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人の業績は 人間そのものですか

1000827313の回答

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回答No.13

さてさて、またもや記憶の問題に戻らせてください。 ★自分史の如何にかかわらず ですし けっきょく植物人間であっても 存在があるかぎり それは 人間であるという基礎認識を わたしたちは持つことになる。 ☆植物人間に関しては仰るとおりで、同意します。 しかし、脳死が論議されている時に「脳死を人の死とする」のは、日本では全脳死を脳死と定義しましたね。この時に「全脳死は人格の消失である。人格の消失は個体死である。」と言う論理がなされていました。個性のところでも無意識野を含む記憶がその人の個性と致しました。これを人格と考えますので、記憶装置が“全て”破壊された時にその人が自分史を持った「一つの人格を保有する人間」として存在しうるかと考え込んでしまいます。奇跡が起こって記憶装置のみが回復したとすると、新しい人になってしまうでしょう。SFの世界のように死ぬ前にその人の記憶を全て吸い上げ、新しい体に植え込む事が出来れば自分史を持った新しい体の人間になりうると思いますが・・・クローン技術でもパーツは新しく出来ても、記憶を移植するのは今のところ不可能のようですが。 少しく脱線したようです。ゴメンナサイ。 ★ わたくしも そのとおりに思いますが そのような人柄ですとか こちらが受ける印象や こちらが為す評価 これらとは一切 関係なく 存在そのものを取り立てようとしています。 ☆仰っている事を理解しているつもりですが、お言葉を返すようになっていたら申し訳ありませんと先に申し上げて起きます。 私は相手の反応・応答・表情の変化などを全て削ぎ落とすときに残るものは「個性」と言う受け止め方の問題としました。同じく自己の受ける印象、評価を一切削ぎ落とすと、相手の存在そのものと言う事は、私にとっては余り異様には聞こえませんし「そうだよね。」と言いたくなります。

noname#80116
質問者

補足

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  ようやく字面の上でも 一致点を見ましたね。もっともっと料理されるかなとも思っていましたが。  つまり わたしの見方に従うならば 《いまそこにいる人・その存在》を人間とよぶとしている限り その内面における記憶の情況を 特別には問うていないという含みのことです。つまり おっしゃるところの《個性》があるという実態を 含みうるという意味です。  ただ 強いて言うならば――強いて言うならば です(お互い お言葉を返していますね)―― 不問に付す(すなわち 内面の記憶の問題を 無記としてさえ 一たん 扱う)という形ですので これは 単純にいえば やはり《無意識》なのですから 《無個性》であるという言い方をもしています。無意識野におけるはたらきとして《有個性》というのと 意識していないという限りで 《無個性》と名づけるというのとは 表現の問題に還元されるでしょう。  後者つまりわたくしの見方をさらに継げば 《無根拠》という根拠に立って 《ただの存在としての人間》の説になります。これに対して 《意識していないし され得ないが その無意識野においてこそ 記憶行為として 人間は 動いているし生きている。この想定に立てば この記憶の場と行為とを 〈個性――個体としての存在性――〉と呼んで 現実存在としての〈わたし〉について自覚するよすがを提供することができる》となります。そういうわたしの受け留めです。    どういう違いがあるか・出てくるか これにも触れて さらにさらに 1000827313さんの抽斗の奥深くまで手を突っ込んで 中身を引き出してまいりたいと考えます。(欲深いですね わたしは)。    課題は一つではないか――つまり 意識および無意識なる経験領域とそれを超えたさらに無の領域 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思いますが―― いくつかの角度から捉えることが出来ると考えます。  その一つの視点として。人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  つまりは 意識し得ないという前提なのですが 《記憶なり無意識野なり》として想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕頂上としての位置づけをしてしまいがちです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《個性》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?    わたしとしましては 前半で触れておられた《脳死》の問題を含めて 科学的な解明に 基本的には ゆだねつつ 心の志向性としては 物言いをつけていく。こういう姿勢でいます。  (全脳死となれば 心臓が動いていても もう自己組織の回復は 絶対に出来ないのかなど 余計な憶測がはたらきます)。  (アーラヤ識説では 心の志向性を ボディサトワ゛として持つと考えられます。そこからの物言いも出てくるのではないでしょうか。むろん 科学への賛成説もあるでしょうし)。  (精神分析では どうなのでしょう? 障害や生活に際してのもろもろの支障を 最小限に食い止めるといった志向性でしょうか。分かりませんが)。  《記憶》行為が 《意志(つまり 色をつければ 愛です)》の行為と 《知解》をも含めて それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いに一体性・整合性を保つとすれば――こうだと仮りにすれば―― 科学的な解明のほかに それと並んで 心の志向性のあり方も 大いに 自己主張をしてよいのではないか。引っ込み思案のままい続けることもなくていいのではないか。こう考えます。いかがでしょうか。

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