東山魁夷の「泉に聴く」
日本語を勉強中の中国人です。東山魁夷の「泉に聴く」という文章を読んでいますが、分からないところについて質問させていただきます。
1.題目の「泉に聴く」
なぜ「泉を聴く」ではなく、「泉に聴く」なのでしょうか。
2.次の二文の中では、なぜ「がよい」の前に「こと」か「の」がないのでしょうか。
(1)泉のほとりに、羽を休めて、心を静かにして、泉の語る言葉に耳を傾けるがよい。
(2)泉の澄みきった水に、姿を映してみるがよい。
3.
「【自己を無にして】、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。
【自己を無にする】ことは困難であり、不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」
ここの二箇所の「自己を無にする」は「自分のこれまでの成功と失敗を全部忘れる」という意味ですか。「自分の期待に反して、目標に達成せず、失敗した」という意味ですか。それともほかの意味なのでしょうか。
4.次の文の中の【一羽】と【夜半】の読み方を教えてください。
(1)私も、この鳥の中の【一羽】であり、人はすべて荒廃と不毛の曠野の上を飛び続ける鳥である。
(2)もし、【夜半】、ふと目覚めたときに、深いところから、かすかな音が響いてくれば、それは泉のささやく声に違いない。
また、質問文に不自然なところがありましたら、それも指摘していただければ大変ありがたいです。よろしくお願いいたします。
お礼
すみません。我が家の白川さんの字統では見つからなくて、 自分で図書館にいけばいいのに、とても距離をあるけませんし、 行った事はないのです、公共図書館には。 やはりあったのですか、推量でそんな字がないだろうか、と質問を出してみたのです。
補足
有難う御座いました。お礼を書くところを取り違えてしまいました。 昔勤務していたところに、ご僧侶さまがおられて、その字を使う名前で戸籍名でもありまして。20代のときはそんなに大事な字だとは存じませんで、私のデスクに閑談においでになり、珍しいお名前の由来をお尋ねしたことがありました。 先輩は誇らかにご説明されておられたのを、50年ほど経った今、思いだしているのです。労組のことしか頭になく、聞き流していたのに。 サハスララ、日本語では梵の窪、百会。 私達の精進では一番上のチャクラでして、その頂点の叡智の泉をデヴァナガリで打っていてもいいのですが、やはりマザー・タングで捜していまして。