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ブッダは 神ですか

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.16

>>このまとめを よろしかったら さらに 添削してくださいませ。  では、意見交換ということでもう少しお話させていただきます。 >>有神論もあれば 無神論もある。宗派というよりも 個人によって 自由に作り直して 信仰とするのもよければ 無神論のもとに経験思想とするのもよしという恰好である。ブッダが そういう可能性あるいは可塑性を持ったものとして 自説を説いたのである。  お釈迦様の布教形態である「対機説法」ということを考えますと、そういうことでしょう。ただ、「個人によって自由に作り直して」というのも、お釈迦様が亡くなってしまった以上教典的な論拠に則っている必要はありますけどね。  「浄土教」の別名は「二尊教」といわれ、お釈迦様と阿弥陀様二人の思いであると言いますから正確には一神教とも言いがたい所ももっていますけど、やっぱり浄土教なんかはキリスト教と比較されることも多く一神教的な形態が強いといえるでしょう。(人から聞いた話ですが、海外から仏教を学びにきた人が、仏教を勉強して「キリスト教と同じじゃないか」と言って国に帰ってしまったという話があります。そのとき学んだ仏教は浄土教だったそうです。表面的に見れば似てるんでしょうね。)  それに対して「禅」なんかで説かれる「空」の思想は、無神論という捉え方ができるでしょうね。「神は死んだ」言わしめたニーチェなんかが「仏教はキリスト教の何倍も理論的である」なんてなことを言ったのは、どちらかといえばこちらの思想だったんじゃないでしょうか。(ニーチェがどこまで仏教を理解していたかは疑問を挟む余地がありますけどね・・)  しかし、双方違ったように見えても鈴木大拙先生なんかは「他力を目指すには自力がいるし、自力の修行に励めば他力になってく(乱暴な言い方ですが・・)」と、そこに実は違いはないんじゃないかとおっしゃっていたりもしますからね。まぁ、鈴木大拙先生に言わせれば少なくとも双方とも仏教の理論に則っているということなんでしょう。  さて、質問の本題はこちらなのでしょう。 >>・絶対・・・・・もっとも中立的な規定(また想定)  私自身どうも仏教よりになってしまいますができる限り中立な考えにおいて「絶対」という言葉を考えてみます。絶対は相対の対義語となるわけですが、『摩訶止観』などを読みますと「絶待」「相待」と表されていたりします。相待は「相待ちて成る」というようなことなんだそうです。「絶対」というのは彼我・大小・善悪等々の二つのものが相対する概念の超越することを言うようですね。そこで、一神教の神・仏教で言う真理なんかに「絶対」という語が冠せられます。 >>・絶対者・・・・擬人法で表わしたかたち >>・神・・・・・・日本語で 超自然の力を表わした言葉で近代以降に絶対者のことを〔も〕表わすようになる。  では、擬人法ということについて少し考える所があります。確かに仏教で説かれる「大日如来」「毘盧遮那仏(奈良の大仏さん)」なんかは絶対の真理の擬人化という言い方は成立すると思うんですよ。  しかし、一神教で言う神となるとそうとも行かないような気がします。確かに、仏教に説かれる真理と同様に「絶対」という言葉を冠しているものの。その教義において擬人化とはいえないのではないでしょうか??スピノザの「神即自然」という言葉が無神論としてえらい論争に発展してしまったように、ユダヤ教やキリスト教・イスラム教等の一神教の思想の中において、神は何かの擬人法という考えはないように思います。  一神教系の神は神として絶対的に存在しているというものと、仏教で説く絶対の真理の擬人化との比較は、同じ「絶対」という言葉を冠していながらも根本的に違うんじゃないかとも思います。 >>・阿弥陀仏(=無量光・無量寿つまり 無限という意味で 絶対を表わす)・・・言いかえると 《無量光・無量寿》という属性を表わしている。 >>・全知全能・・これも 絶対者の属性を表わす言い方である。 >>・その他 属性を表わすものとしては:正義・真理・愛・慈悲・智慧・永遠・永遠の生命などなど >>ですから 属性である《全知全能》を持って来て 比較するのは 別問題だと言わねばなりませんよ。絶対であるか否か これが 基本の判断基準です。  なるほど。確かに、「絶対(絶待)」という関しては、仏教においても、一神教思想においても、真理であったり神であったりを「絶対」と表現するということに関しては私も異論はありません。  しかし、その絶対が持つ属性(特性・個性)のは双方違いが有る。ということも考慮に入れるべきだと思いますよ。 >>人間  = 絶対(絶対者=神) >>    ↓    >>ゴータマ=ブッダ >>イエス =キリスト >>この式が 成り立つ場合もあれば 成り立たない場合もある。そしてそれは 基本的に 個人の自由である。こうなるでしょうか。  なんと言えばよいか難しくて悩んでいます。基本的に仏教は「縁起の法というものをもって世界はまわっている」としますので、「神の意思が世界をまわしている」というような一神教の神の概念を否定的ですので無神論の立場となります。そういったことを根底におきながら、大乗の仏菩薩は多神教的な要素を持っており、阿弥陀仏への信仰は一神教的な要素を持っているということです。  上記してきたことを考慮して私の意見を申せば、その式が成り立つということはいえません。成り立たないということが前提の上で、神や仏陀、その進行形対等に共通点を見出していくというほうが私はしっくりきます。 >>成り立たない場合には やはり 《無神という神》を 一度は 絶対と自己との関係として 想定したところから出発しているという理解になるでしょう。    うーん難しいなぁ。仏教においてはキリスト教的な「神」の概念がないと思いますから、その神の概念がないのだから「無神」という概念と自分の関係を想定するのかどうかは、何ともいえませんね。仏教って、結果的に無神論だったってタイプだと思います。  なんだか、最後に行くにつれてごちゃごちゃしてきちゃった気がします。申し訳ないです。 合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 ですから もし無神論の経験思想家であれば 為し得るならば 《縁起の法》というものを 経済連関表のごとく あらゆる人のあらゆる社会行為の関係を すべて 一つひとつ取り出し分析して こういう力関係で 世界は動いているのが それだと 示して見せようとするはづです。そのとき 神の信徒であれば 主観の内で どこそこの社会的な動きは 神の意志がかかわっているのではないかと思ったりするのでしょう。どちらも 互いに同等の思想形態です。  ★ ゴータマ(人間)=ブッダ(絶対)  ☆ の式は 成り立たないとおっしゃっています。たぶん 《仏性》としては 成り立つという信仰を持つ人もいるのではないでしょうか。  駆け足でしたが。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん いくつか例示していただいて 話が つかみやすくなったのではないかと思っております。ご回答をありがとうございます。  つまり いちばんの極めつけは 次です。  ★ 仏教って、結果的に無神論だったってタイプだと思います。  ☆ すなわち これは 取りも直さず 時間の先後を問わず 信仰の原点に立ったということを意味すると思います。  つまり 事後的に 確認するかたちであったとしても ブッディストは 一たん どこかで 《絶対》と直面しているというわけです。直面のあと 有神論者は さらに この絶対を 絶対者としたがり つまりは もともとのそれに見合う言葉で――つまり 一般に 《神》に相当する言葉で――表わしていき これを 自己の生活態度の中に 表現するかたちをさえ持つに到る。《絶対ないし神》は虚構なれど その神との直面ないし関係は 或る種の現実となるというわけです。  つまり 無神論者ならば その直面の場に立ったあと じゃあ さようならと言って 経験世界に戻ってくるということではないでしょうか。でも 直面したという原点は たしかに 人それぞれの原点であって そのとき 人は 信仰者となっているのだと考えます。例外なくそうなのだという理論なのですが?  あとは 細かい事項として  ★ お釈迦様が亡くなってしまった以上教典的な論拠に則っている必要はありますけどね。  ☆ けっきょく 《仏性》を 普遍的なみなもとであるとして 絶対と捉えるか それとも 絶対はあくまで 無であると捉えて 自己の視野を経験世界に限定しつつ 相対的な・厚薄浅深良質悪質の違いがあるものに限られるというような人徳と見なすか この分岐点から 違いが出て来るのではないでしょうか。その意味では 教典をしも いまの分岐点のいづれかの視点によって 読み解くことになるような気がしてなりません。お釈迦さまは もはや眠っていて欲しいということのように思われます。  ★ 「浄土教」の別名は「二尊教」といわれ、お釈迦様と阿弥陀様二人の思いであると言いますから正確には一神教とも言いがたい所ももっていますけど、  ☆ これは 絶対が唯一だということに反するものではないはづです。無限を分割しても それぞれの部分が なお無限であるということではないですか。(ちなみに 三位一体も 同じことです)。  ★☆ ニーチェは パスします。『アンチ・クリスト』は めちゃめちゃです。  ★ 自力と他力  ☆ 信仰の原点では 絶対を前にして 人は 無力であり絶対他力です。この絶対他力を生活態度にも 留保して何とかして表現しようと企てる有神論者にしても 経験世界においては 自力によるしかありません。無神論者は 言うまでもないということだと考えます。  (自力の行為の中に あるいは 自力を超えた社会的な行為関係の錯綜の中に 絶対他力がはたらいたのではないかと夢想することは 主観自由ということでしょう)。  ★ 「絶待」「相待」  ☆ にかんしては わたしは 聞かれるまでもなく 明るくありません。いまのところ 《絶対・相対》で説明可能であるように思います。  ★ 絶対の帯びる属性のこと  ☆ どうなんですかねぇ。  ★ 神に酔えるスピノザのいわば汎神論 / ユダヤ教やイスラームの神について擬人法は どうなっているか / 《仏教で説く絶対の真理の擬人化》〔* これは 表現の問題に帰着させ得れば すべて 認められるというものだと思います。したがって 比較対照は まったく自由だとなると思います。つまり擬人化の仕方は まったく自由なはづです。〕 ☆ これらについては わたしの能力ともども 詳説することは いまの時点で わたしは慎みますが この質問の範囲内で ユダヤ・イスラームなどは 視野に入れなければならないかも知れません。ご見解の開陳に応じて 勉強しつつ ついてまいります。  ★ 基本的に仏教は「縁起の法というものをもって世界はまわっている」としますので、「神の意思が世界をまわしている」というような一神教の神の概念を否定的ですので無神論の立場となります。  ☆ 少し 微妙に少し――ということは 表現だけの問題であるかも知れないのですが―― 異なって見ています。キリスト者として言えば 《「縁起の法というものをもって世界はまわっている」》その現実について 《神の意志がはたらいている》と見るのは あくまで 主観自由のその主観内の出来事です。それ以上の意味はあり得ません。それが 信仰というものです。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?