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精神は何ゆえ自我を作り出したのか

精神が思考を使い自我を作りました。 自我は精神の写し身です。 自我と精神は一体となって世界とのかかわりを持っています。 自我と精神は同じような振る舞いをしますが、本来はまったく異質なものです。 普段は精神は自我の作り手が自分であることに気づいていませんが、 あるとき精神は自我が自分とは違うもの、作られたものであることに気づきました。 それによってそれは2つのものとして認識されるようになりました。 ここまで分かったところで疑問がでました。 精神は何ゆえに自我を作り出したのでしょうか。

みんなの回答

回答No.8

 ANo.6から  私もビギナーですが、質問者様のご質問も、お書き込みも私の勉強していることにまったく異なりません。  意識が創造を開始して進めていく。それは最下層まで届く。それで自己完結する。  そして一定の技法を一度行って、解脱をした。これが究極最終の意識のされたことです。  そして私たちが存在している、ドラマの復習みたいに。私たちは意識の中の出来事である。ということで、私たちの本体自体が、その最高意識自体、解脱をしている意識だということで、それを忘我して、夢中になりすぎている状態が、悲劇・喜劇・愚劇だということだそうです。  仏教で、本覚(ほんがく)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9Aというのだそうです。私は仏教は一部の禅宗しか存じません。  多くの方はこの本覚をたいへん誤解しておりますが、実をいえば、ここにいる私たちは単なる自分のツール(用具)でしかなく、本体は最高意識の中にちゃんといる。それを忘れてはいけませんよ。というのだそうです。私たちの勉強とまったく同じなのですね。  それを自覚し、そのあり方で私たちというツールを生きていくことができるようになるのが、実はこの生涯だというのですね。  それは単に知識、読んで、そうかと分かっても、悲劇喜劇愚劇に翻弄されるていることには何の変更もないわけですね。本覚の正しい理解をしないといけませんと、いうのが仏教でしょう。原罪とはないのですね。  ですから、質問者さんが、解脱だ、ということはまことに正しい。  ことはそれから開始する、すばらしい到達ですね。  私も本当にそういう思いに到達していきたいと存じます。

shift-2007
質問者

お礼

もう少し、と思うと、遠くに行ってしまう。 その繰り返しが長い間続いていました。 そろそろ次のステージに移るとしましょう。 ご回答ありがとうございました。

noname#63054
noname#63054
回答No.7

精神が思考をつかって自我をつくりだしたのでなく それは固体の成長過程の説明であって、知覚が感情を 生み出し意思を生ぜしめたときにその総体を自我とよぶ わけです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.6

 ANo.5のお書きこみから  回答をしながら、こんなことを今更いうのは赦されないのですが、そのようなご質問の言葉は私にはとても恐れ多いのです。でも自分の回答できる範囲とことばで、書かなければならないと存じます。  【 例えるなら風が吹くと水面に波紋が出来ますが、自我とはその波紋のようなものということでしょうか。】○⇒このような描きで説明されている文章も度々お目にかかります。出てきた意識の知覚のレベルの表現の問題だと存じますし、水面が何だとするかのことにもよりますね。  人の認識は所詮、分別と統合、整理ですよね。そうやって意識して、現象させているのだと存じます。個性ということばがよく使われますが、これは差異とか違いを見て、意識するための仕分け箱の色分けですが、本当は単なる、個体としたものの位置の違いでしかない。そこにおける生命性というかけがえのないものの上皮だと存じます。 一なる実存たる一なる生命性的現象(創造)の状況の大洋の水面を、仰せの水面だとすれば、そこで一定の創造意識の原理が働き、波が起こり、それに注視する意識が起ちあがってまいります。その波と波の意識は個たる生命だと存じます。これはご質問者の精神に当てはめることができないでしょうか。  そして自我はその波と波の意識の中にもぐり込み、大洋を忘却し、没却し、大洋自体とは別個のものとして、自分を錯覚してしまった意識とその経験内容ではないでしょうか。そして自分がなんでもやっているのだ、自分が根拠であり、終局だと、思い込んでいる意識だと存じます。  【だとすると、いわゆる悟り、解脱、自我の終焉とはどのようなアプローチによるものだと思われますか。】○⇒自我が自ら、攻撃に自分を曝して、自ら殺されることを諒とすることではないでしょうか。マハ・バーラタのビッシューマの最後だと存じます。ビッシューマの死を経験することにより、大洋から出てきている波は、自分が大洋の波だと認識できるのだと存じます。そして創造の唯一意識の中の個的意識としての自分を確認できるのだと存じます。  【私は精神にとって自我は利用価値のあるものであり、いってみればギブアンドテイクの関係なのではないかと感じているのです。】○⇒そうやっていく経過もあり、だんだんそれではすまない場面もでてくるのだと存じます。マハ・バーラタにおけるパンダヴァ五兄弟も、自我や欲望や物質依拠の思想たちと何事もなく育ってきて、だんだん食い違ってくるところが出てきたのです。ドリタラシュトラやドルヨダナがそういうことを象徴しているのです。ですから流れの通り、なんでもそのままであっていいなら、精神も自我もお互いそれでいいと存じます。  【それゆえ、精神が自我から自立し、利用するのをやめること、それが自我の終焉を意味するのではと思うこの頃であります。】○⇒そういうことですね。それが戦争の発端となると存じます。同じ個体、同じ世界の分け合いですめば。それよりも両者は、特に自我は分け合いを許容しない性格性ではないですか。中庸は通らない、節度がない。何にもないときは何も起こりはしませんが、そうはいかないのです。と私は存じます。  天に就くことと地のためにあることとは、どうしても天地の差があります。両立ができないのです。  白鳥は天の青にも海の青にもそまず、と歌人がめいげんしておりますし、カエザルのものはカエザルに返せとかいうのも、いろいろ角度で何を表現しているかは多様ではありますが、詩人や宗教的聖典のことばは、多面の意味のある象徴として受け取ることができます。  ヒンドゥの神話的叙事詩を勝手にもちだしましたがwikipedia.org/wikiで検索すると、必要なところは出てまいりますから、どうかお許しください。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私はいわゆるその種の哲学や、宗教的な勉強をしたことが無いのでkrya1998さんにお聞きしたのですが、 私が質問に書いたことは大筋ではあっているということでいいのでしょうか。 まぁ私は私の感じるところに忠実なので、違ったとしてもどうすることも出来ないのですが。 私たちの求めているものは多かれ少なかれ同じでしょうから ここで高らかに宣言いたしましょう。 我々は解脱する!! あーすっきりした。 恐れ多いことなどありませんでしょう。

回答No.5

 shift-2007さんのご質問でしたか、万感を以って。  精神と自我という対比的ご使用で、両者が何をさしているかを敢えてここで説明しないで、回答に入らせていただきます。    自我を作り出した精神は、意識だけ、光だけで影、陰の伴わないものですので、その中には客体的存在、対象がない。  精神に幾重かの着物、フィルム、スクリーンを通させて、登場の客体でありながら、主格意識と自認する自我が作り出された。  自我は自分が経験・知覚・そして認識の主格だと振る舞い、思いし、行為しているかの錯覚をしている。そういう結果的存在意識が自我でしょう。  経験の一内容でしかないのに、主格のようなつもりでいる。  そういう個的存在意識の陰・影であって、彼が作り出されてきた目的はないのではないですか。そう見えているというだけではないのではないですか。実は自我は単なる見え方であり、その内容でしかない。  実体的にそこに目的を考えることは無理ではないかと存じますが。  彼に精神と呼称している意識が、帰さんとしている見かけの機能しかない。本当は実体たる精神自身、光自体の、意識自体の機能なのに。  その偽りの仮面を引き剥がせば、後には何もない。光を以って形成した陰影の仮面を引き剥がすと、simulacra効果みたいに、光と影、それを何かに紡いでいた、意識しかないのですね。  私はそのように思っております。  このことを実感するには、やはり一定の分野の勉強と精進により可能かと存じますが。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 例えるなら風が吹くと水面に波紋が出来ますが、自我とはその波紋のようなものということでしょうか。 だとすると、いわゆる悟り、解脱、自我の終焉とはどのようなアプローチによるものだと思われますか。 私は精神にとって自我は利用価値のあるものであり、いってみればギブアンドテイクの関係なのではないかと感じているのです。 それゆえ、精神が自我から自立し、利用するのをやめること、それが自我の終焉を意味するのではと思うこの頃であります。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

本能による快感追求、それを抑制(抑圧)しようとする超自我も同時に想定されていると思いますが、よく言われているのは、自我はこれら両者の言い分を聞いて、調整し、現実的な言動としての最終決断を下す役割を持つとされます。 本能だけであれば調整の必要がなかったわけで、なぜ自我が存在するようになったのか、という問いは、なぜ人間には超自我(の土壌)が備わっているのか、ということになるように思われます。 超自我の当初の目的は、抑圧することで、善性や高邁な理想、を育もうとするベクトルでしょう。 あるいは、「非動物的な精神」を築こうとする目的。 しかし、非動物的精神にせよ善性にせよ、それらを育むことがなぜ必要なのか、ということになると難しいですね。 人間とは何かという普遍的疑問にもつながっていくように思われます。 保留して先に進めますが、 善性というのは、他者の自我を認めよう(理解しよう)とする精神のことだと考えてみます。 すると、色々あるでしょうが、結局、この目的として考えられるのは共存であり、共生のように思えてきます。 善性を育むようにプログラムされているのは、共存し、共生することが何かの理由によって必要とされている、ということなのかもしれません。 あるいは、単に、本能面では弱い生き物であるために、それを補おうとする生来的な知恵なのかもしれない。 いずれにせよ、このようにして善性というものを育むべく人間はプログラムされており、そのための精神作用が、本能を抑圧するという役目を負った超自我である、と考えることは可能でしょう。 しかし、抑圧されっぱなしで本能が全く機能しなくなっては生存できなくなりますから、調整役として自我という精神作用が出現し、それぞれの場面において最も適切と思われる選択をし、その結果を自己として対外的に表明する役割を担っている。 ということなのか、という気はしてきます。 言うまでもありませんが、自我にせよ超自我にせよ、また本能にせよ、ある個人の内部状況が種種の条件下で紡ぎ出す、「精神の現われ方」であるにすぎません。  

shift-2007
質問者

お礼

私が感じるところの精神は、無、虚空、静謐・・・ そんな感じでしたので、何ゆえ自我などという面倒なものをと思い質問してみました。 ご回答ありがとうございました。

回答No.3

  人間の赤ん坊は自分では何もできず親の保護なしでは生きていけません。 食べ物とそうでない物の区別もできずなんでも口に入れようとします。  なぜそうなるんでしょうか。  それは人間には本能がないからです。 本能がないから子供を育てられない親がいたり、 楽しみのために生き物を殺したりできるんです。 他の動物ではあり得ないことです。  本能がなく、生まれたときはほとんど白紙状態なのでなんでも書き込めます。 犬は人が育てても犬になるけど人間は犬に育てられると犬になるでしょう。     太古の昔、人類の祖先はなぜか本能をなくしてしまい滅亡の危機に直面しました。 そこで苦し紛れに本能の代替品として自我を作ったのです。 人間とは本能が壊れた動物であり、 その代替品としての自我は幻想である。  http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/19685593

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.2

精神世界又は無意識は現実的には出来ていないからです。 現実との接点が自我です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.1

精神が自分の考えや気持ちを表現するために自我を作り出したのではないか・・・ もう少し時間をかけて考えてみたいと思います( 一一)

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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     (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。    ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~  § 広義の無意識と潜在意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。  意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。  なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。  これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。  すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。  すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。  (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか?   二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。  無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。  (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。  欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。  (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。  自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。  (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?  《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。  《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 自我同一性拡散状態とは?

    こんばんわ。 私は20代前半から、心療内科に通っています。 現在、35歳です。 夏くらいに、主治医の先生に、病名を尋ねました。 「パーソナリティ障害ではないでしょうか?」と聞きましたら、「情緒不安定パーソナリティ障害が当てはまるかな・・・」と言う返答でした。 そして、先週の月曜日の診察で、先生にもう一度聞いたら「自我同一性拡散状態」が当てはまると・・・。 ネットで色んな情報を探し回りましたが、あまり意味が分からないので質問させて下さい。 この病名?病気?は一体、どんな状態なのでしょうか? 治る可能性はあるのでしょうか? この2年近くで、劇的な環境の変化があり・・・ 精神的にも肉体的にも疲れてしまいました。 やっぱり自分は何処に向かって、何処を目指して生きて行こうとしているのかが分かりません。 情緒不安定パーソナリティの症状をネットで調べても、症状は殆ど当てはまります。 普通に生きたい。 不定愁訴なんかいらないし、心の健康と体の健康が欲しいです。 今、自分がどのような状況なのかが不安です。 人を罵倒したり、突然キレたり。 ハイテンションになったり、自虐的な気持ちになったり・・・ こんな娘に産まれてしまったのが、父親に対して申し訳ない気持ちです。 私と深く関わった、大切に思う人に対しても、申し訳のない気持ちです。 自我同一性拡散状態とは、精神的な病気なのでしょうか? 治療可能なのでしょうか? どうしたら、この病気?から抜け出せるのでしょうか? 宜しくお願いします。