• 締切済み

誰か教えて下さい!!お願いします!

真善美とはどういうものですか?気になって しかたがないんです。どなたか教えていただけないでしょうか?

みんなの回答

  • whoami
  • ベストアンサー率33% (1/3)
回答No.6

あなたが哲学的探求をはじめるための入口の一つです。 (それは神とは何かでもよいし、宇宙とは何かでも、一とは何かでも、その他なんでも構いません。) 人生をかけてこの問いを問いつづけてゆけば、素晴らしい果実が収穫できるのではと思います。 あなたが今分かっていると思っている様々なことがらは、結局あなたの内から訪れました。色々な人に質問をぶつけてみることはよいこです。つねに問いつづける姿勢が大切だと思います。答えはあなた自身の中にあるでしょう。私はそう思います。

  • pikitto
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.5

「真善美」とはあなたがこの文字を見たときに感じた・・・そう、それです。(笑)

  • peter8
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.4

もっとわかりやすく言うと、哲学で真善美に最高の 価値をおいているけど、我々、普通に生活している人に とっても、真実を探究するひとを否定することはできないし、我々も真実はあるとしんじて生きている。とりあえずは、人間の本姓は善であれ悪であれ、いずれもであろうとも我々は、倫理や道徳を作らないと生きていけない。 そして、シェリーが「美しいものは永遠の喜びなり」というように、美なるものを否定できない。 まぁ、どんなひとでも一生かんがえていかなあかんこと じゃないですか?

  • hng
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.3

前のお二方とは違った観点からひとつ。ただ、ごくごくかいつまんで。 人間には欲望と目的が与えられており、心と身体からなっていますが、身体に起因する欲望が衣・食・住とするならば、心に起因する欲望が真・善・美と言えるでしょう。これらは各々知・意・情に対応する価値です。(価値とは「欲望を充たしてくれるもの」です) 同一の対象を認識(判断)するとき、心の三機能(知・意・情)に従って各々違ったように表現されるのです。 例えば、mayu00さんが気に入った車があったとして、それは使用目的にかなって真であり、性能も善く、デザインも美しい、ということです。 心の欲望を充たしてくれる価値として、真・善・美があるということです。 あまりに簡単な説明で誤解もあろうことかと・・・。

noname#254
noname#254
回答No.2

 さしあたり「古代ギリシアの三元徳」のことではないでしょうか。意味はzosoさんの言われるとおりです。もしこちらなら、高等学校の「倫理」の教科書あたりをお読みになれば基本的なことはわかると思います(どっかの本屋で立ち読みしちゃいましょう)。  他に「真善美」ということで思い浮かぶのは、ヴィルヘルム・ヴィンデルバントくらいかな…。新カント学派の人で、カント哲学を「価値判断の哲学」「価値批判の哲学」として発展・継承しました。で、その目標となる価値というのが「論理的価値としての真」「倫理的価値としての善」「審美的価値としての美」です。  もしこちらなら、岩波文庫で『哲学概論』(2巻)があります。その他の主著も一通り翻訳が出てますが、『西洋近世哲学史』(創元社)は5巻本、『一般哲学史』(第一書房)は4巻本と、かなりヘヴィーです。図書館でお探しになるといいと思います。

  • zoso
  • ベストアンサー率33% (3/9)
回答No.1

真善美がどういうものかとのことですが、これは説明したらキリがないでしょうから、最も手短に。 真善美は、人間の普遍妥当な価値を言い表しているものとされています。 真は認識上の価値、善は倫理上の価値、美は審美上の価値です。 その内容は、学派や時代などによって様々ですから、何ともいえません。 以上、紋切り型の説明でした(^o^)

関連するQ&A

  • 真善美の歴史

    真善美の歴史 真善美について、何でも教えてください。 真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。 地球のどの地域の価値体系でしょうか。 アジアには、真善美を価値体系とする伝統はあるのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 働けるとは、真善美を求められる事には、ならないでし

    働けるとは、真善美を求められる事には、ならないでしょうか?

  • 真善美に人間の暮らしがないでしょうか?

    真善美に人間の暮らしがないでしょうか?

  • 正誤や原理にこだわると真善美がわからなくなる?

    正誤や原理にもとづくと、必ず逆説を考える人がでてきたり、アンチ正ででたらめや偽の正など生み出す人もいます。部分的な正もあります。 理想主義的に性善の人ばかりではないので、そうなのかと思ってます。 情報や正論、主張などの真偽などどうすれば、偽を排除して真善美の生活ができるんでしょう? 一つは頭を使うかそれを机上の理論と頭を否定してみるかではなく、心かとは思ってますけど。 自分の周りに偽が多くて省きたいとすると真善美ってどう把握するんでしょう? 心の動きを大事にしたり、気持ちを描いてみるとかでしょうか? 美を感じるのも共感でしょうから。

  • 自分の本当に望む将来のために みんなに嘘をつきます 今までの人生の座右の銘は真善美 正しく生きてきたつもりです これを最後の嘘にします いろいろな宗教がありますが 神様は許してくれますか?

  • 善はたくさん体系がある(宗教多元って?)

    もし、善が一つであったり、善の価値の体系が一つだったら世界に一つしか宗教しかないですけど。実際はたくさん宗教があります。 真善美は体系はいろいろあるということでしょうか? 殺人や窃盗はしてはいけないような共通的なことはあるにせよ、科学のように一つの答えにたどり着かないのでしょうか?

  • 音楽って何のためにあるの?

     っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 美とは何か? どこから来るのか?

     1. あらためてすべての知見をエポケーして考えてみたいと思います。質問者の見解を知って回答したいという向きには 次の質問の趣旨説明を参照願います。   Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?   http://okwave.jp/qa/q8423513.html  2. みなさんの見方捉え方を 特に第一次の感覚として 知りたいと考えました。必ずしもアンケートではなく その感覚として表わされた内容から問い求めをすすめて行きたいという心つもりでのことです。  3. たとえば うつくしい・みにくいと よい・わるいとは どう違うのか。同じ要素もあるのか?  4. あるいは 真実かそうでないかと 美しいとそうでないととは どう同じでどう違っているか?  5. よい(良い・好い・善い・佳い)という感覚および認識は どこから来るのか?  6. まこと(真実)とそうではないこととは どこから来てわれわれは知覚し理解するのか?  7. うつくしいという感性とそれとしての知性は どこから来るとお考えですか?

  • 「し方」の「し」の語源

    「し方」の「し」はどこから来ているのでしょうか。 「する」の活用形のような気がしますが、漢字にすると「仕方」であり、「する」とは関係ないような気もします。