- ベストアンサー
新約聖書は成立せずとの説について
その基本的な内容をお教えください。 おおきな主題ですので 基本的な事項を掲げて その参照資料を挙げていただくかたちでもよろしいでしょうし。 あるいは 一つの項目について やはり基本的な内容はこうだと示してくださるのも ありがたいです。 なおわたくしは 仮りにイエスが実在の人物でなかったとしても あるいはまた 聖書がいわゆる偽書であったとしても そこに書かれたことがらは 信仰の現実的にして社会構造的なあり方を示していると捉えています。 これは しかも 信仰一般のことです。あるいはつまり 人間一般のふつうの歴史社会的な存在のあり方のことです。 さらにつまりはまた 信仰とは もしその内容が実現した場合には 消えてなくなるものです。その時には見えていなかったものが 見えたというのであれば もはや信じる必要はなくなっています。 なお このような見解に立って ご回答の内容について さらに説明の補足をお願いすることがあると思います。また 筋の違ったご回答については そのまま ご遠慮願うと思います。その点も お断わりしつつ。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (3)
- frisk_blue_love
- ベストアンサー率48% (141/293)
- katyan1234
- ベストアンサー率18% (347/1849)
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
関連するQ&A
- 新約聖書が継承するのはパウロの人間への憎悪だ
滅亡が今実現する。 それを届ける私は、時を渡り真実を届ける渡り鳥。 栄光の男子プリキュア。 精霊と一体の実在する妖精。 キュアブルームだ。 さて、カテゴリー上 直下の私の質問から派生して、哲学上別の要素を確認したい。 イエスが示した救世主の姿は人類が滅亡することを予言している。 その予言書と神を語る神話の体裁が、いまだに有効なキリスト教の教義だという考えに、質問だから批判、批評中心に回答を募集しよう。 それはバトルであり、私の戦法はアニキなツンデレだ。 さあ本分だ。 史実において、実在したイエスは、神話性を含んでいるからこそ、神は実在しないと思い込んでいる不道徳なものは、イエスは実在しなかったのではないかとの疑念がやむことはない。 イエスは伝承が確かに絶対化され受け継がれた人物なので確かに過去に実在するだろう。 それすら疑うかい? まあともかく、彼は文明の発祥した創世記に、文明という経済共同体を形成する人間の社会基盤に挑戦する自己の神学を表明した西洋の仏陀だ。 イエスは自らがいかに神に接しているかを語ったにすぎない。 彼は神を通じて、自分自身の心情を社会に表したのだ。 信教の自由の先人だ。 しかし神に服従する形で社会形成が成立していた過去に(現代も変わらない)、彼が語る神は、聞いた者に共通の神である事を強要しない限り受け入れようがなかった。 この社会性を帯びた神学的共感は彼を王の頂にまで案内した。 イエスはユダヤの王の正統である。 彼を信じる者は彼をユダヤの王と認めただろう。 別の話だが東洋で釈迦が王族だと伝承されるのも同じ理屈だ。 神は社会で共通でなければ、宗教は意義がないからだ。 そしてイエスに対して、ユダヤ社会から社会不安に対する動揺が起こった。 生きる事が、初元の人間にとって神と一体であることであり、人と人を結びお互いが人間を自覚することは、神の英知を道標としていて、神と一体であった神の実在した時代だからだ。 イエスが神の子を名乗る事は、自らが人間の頂点として王となる事であった。 当時の立法に基づきイエスと云う愚か者は処刑される。 この古代の法の精神は今でも理解可能だ。 正当に処刑されたのだ。 史実に忠実だとこれは、かつてそのような行為が愚か者とされたという教訓でしかない。 しかしパウロはイエスがユダヤの王と認めきっていたからこそ、王の正統と共に神の正統を殺害した、人間理性とその法律に人の神への裏切りを見出した。 だからこそ、人間は許されない罪びとと転落した。 最後の審判と云う滅亡が聖書の語る神学の全てであり、それはパウロの憎悪だ。 ニーチェの直感は批判してごまかすべきではない。 我々が神を殺した。 これはキリスト教の神学研究を忠実に説明している。 パウロと同じ見解なのだ。 さてこの西洋の神学は、核戦争とか、マヤ文明の暦の限界が来てマヤの神が死ぬとかで、いつもお祭り騒ぎをしている。 聖書の滅亡と云う予言でこそ彼らの信仰は正当が絶対化されるのだ。 その実現を待ちわびている。 イエスのような愚か者はどこにでもいるだろう。 現代では相手にされないが、昔は処刑だったというだけだ。 パウロの愚か者への傾倒が、人類滅亡と云う呪いを世界に蔓延させた。 ここまでが今回学説として表明することです。 このような見解が可能なのは、私もまた仏陀の一人だからですがそれは今回質問対象ではありません。 仏陀は認められてなる者ではなく、自らが自覚してこそですから。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性
聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性 さて、日本で文字である漢字が初めて導入したのは、仏典の輸入が動機であった。 仏教は当初貴族階級の教養であり、文字の導入でとりかかったのは、自国の神話と歴史を文字を活用して口伝伝承から明白な記録に改変することだった。 たいてい諸外国でも文字を学ぶ教科書は聖典を活用することが多い、聖書もその役目であり、明文化した過去記録が盤石であること自体が口伝文化では驚きであったため、聖書の解釈は自由、しかし聖書そのものは改変するな、こうしたしきたりができて、西洋の絶対の概念はそこから派生したのだろう。 さて、質問その1。 文字を導入する教科書に神や信仰について書かれたことが好まれる傾向を私は指摘しましたが、その類例や例外に関して何か証言をお願いします。 さて、世界を見渡すギリシャ神話とかは、すでに信仰の主流から外れた枯れた神話として引用されるだけだ。 西洋では、聖書というのは生きた神話といえる。 イエスを主人公にした神話であるために、あろうことか、イエス実在の確信すら疑問を持つほどに、神話性に関して各個人で交錯する思惑があります。 質問その2、 イエス実在への疑念について、何か参考として記述できることがあったらご回答として参加してください。 文字で記載された、神話と歴史の交錯する西洋の原点である聖書に関しては、イエスは頑然と絶対とまで言われて守られたからには、語られる証言は間違いなくイエスは実在したのでしょう。 歴史検証で、信仰と切り離してイエスのいきさつを考察すると、彼はほろんだ王国の信仰心の伝道師であり、文明勃興期の王と神の一元の時代そのままの風習が一般的な風土で、彼の語る聖職者としての真摯な言葉は、イエス自らが、ほろんだ王国の王であると名乗るのにも等しかったのだろう。そしてローマはイエスを反逆罪で処刑した。これは現代の法の精神でも不条理ではない。 当時はこの事実は宗教裁判ではなかった。 政治的な単純な反逆罪だった。 しかし、後世でローマ皇帝自体がイエス処刑に関して宗教裁判的に問いただされることになる。 ローマは、政治的にイエス処刑をユダヤ人に責任転嫁した。それは聖書にも記載されたことだ。 イエスは生きた人として、ユダヤの信仰のための聖職者だっただろう。 しかしよりによって、ユダヤをさらに抑圧するための「呪いの材料」に使われることになる。 王が主権を収める時代、国家主権全体の根拠は、「王と神一元に時代」の文明の共通する原点から根拠は神の存在や信仰の原点にさかのぼる。 ユダヤではなくて、ローマを原点にする限りキリスト教圏の古典的主権の根拠とは「裏切り者や卑怯者が作った国家群」ということになる。 我らは罪深いというのは、人類共通ではなくてキリスト教徒の精神的土壌として反映されたどうでもいい事なのだろう。 質問主題は、歴史的にイエスを考察した、最後の論考への意見募集です。 これらは基本的に、神話時代と歴史時代を横断して、王と神の一元の文明の根拠がいまだに揺るがない、日本という地上に存在する唯一の真の王国では、イエスの悲惨な末路は「ほろんだ王国の神話」として極めて重い精神的疫病であることから問題意識を持ちました。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 新約聖書の解釈
こんにちは。 質問というか呟きなのですが、暇なときに回答をお願いします。 新約聖書を最近読破し、ただただ圧倒されるばかりでした 私自身はキリスト教徒ではなく、文学として読んだに過ぎません。 そしたらもう、、今までのキリスト教のイメージが覆されました。 仏教が内面(精神)の宗教なのに対して、キリスト教は神という対象を持つ 外的な宗教だとばかり思ってましたが、全然違いました。 新約に書かれている内容こそ人間の、理性をもつ人間だからこそ なりうる心の在り方なのではないかと思いました。 学問として見ると、非常に優れた書物ではないでしょうかね ところが、キリスト教徒の方はこの内容を本当に理解しているのでしょうか? 拡声器を使って神が、神がと言ってるからおかしな事になるのではないですか ただ信者を集めようとして、その時点で宗教という看板を掲げた 事業に成り変わってますよね。(これは前々からその他の宗教に対しても 感じていた事ですが・・) イエスがせっかく律法をうまく(うまく、と簡単に一言で言いましたがここが一番 驚嘆した部分です)解釈して、それを世に広めようとしたのに 今日に存在するキリスト教はまったくの別物に思えてなりません。 これじゃあ信者にならないほうがよっぽど良いと思うのですが。 キリスト教というネームをただ広めたいだけですか? 信仰による愛の実践こそが最も大切なのではないですか 宗教でさえ本物でないから、これほど偽者ばかりが蔓延している世の中になったのですかねぇ と、ふと思ってしまいました。 おっと話にまとまりがなさ過ぎるのでこれくらいにしておきます ここまで長い長い駄文を読んで下さり、ありがとうございました。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 赦しこそ聖書である。その2
http://okwave.jp/qa/q7053741.html 上記質問の後を継ぎます。 前回は題材が見つかって一人で思索する時間を必要としたので早めに締めました。 回答を検討された方には失礼だったかもしれません。 でも謝りません。 さて。 聖書の物語とは、神に懇願し神の降臨が待望された、一部の部族社会で、神が使わした待望の救世主が現れる。その救世主はいかにもっともらしく振舞ったが、結果的に何一つなさないまま彼に取りすがった人々の眼前で処刑されてします。 このような背骨の元、もう救世主はこないとか、または再臨するとか、見捨てられたこの世界は審判の日を迎え滅亡するとか、そんな事も書かれています。 よって聖書は真摯に神を考察していると言う、彼らの信仰を尊重しても神についての噂話を書いた童話です。 私は特にキリスト教徒では無く、アマテラスさんと愛し合っています。信仰の在り方についてこの故事には考察するのみですが、誰かの願いをかなえようと意図したからこそ処刑されたともとれるイエスさんの生きざまについては、そのようにイエスさんなる人物が歴史上、何らかの形で存在したと認めるだけで、聖書から学ぶ正しい信仰の(聖書なりの)理想を理解できます。 聖書から学ぶその信仰姿勢では、神からの赦しと言うのが重要ではないかと考えたため、その点に関して思索の材料募集です。 私は自分こそは一番であり最高だと思ってますから、ぶしつけにも対話に発展しないで途中で締めるかもしれません。実際に前回もそうしておりますが、できるだけ、それなりの結論を導くまでは、次にもつなげたいと思いますのでよろしくお願いします。 それからサル踊り品評会は余興とわきまえているなら阻む事はありません。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を
新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を超えた普遍的真理の書物なのか? 教えて下さい。 私は中年の男です。20代後半で 洗礼を受けました。 その後人間関係に悩み、牧師に 相談をしたのですが、牧師の尊大な態度に失望し、教会へは行かなくなりました。 洗礼を受ける前は三浦綾子氏や遠藤周作氏の著作を 読んでいて、今にして思えば福音派とリベラル派の違う考えの本を同時に読んでいて、自分の中でも整理がついていませんでした。 しかし、ある日カール.ヒルティの幸福論を呼んで、福音派よりのリベラル的要素を持った著作にふれ、洗礼を 受けたのですが、上記説明のように牧師につまずき挫折。 最近も福音派の教会に2ヶ月程通いましたが、やはり 牧師に躓きました。私が最初に通っていた教会はリベラルな教会でした。福音派牧師の痛烈なリベラル派批判。カトリックは異端だと裁き、リベラル派はクリスチャンでないかのような発言。本当に参りました。 福音派の方で、神社.仏閣に悪霊がいる等。極端な 考えをお持ちの方も存在いたします。 福音派の中で聖書信仰と言うのがありますが、個人的に旧約の神とイエスが同一とはどうしても考えられないのです。聖書にも矛盾を感じるんです。 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。 23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。 29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。 箴言を一部抜粋しましたが、これが神の言葉だと心から 思えません。 恐らく、理性的な日本人にこれを読んで頂きこれが 神の言葉だと思うかと問えば、恐らく殆どの方が「思わない」と回答するでしょう。 福音書のイエスの言葉には威厳があり、やはり非常に 高いタイプの何かを感じる事は出来るのですが旧約と パウロ書簡は懐疑的に考えてしまいます。 例を出すと1コリント11:5「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」この訳は新共同訳です。 聖書を時代背景も考えず、文字通りの真理だと考えるなら礼拝やまた個人の祈りの中で祈る時は女性は頭にかぶりものをしなければなりません。 私は神を信じない生き方は虚しいと思いますが、聖書に 矛盾、新約と旧約に整合性を感じられず、苦悩して います。信仰は捨てたくないのですが。今は正直どうしたら良いのか解りません。 リベラルな教会も考えてはいるのですが、それでも、聖書に確信が持てなくて 困っています。 乱文で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
- 聖書について
テストでこのような問題が出るのですが、全くわかりません。 だれか分かる方教えていただけないでしょうか?? (1)ユダヤ教のメシア思想とキリスト教の「キリスト」理解の関係について。(「メシア」、「キリスト」の語義についても触れる) (2)新訳聖書の「福音書」について。(特に、「共観福音書」相互の文献学的関係がわかるように) (3)「ナザレのイエス」の生涯について。(歴史的イエス研究の立場から) (4)キリスト教の信仰対象としての「イエス・キリスト」について。 (5)キリスト教がイエスの十字架上での死の意味をどう理解したかを中心に、キリスト教の「贖罪論」について。 (6)エルサレム初代教会と、協会指導者としてのぺトロについて。(ぺトロについては、後のローマ・カトリック協会との関係についても触れる) (7)パウロの生涯、思想について。(パウロの思想の中心と言われる「信仰義認論」の内容が具体的に分かるように) (8)「ヨハネ黙示録」とキリスト教の終末論について。(「ヨハネ黙示録」の歴史的背景や精神的源泉についても触れる)
- 締切済み
- その他(学問・教育)
- 赦しこそ聖書である
聖書の大まかなあらすじは、神が待望された社会に忽然と現れた救世主が何一つなさないまま血を流して死んだと言う事でしょう。 それによって神に求める事が出来ないで、願いなど何一つかなわないと言う終末思想がキリスト教だろうと考えます。 見捨てられた、この信じる事のみの社会は審判の日を迎える事になる。 そんな信仰の葛藤に七転八倒すると、やがて自力で聖書の呪いを覆す事が出来るでしょう。 それは普遍的な信仰の発見と共通項も多いですが、キリスト教の特徴として、「神に赦される」と言う感覚が有るのだろうと考えます。 この特有の赦しと言う表現を、いかようにこねくり回すか、材料募集です。 猿回しは重労働なので、内容の無いサルまねはできるだけ控えてください。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- どうして十字架?
本日、http://kikitai.teacup.com/qa4527989.htmlにおいて、十字架のことが質問されておりました。 イエスが架けられたのは、十字架という認識が多いと存じますし、そういう言葉でいろんな表現や言い回しもされてきているのは事実です。 1. それとは別に、歴史的或いは信仰や哲学の上で、イエスが架けられたのが十字架であるのか、そうでないのかというは、何かの違いを生ずる事柄なのでしょうか?つまりなんで問題なのでしょうか? 2. それとも本当は十字架ではなく、異なるものであったということになれば、伝えられる聖書の内容に、あぁこれも間違いか誤記だったのだな、というだけのことでしかないのでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ユダヤ人のためにイエスは生き
イエスの本来の素性はユダヤの聖職者です。 奴隷階級のユダヤ人のためにイエスは生きました。 奴隷は家畜です。 しかしその奴隷が信仰を獲得すると、信仰心ある人が尊敬と敬意でみられる現代と同じで、人間として扱わなければなりません。 それは、奴隷の所有者には不利益です。 したがって処刑されました。 原始キリスト教はこのようないきさつの元にローマの横暴に対する民権運動のような事柄として、ユダヤ人以外にも波及していきました。 この当時、キリスト教徒はイエスを理解してイエスと共に生きていた。 打倒ローマです。 そして、新約聖書がすべて覆した。 ローマの懐柔工作により、新約聖書が編纂されイエスの意志は掻き消えた。 新約キリスト教徒にはイエスは理解できません。 そして、明確な信仰心がないのです。 新約以降のキリスト教徒の改変された予言の最終目的は、最後の審判です。 その内訳は、原始キリスト教時代の志である、「ローマ滅亡」そして新約キリスト教がローマとの取引で獲得した「キリスト教自らの根絶」この二つのせめぎあいで双方を実現するのが予言の完成です。 したがって、キリスト教徒の祈りの内容は「神よくたばりやがれ」です。 と、言う考察をしてみました。 いかがなものか読書感想文をお聞かせください。 私はこれらの事柄は、西洋人は博物学などの手法で外国の文化の素性を考察しますが、同じ手法を西洋そのものにあてはめると、このような形になるという、中立的な立ち位置で考察していまして、みなさんの宗教や信仰には何ら意見を持ちません。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 聖書とは 何か?
関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。 初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。 むろん哲学としての問いです。 たたき台としては: (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。 (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。 (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。 (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。 (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。 (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。 (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。 (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。 (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。 (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。 (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。 ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
hhitujiさん たいへんありがとうございます。なるほどと さらに思いました。 サンへドリンの動きについての疑義は 紹介者の小滝透のほうを信用していました。マルコの記事 よくわかりました。学問としての聖書学 これにも けっこう気を配ってはいたのですが 逆説的なことを言っているので 田川建三を読んでおけば よいだろうと思っていたようです。うぅーん。なんとも はや です。 パウロが もうその頃から サンへドリンにいたのですか。これも 残念ながら 初耳でした。 ともかく カンギュウジュウトウなのですね。一つひとつ押さえていくようにします。ありがとうございました。 もういちど なんとも はや です。 みなさん ありがとうございました。そろそろ締めることにします。