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人の心や感情を批判できるか

人の心や感情を批判できるでしょうか。その権利があるのでしょうか。 思うだけでは罪ではないと言う人もいる。 でも、人の差別心も放置するべきかと考えると分かりません。

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  • yama_x
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回答No.1

思うだけなら、他人には分からないので批判しようがないでしょう・・・ というのは揚げ足取りですが・・・ 思うだけ・・・というか言うだけでは、ということですよね。 「言うだけ」というのも立派な行動ですから、自分の行動には 責任を持つべきですし、公序良俗に反する発言は充分に批判の 対象になると思います。 >その権利があるのでしょうか。 言うだけでは罪ではない(少なくとも誹謗・中傷、名誉毀損などに 繋がらなければ)のと同様、批判することも罪ではありません。 逆に言うと、誰の権利を侵すものでもないですから、「批判する 権利」などということを考える必要すらないと思います。 「差別」という例を挙げられているので、それに沿って言えば、 「差別に値する」という思いと、「それは間違ってる」という 思いを議論しているだけの事です。 白熱の度合いは全く異なるかもしれませんが、「野球はやっぱり ジャイアンツだよね~」「おれ、アンチ巨人なんだけど」というのと 位置づけは何も変わりません。

noname#63110
質問者

お礼

まあ確かに分からないですね。 人を殺したいという願望があっても、その人から殺気が出てるわけじゃあるまいし。 言うだけでは罪でないから、それに対する批判も同様。気に食わないからと飛び掛ったら傷害。人の差別心にだって同じ。 新鮮に感じる意見でした。ありがとうございます。

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noname#84124
noname#84124
回答No.7

できるか、できないかというだけなら、それはできる、というよりも皆さん自動的にやってらっしゃるでしょう、「権利」があろうがなかろうが関係なく。どんなに悟り澄ましたようなごリッパなことを言ってみせる人でも。 そもそも「批判」という言葉自体にマイナスの意味しかないわけではありません。むしろ、これなくしては洗練や進歩が望めない場合も多い。学問や思想的なことなど特にそうです。 問題にすべきは、その内容です。 >変えられるなら意味がある。しかしそうでないなら、批判しても苦しむだけ 自分の思い通りにならないからという理由だけで他者を貶めるため正当性に欠けた批判をすれば、抵抗され批判され返されるのは当然でしょう。 それにとどまらず、重大な錯誤や、実行に移してはならない行為に出た場合、とにもかくにも、まずはそれを阻止せねばならないことがあります。極端な場合は殺人ですね。 これは被害を被る側が自分を守るために阻止するばかりでなく、そうすることによって同時に、間違いを犯そうとしている者に、それ以上の過ちを重ねさせないことにもなります。その者が自分の間違いに自ら気づくのを待っていたんじゃ遅過ぎることもある。感情的な人なら尚更です。 確かに当事者間では、どうしてもお互いに感情の動きが激しくなりがちで、ときに行き過ぎた結果を招くこともよくあることです。 だからこそ、周囲で見ている第三者のなかで卓見や解決策を得ている者があるのなら、その者こそが当事者、特に過ちを犯している者に対して、その持ち得ているところの有効な助言を行うべきなんです。それが一番望ましい。 それができないから黙って見ているというなら、傷つけあっている当事者たちと何らレベルは変わりません。まして自分は当事者でないのを幸いに傍観に徹するというなら、抵抗することによって、過ちを犯している相手のその行為を幾分でも阻止している者の方が、むしろ有効な手を打っているのだと言えなくもないでしょう。 過ちを犯していたのだということに、あとになって気がつくことも多い。言ってやらないと暴走し続ける者も多いのです。 口先だけなら、どんなリッパなことも言えます。この世の何事も、すべては底で繋がっているのだという真理なるものを理解しているというのが本当ならば、第三者の立場にあることに安堵して、自分だけは、あの者どものような愚かな行為はせぬぞ、と聖人ぶった演説をするほうが、よっぽど滑稽な醜い姿です。 「差別心」についても「批判」と同様、一概に言うのは難しいです。 たとえば女性に男性並みの腕力や瞬発力を要求したってしょうがないです。老人に若者並みに早く走れと言ったってしょうがない。 問題になるのは、その「差別心」が差別として実際に実行されたときに、その対象者がどういう影響を受けるのかが問われるべきなんです。そして、実際に実行されたときに対象者が何らマイナスの影響を受けないばかりかプラスの影響すらあるならば、その「差別心」自体は現実に問題視されるに当たらないはずです。 心身にハンディキャップを持っている人などに対して法的な優遇措置をとることも「差別」と言えなくはないですよね。

noname#63110
質問者

お礼

綺麗な心、汚い心、こういう話はあるでしょうね。 私は批判するのは心や感情(例えば誠意の無い心)ではなく、思想や行動(例えば誠意の無いと感じる態度)であるべきではと思います。 殺人の例や、差別が実行されたとき対象者がどういう影響を受けるのかが問われるべきというところを拝見すると、 noema_1970さんは実際に害が起きるかを重視していると思うのですが。 思ったからといってそれは危険なのでしょうか。 しかし、心や感情があっての行動でもあります。 「○×をやってみたい…」という人に「まさかそれを実行しないだろうか…?」という目が向けられるのもやはり仕方ないのかもしれません。 ありがとうございます。

  • magga
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回答No.6

その人が自他共に苦しみを多く生む感情の渦から抜け出せるだけのアイディアがあるならばなされるべきことになるでしょうね。 ただの人格否定・自分の意見と違うからなどの理由で感情的にものを語るならその人は自分も他人も傷付けることになるでしょう。 理性的に観た事実を語るなら問題も少なそうです。 煩悩は多くの苦しみを生みますからね。 たいしたアイディアも無いのにいたずらに語ると逆に相手に多くの感情をうみ共に苦しくことになりますから注意深くなすべきことですね。 差別心はなくすべきものでしょうね。 慈悲の瞑想で徐々に弱めています。 暗い煩悩の感情より慈悲喜捨へ導けるだけの技量が無いなら、他者を変えよう・導こうとせずに自己を変えることに集中するのが先決ですね。 確実に得た結果を元に語り、技量に合わせて語れば自分のためにも他人のためにもなりますね。

noname#63110
質問者

お礼

変えられるなら意味がある。しかしそうでないなら、批判しても苦しむだけ。ですか。 極端な話、ただの異端狩りになってしまってはまずいですね。 そういう心を持った事を一番気にしているのは本人自身かもしれない。 ありがとうございます。

回答No.5

権利ですか。心や感情の批判を許す義務もあるということになりますね。差別心を批判すべきか、差別心は非難されなければならないか・・・・ 実際の差別、事実上の差別、差別行動などは当然に非難すべきことになるでしょう。実際の行動には歯止めがなければなりません。でも、その差別の原因は、差別心にあるのかというとそれが根本ではなく、差別心が起こった原因があるわけで、むしろその根っこを排除した方がいいでしょうね。 差別は悪いことだから、やめよう。 差別心は残ったまま。 差別心は良くないから非難しよう・・・・ 差別心なんて起こしたくて起こしているわけではなくて、被差別者の情報に触れて自然発生してしまうもの。非難しても簡単には直らない。 差別心が起こるのは何故か・・・・ですね。 彼奴らは、いつもうるさいから傍に近づかれるのはいやだ。 あの人達は、背が低いし馬鹿だから仲間に入れるのはやめよう。 あなた達は、この境界を境に勝手に入ってこないでね。 広い意味では国境も差別ですかね。 思想、習慣、言語、経済、政治があまりに異なるから、お互いに距離を置いた方が友好関係が保てる面があるのでしょう。 激しい差別心を起こさないための差別かもしれませんね。 ともかく、差別心とか人の心や感情を直接批判してもどうなるものでも ないでしょう。これらを非難するのは簡単なんです。でも原因が明確でないと解決はしないのです。 >人の差別心も放置するべきかと考えると分かりません。 差別心ではなくて、差別心が起こってしまう原因の放置はすべきではないということではないでしょうか。

noname#63110
質問者

お礼

私の考えに近いです。感情を批判しても解決しないのではないか…。 ありがとうございます。

回答No.4

 対外的に関係する範囲では当然にあると存じます。  表明や行動がなくても、そういう内心の思いが不愉快である場合は、その人のお勝手として、無視していていいとか、介入しないということにはならないのでしょう。  それはきちんと対応するのが権利であり、義務ではないですか。  その仕方や場面、角度は時によりさまざまであり、じっと見守るだけとか、黙っていざるを得ないということがあっても。  感情はや心って独立に生じてもこないし、独立や孤立して存続しているものでもないし、表されないもので、ある種のポーカーフェースともできない、限界があります。  それが人間という社会的(関係)存在ではないのですか。

noname#63110
質問者

お礼

不快であれば対応する義務。ですか。差別なら不快に感じない人はいない。 であれば思うことも悪になることがある。 走れメロスに出てきた親友は、主人公をチラと疑ったことを謝った。 ありがとうございます。

回答No.3

>人の心や感情を批判できるか ぜんぜんOKですね。問題ありません。 ただ面と向かって言う勇気があるかどうかの問題です。 話し合いをしていた2人の一方が 「あなた、まったく誠意がないじゃないですか? あなたはいつもこうだ!」 といったからといって、何が問題ですか? ま、それが許されないのは北朝鮮の国民がキムジョンイルを 批判することくらいでしょ。

noname#63110
質問者

お礼

ああ。そう言われればそうですよね。 確かに、あなたの誠意が…お前なめてないか…って言う事ってありますよね。 実は先日、殺人犯に共感したら悪なのか、死者に追悼の精神を持たないことは悪かという話題をあるサイトで見ました。 たまたま一般的な心を持った人が、たまたま違う心を持った人に、何故そういうこと言えるのかなと思ったんですよ。 ありがとうございます。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.2

日本の近代化モデルはドイツの真似なので、ドイツの影響が法体系にも見られます。 この際、忘れてはならないのが、「法と道徳の分離」という基本スタンスです。 法とは外面規範で、強制力のあるもの。 道徳とは内面規範で、強制力のないもの。 批判は自由です。憲法に定められた表現の自由に含まれます。しかし、アドバイスすることは出来ても、強制することは出来ません。

noname#63110
質問者

お礼

なるほど、法と道徳の分離という考えですね。 ありがとうございます。

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