変性)を超えているからには 《有り》と想定するか《無し》と想定するか 二つに一つです。早く言えば 有神論と無神論とです。後者は この想定をしておいたら もう 絶対のことは 自由に正当にも ほったらかしにするわけです。つまりは おっしゃるように 《経験合理性によるどこまでも続く試行錯誤の道》をよしとするわけです。  前者の有神論は そのようないわば経験行為としての自力のわざを おそらく 無神論の人と同じように・また同じ程度と言えるほどに 行なうのですが 信は 絶対のほうに置いていることになります。つねに そのような省察をおこなっているということになります。つまり 虚構において なぞにおいて 《窓の開け》とのかかわりにおいて 省察することになる。  これに対して 無神論者=経験主義者(経験科学信頼派)は ほんとうは 有神論者と同じはづなのです。絶対と直面したというその原点は 同じはづなのです。経験行為としての試行錯誤のあたかも ほかに 究極の道を求めているはづなのです。分からないから分からないとしているだけなのです。   有神論者は その分からないという事態を 無根拠ゆえに 絶対であると捉えており その窓を顧みることは 道につながるような観想が得られるのではないかと思っているわけです。  ★ 「」を神とするとなんだか有に限定されるようで混乱しますね。  ☆ 《有あるいは無のいづれにも限定し得ない》窓のことを信じるのですよ。  ですから 《有》と想定すると どのような観想や理論が得られるか そして 《無》と想定すると どのように観想を必要とせず 経験思想や科学が得られるか この問題になりますが なるのですが じつは ここで見ようとしていることは どちらも 互いに同等であるのではないか。こういう仮説なのです。  ★ 「生まれる性質を滅したもの」が僕にはしっくり来ます。 / 貴方のそれとは違うかもしれませんが。  ☆ このどちらかで優劣を競うのではなく――ただし 経験行為としては 別に何かの禁忌があるわけではないですから 競っても 問題ないのですが そうではなく いまは―― 絶対の窓については 有神論と無神論との両様の信仰原点のあり方が 想定されるし 実際にも おこなわれているのではないか。ここが とりあえずの焦点です。これについて もうひとこと コメントをいただければ はっきりとして皆さんのご見解が あつまると思い さいわいに存じます。  優劣を競う前に 互いに同等・対等であるという共通の認識を持ち得れば ただそれだけで そうとう 対話が 世界史的に はずむのではないですか?

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  •  《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?