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人の業績は 人間そのものですか

noname#63879の回答

noname#63879
noname#63879
回答No.5

>ということは2つの側面を持つのでしょうか? これは私の文章能力の至らなさにより誤解を生じさせてしまいました 本当に申し訳ありませんでした ★ 存在は制約によってのみ / 明らかにされてると思うのです。 ★ よって“人の存在そのもの”という記号を使おうとするとき(も) 私はその(記号に)制約の保護(が施されているかどうか)を考えるのです 以上のように( )の部分を書けていませんでした これに続く文は 私たちはこれから存在やナチュラルといった 記号を使おうとしているが それらの記号は道具として 扱える状態にあるかどうかについて フレ そしてその答えがそのまま質問への回答になるといった 形式を意図し書かせていただきました しかし内訳は削対になってもおかしくない程 直接的に答えることを避けていたようです 今回私の狙いには意味の元年のようなものを想起していただき 意味紀元前と元年以降というように取り扱っていただきたいとの 思いがありました 質問者の方が使われた“そのもの”という ーー制約により存在が明らかにされてはいるが 絶対的な段階であるので意味は付帯させられないものと ーー制約と制約との相対の中でようやく意味や価値が図られ付帯し いずれそれは業績と人が名づけられる状態をも生む というように 制約という否定の影同士が相対的に出会う場面以降でなければ 人間の行動に由来するあらゆる現象は 有機的ではない それは無だと思うのですとの趣旨でありました ですので“そのものの存在”とそれに“付帯してきた業績”との 違いが決定的であるといいたかったのです ただ制約があるだけで存在とされるナチュラルさと 制約と制約との出会いによる有機性の備わった現象という 差異があると考えていることをお伝えしたかったのです  これが(1)への返答になったと思います (2)は質問者のかたが続けて仰られている通りです 制約によらない記号はありません ただどのような制約(欠陥 排他) であるかというコンテクストの誤差を容易に緩衝できるほどに緩やかに 作られている事が問題を生み その様子は制約の内在していないもののように思えなくは無いですが 実生活に則した道具になるのは 合点できる範疇ですし 仰る通りXとYを気分で使いわけるという 間違いを犯すくらいならそもそも制約の強力な記号を扱わないでしょう (A)と(B)の違いは上記した通り 意味を付帯させられない状態と 有機的な状態になれた差がありますので異なる事です ですので以下取りあげていただいたものも変わる次第です そして言語表現としての規定に関してですが 先ず読んで頂き ありがとうございました  この2種類として捉えられた事は私には同現象です 制約と制約が相対のうちに それぞれがそれぞれ自らの制約による欠陥を認識し 世界/他者に対して充足への価値を見るということですので 長く読みづらい文を読んでいただきまして 本当に心苦しい限りです 失礼致しました

noname#80116
質問者

お礼

 ● ただそこにいるというだけの存在(つまり あたかも 植物人間としてでも そこにいるという人) これが 無個性の人間そのものであり これを 無根拠において ひとつの定義として提出したい。 となります。内面の思考やあるいは無意識のあり方を問わない。外面におけるもろもろの仕事のあり方を問わない。社会の中での人びとによる評価を いっさい 問わない。こういう存在のことです。  質問者が意見を言っておりますが それをめぐっても ご回答をいただけるなら さいわいです。いかがでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 kiraneraさん ご説明をありがとうございます。  ★ “そのものの存在”とそれに“付帯してきた業績”との / 違いが決定的であるといいたかったのです。  ☆ と言っていただいたので わたしの解釈が大筋でまちがっていなかったと安堵していますが 読んでいただいているみなさんにも きちんと解釈していただけるようにと なお以下のように 補足説明をお願いしたいと思いますが いかがでしょうか。  わたしの考えでは   ● 《制約》とは何か。  ● 特に 《記号・ここでは 言語記号》との違い  これを お伺いするのがよいと思います。  わたしの印象では こうです。どうも 《ひと》という言葉で ホモ・サピエンスなる生物を捉えたとき その言葉(記号)の周りで 人びとがさらに 微に入り細に入り分析し 有ること無いことをつけ加えて 研究したり噂したりする。これが 制約となる。  この制約の集合が 実際の《ひと》であり 個別に 《Mさんの 評価や噂 としての制約の集合》と《Nさんのそれ》との差異 これが 《個性》だとおっしゃっているように聞こえます。  ★★ 人・・・とは制約の集合であり / 人の個性は制約の差異によるものという結論を導くのです。(ANo.2)  つまりは 次のような整理になりますが どうでしょうか。特に新しいところは 《個性》が 他者による評価――じつは 先の質問にも この内容を指摘するご見解はありました(直前のNo.4へのお応えの中での要約に入れ損なったことをお詫びします)――にかかわるという見方です。  順序が 入り乱れますが No.2へのお応えの中で用いた記号を受け継いで 述べます。  《ホモ・サピエンスなる生物》を 《ひと》という言語記号で表わすのは そのまま    (D) 言語記号(ことば)を用いての表現による ものであるが それは   ★ ただ〔言葉による規定という〕制約があるだけで存在とされるナ    チュラルさ の問題である。したがって 実際の世界は それだけではなく その上に    (C) 制約による という場合がある。これは 社会の中で    ★ 意味や価値が図られ付帯〔したところの〕   ★ 有機的な状態 になっていることだ。  ところで    (A) 人間そのもの についても これら二つの側面がある。つまりは        (D)言葉による規定  が先に来て       (C) 制約による有機的な状態  がそのあとに来る。しかも 驚くなかれ 人間の現実の状態は これだけには まだ限られない。その上で    (B) 個性 の問題が来る。何らかの記号(しるし)によって指示され 言葉によって存在が規定され なおかつ そこに意味や価値やの分析・評価がつけ加えられ そのように《制約されつつ その制約に保護された》人間は   ★ 制約(* つまり 人間M)と制約(* 人間N)との出会いによる有    機性の備わった現象 となって現われ    ● わたし(Mさん Nさん)は それぞれ その制約の集合として存    在している。  このとき   ★★ 人の個性(B)は 〔MさんやNさんそれぞれの〕制約〔の集合〕の差異によるもの である。つまり 他者による評価で決まるのだと。  どうなんでしょうか。わたしは この個性=他者評価の説を 書き忘れたのですが たぶん 賛否のどちらとも 人は 決められないのではないでしょうか。人びとの評価が 妥当であり得るだろうし 間違っているかも知れないとしか 基本的には 言い難いのではないでしょうか。さらに ご意見を伺ってまいります。  ただ それに到る前のご見解――個性=他者評価の説以外の内容―― これは 咀嚼してまいりたいと思います。  (α) いわば自然人としてのひと     ――自然の状態における規定(制約)――  (β) ことばによって定義されたひと(人という観念)     ――概念による規定(制約)――  (γ) 端的に 社会人     ――社会的な意味や価値を付帯されるようになったその制約――  (δ) 社会人のあいだでの互いの差異が 個性である。(これは     妥当で変わらぬ評価もあれば 移ろい行く間違った評価もある     と考えられる)。     ―― 一人ひとりの人に 社会的な制約の集合がつけ加わる。      それらの個別的な差異――  しかも――しかも です―― わたしの空想は これらから わざとのように 離れます。別様の見方から 《人間そのもの》を捉えたいと思っています。

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