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聖書を正しく読まなければ意味が無い?

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.8

>信仰・宗教的な立場というより、mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。 まず、創世記の部分ができたのが、バビロン捕囚以降という見方が有力なんですね。 天地創造の部分は日本の古事記にそっくりですが、日本に住んでいた人々が、中東に伝えたってことは無さそうな気がしますが、どこから天地創造を考え出したのかは、今のところわかりません。 ですが洪水の部分は捕囚先の神話が基礎になっていると思えました。 源流はどこだろうと思っていたんですが、やはりエジプトかなぁ・・・と思えます。 最近知ったのがアテン教というもの。 モーセという名前なんですが、エジプトではモスという語彙は王の息子を意味するらしいですね。 モーセがもたらした偶像崇拝禁止の宗教はアテン教だったのかなぁ・・・って思います。 アテンと対抗したのが偶像を崇拝するアメン教だったようです。 ユダヤ教が同意という意味で使うアメンと同じ発音のようです。 モーセが山に登って神と対話しているとき、麓では待ちきれなくてアロンが人々にせっつかれて、子牛の彫像を作り、下りてきたモーセが激怒したというエピソードがあるんですが、、、、アロンはアメン教の礼拝をやることで、人々を沈めようとしたのか。 モーセに率いられてきた人々がアテン教を選んだため、アメン教に追い払われてしまい、「こんな苦労をするくらいなら、モーセについてこなくて、アメン教を信仰していればよかった」という人々をなだめるため、アメン教のシンボルである子牛の彫像を作ったのでしょうか。 アロンは祭司ですよね。 宗教的リーダーとして神に選ばれたんだったような気がします。 でもそのアロンは偶像を作った。 謎です。 何故神はアロンを選んだのか。 モーセが政治的リーダーだったが口下手だったので、アロンが補佐に回ったんだったと思います。 で、旧約聖書の最初の方に、宗教的儀式のやり方と、民衆を導く法律みたいなものを制定していますよね。 民数記の方は宗教的規定が書かれており、これはレビ人に対するもの。 申命記の方がレビ人以外の民族でにおいて、政治的リーダーの成り立ちが書かれているというのが私の印象でした。 だから、○○記とされているものは、だらだらと内容が書いてあるのではなく、この書は何について書かれているのかと知った上で読むとわかりやすいと思います。 一度 アダムとイヴからの系図を、聖書を読みながらエクセルで作ったことがあるんですね。 しかし、おかしいんです。 繋がらない。  ある箇所で書かれている内容が、別の箇所で別の名前になっている。 嫡子全員が書かれているのでなく、第二夫人とか第三夫人が生んだ子供も、別の箇所に書かれていて、それで繋がらないように思えるのか?とか推理しましたが、どっちも書いていっても、やはり繋がらない。 で、どうしてこんなことが起こったのかと頭をひねったんですが、ヤハウエストとエロイストでしたっけ? 派閥があり、ずっとどっちか一方が宗教的リーダーだったわけではなく、入り乱れてどっちかが宗教的リーダーになり、そっちの解釈された内容が残っていて、今度はもう一方が支配的立場を取り、その人々の視点からみた内容が書かれ、それも残ったようなんですね。 で、どっちの解釈も残り、1世紀に聖書を作るとき、どっちが正しい伝承だかわからず、どっちも入れたようなんです。 だから矛盾が残ったままになっているようなです。 新約聖書ってものができた理由は、自分達の解釈が正しいとする派閥が、他の派閥を消そうとしたから。 自分達の解釈以外の解釈をする人たちが「これがイエスの人生」ともっともらしく伝えてもらっては困るとして、それで聖書を作ることになったらしいです。 新約聖書が成立するまでは、福音書は200以上あったらしいんですけど、新約聖書が選んだのはその中のたった4つだけ。 他を退けたんですね。 焚書命令を出して、他の200近い福音書はこの世から消された  はずだったんですが、20世紀になり出てきています。 今でもキリスト教はたくさんの派閥がありいろいろな解釈が違いますが、2000年前は今とは比べ物にならないくらいイエス伝承が多岐にわたっていたことがわかってきた。 だから、200ほどの話のうちのほんの一つが新約聖書の内容で、それが真実を伝えているとは誰もわからない。 勝ったほうの主張が今に伝わる新約聖書なわけです。 クムラン 私も読みました。 虚実入り乱れてを嘘がほとんど という言い方をする人もいますが、確かに創作の部分はありますが、詳しい内容で、調べると実際そういうことが歴史上あったとわかり、筆者の空想の内容じゃなかったんだと結構勉強になりました。 さすが高名なラビを持つ哲学者が書く小説ですね。 内容はすごいです。 >内容が次第に預言者等の話に及ぶにつれ???に。 この民族というかユダヤ教の成り立ちがまず書かれていますよね。 人々を統率するには、正しいルールが必要とされ、それは神から与えられた義の法律とすることで(預言者は神の言葉を授かるものって意味)、法律が制定され、人々を統率していく経緯が書かれています。 イエスってヘブライ語でイエシュアみたいな発音で、ヨシア記のヨシアがイエスなわけで、だったらヨシア記って書かずにイエス記って書けば紛らわしくなくっていいのに、、、って思いました。 力強いヨシア王が現れ、人々をひっぱっていったわけですよね。 ちなみにモーセがヨシアを自分の後継者に選んだ。 ヌンの子。 で、エジプトにヌンって神がいまして、それは旧約聖書の天地創造のあの初源のような存在とされた。 となるとヌンの子ヨシュア=神の子ヨシュア??? 新約聖書作家はこんなことろでひっかけている? (ヨシア記の後半の他民族を絶滅させ土地を奪ったって部分は、後世の加筆という見方が有力のようです。) そしてついに12支族全体を統一する王の存在が求められ、神がそれを許して、民族全体のトップに立つ王サウルが誕生した。 そして新しい王が古い王を倒すというバビロン神話をモチーフにし、ダビデがサウロを倒し、王の座についたという話になった。 殺したとは書いてありませんが、情況からして殺すよう刺客を出したと推測されます。 で、ソロモンの時に栄華を極めたわけですが、何故崩壊したのかという理由として、ソロモンが他の神をも信じたからとされ、それで神が怒り、バビロンに捕囚させたとなっている。 で、連れていかれたのが、王国の支配階級の人々で、彼らの頭脳は徴用され、そこそこ高い位についていたそうですが、アイデンティティーの喪失を体験し、それでユダヤ教というものを確立していくことになった。 それで創世記が作られたわけです。 ですが、ヘレニズム文化の影響を受けることは避けられず、ヨブが書かれた頃は、かなりヘレニズム思想の影響を受けたそうです。 このヨブの内容は、他の神話に既に書かれていたとかうっすら記憶があります。 それをユダヤ民族は自分達の文学として保有したんだったと思います。 遠藤周作さんは、必死にキリスト教という洋服を着ようともがいた人だったようです。 なんとか納得したつもりでも、どうしても自分の体にぴったり合わず、自分の体が洋服に合うよう もがいてもがいてもがいて。 そして晩年は仏教に帰依し、やっと安らぎを得たそうです。 >mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。 私は趣味で神話を調べているので、結構 どっからそういう話になったのかリンクできるんですね。 他の文化の影響を受け、自分達の文化に取り入れていっているとわかってきます。 これは人が交流するから仕方ない。 ガリラヤ湖は、のどかな田舎町ではなく、シルクロードの拠点のひとつで、あっちこっちの異文化がそこに流れ込み、エキゾチックな活気ある場所だったそうです。 ちなみにガリラヤって琵琶って意味らしいんですね。 で日本の琵琶湖と形が似ているそうです。 で、その近くに平安京があった。 平安はヘブライ語ではシャローム。  え?平安京ってエルサレムって意味?って思ってちょっと笑ってしまいました。 ミステリーな歴史ですか? ミステリーさではモーセが一番怪しいです。 彼はエジプト人だったんじゃないかって説があります。 しかもエジプトの王の息子。 彼はアテン教を信仰していて、アメン教に破れ、信者を連れてエジプトの植民地であるカナンに向かったんじゃないかと。 ピラミッドを建築していた石工職人を引き連れていったので、エジプトの叡智が外国に伝わってしまうと自分達が逆に攻めこまれるとして、彼らを連れ戻そうとした。 しかし 何かが起こって、彼らを追うことをやめてしまった。 ってストーリーを読んだことがあります。 で、モーセがエジプトから持ち出したのがアテン教だけではなく、叡智 建築技術とその石工職人達も持ち出した。 その子孫が中東の地に子孫を増やし、巨大神殿エルサレム神殿を建てた て説なんですね。 で、ユダヤ戦争がひきおこり、石工職人は奴隷として各地に売り飛ばされ、やがてその人々の子孫が、天を突くような教会を各地に作っていった。 で、それがフリーメイソンとなっていった。って説なんです。 もちろん 歴史のテストでそんなこと買うと×ですが 笑。 ミステリーでしょー。 ><*これらは所詮、正しく聖書を読まなければ、意味がない理解なのでしょうか。> いや 正しくも何も、どれが歴史的事実なのか、誰も知らないんです。 おまけに外国の思想をもろに受けてきたので、そうなると 何をもって純粋なユダヤ教の実際にあった話なのか、歴史なのか、わからなんですね。 影響を受けながらも続いたイスラエル人の歴史ってのなら、聖書を読み内容を知ることで、イスラエル人の大まかな歴史がわかります。 イスラエル人って、12+1支族ですよね。 ヤコブがイスラエルって戒名し、アブラムがアブラハムって戒名し、イスラエルの子らがイスラエル人ですよね。 で、一つの王国だったが、ユダ族とベニアミン族がそこから分離し、南ユダ王国を築き、北と南とでそれぞれ王国を築いたが、北がアッシリアに捕囚され、南はバビロンに捕囚され、くっついたと思ったらバラバラになり、各地に散っていくわけです。 イスラエルの子じゃないヘロデがローマにより王位をもらったわけですが、イスラエルと戒名したヤコブの兄はエサウ。 エサウのずっと後の子孫がヘロデ。 こういうのって、読むだけじゃ 「あっそうか」ってなかなかわからないと思います。 どうして私がそのことを知ったかというと、古代の長子権について調べていて、「あ、、、、」って気付いたわけです。 レンズ豆とひきかえに長子権を奪ったのがヤコブ、後のイスラエル。 ヘロデにしてみれば、祖先の長子権を奪ったイスラエルの子らの王国で自分がそのトップに立ってなにが悪い、返してもらった ってことでしょうか。 面白いでしょ。 長子権って初子が関連していて、最初の子は神に捧げるって考えが古代にあった。 殺すって意味じゃあないと思います。 宗教専門職のレビ人の儀式をやるにあたっての準備とかをやっていたんじゃないかなって思います。 ほら、聖書に書いてあるでしょ。 レビ人以外を幕屋に近づけてはならないって神が言ったって。 だから レビ人以外は宗教関係の仕事をしなかったわけですが、移動民族ですから、移動の時くらいは幕屋を担いでもらっていたんじゃないかと。 ただし、ただの人じゃだめで、12支族の中でも初子だけって限定だったのかも。 クムランの蘇る神殿までは読んだんですが、その3作目はとっくに外国では発売されていますが、日本じゃ翻訳されていないですよね。 しびれきらせて英語でもいいやって注文しようとアマゾンを覗いたら、英語では発売されていなかった。 フランス語か?って思ったら、なんかフランス語じゃないみたい。 イタリア語かスペイン語のような感じ。 どうして?ってすごく不思議でした。 日本では発売禁止になったんでしょうか。 翻訳者の人は3作目は日本が舞台ですって言うのだから、ついにアリーは日本で活躍するのかってわくわくしたんですが、神道が発売を阻止したのかな?って疑惑が・・・・。 日本人に知られてはならないものを、エリオットは暴いてしまったのでしょうか。 虚実の虚だらけって言われてもいいから、読みたいです。

noname#52347
質問者

お礼

大変丁寧なご回答有難うございます(_) 圧巻の内容を理解できたか曖昧ですが;  アテン教の部分興味深く読ませて頂きました。ユダヤ教の前はアテン教か?という仮説、ということですよね、アテン教というのは「一神教」・・??ですか? >だから、○○記とされているものは、だらだらと内容が書いてあるのではなく、この書は何について書かれているのかと知った上で読むとわかりやすいと思います 参考になります(_) モーセのお話とバビロン捕囚から創世記が作られた経緯 勉強になりました。 >いや 正しくも何も、どれが歴史的事実なのか、誰も知らないんです。 おまけに外国の思想をもろに受けてきたので、そうなると 何をもって純粋なユダヤ教の実際にあった話なのか、歴史なのか、わからなんですね。 影響を受けながらも続いたイスラエル人の歴史ってのなら、聖書を読み内容を知ることで、イスラエル人の大まかな歴史がわかります 了解です・・自分は探求するのは無理そうですが そういう視野をいれつつ読ませて頂きます; クムランは二作目も読んでいないですが amazon検索してみると、フランス語で la derniere tribu というのがあるようで多分これではないかと思います。翻訳されないで自国出版のみ?になってるようです 2000年に京都の聖域で男の殺害された遺体が見つかって、その遺体がヘブライ文字で書かれた写本の一部を握ってて この男は誰か?→アリー登場、調査を進めるうち イスラエルから日本へ、果てはチベットへ(!)導かれていくアリー。徐々にアリーは 日本の神道が直接的にヘブライ教?に由来している(イスラエル族分散の時に その中の一つの族が 日本に辿り着き亡命の中で自らの文化を保存させたから。)ということを発見していく・・!!? というような内容のようでした;

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    聖書は多くの文学芸術のモチーフの一部となっておりますが、多く表現されているようにあくまで比喩的・詩的表現であることは事実のようであります。 文面どおり解釈・倫理人道的な意味に受け取る伝統も重要ではありますが、詩的比喩的内容をそのまま解釈して良いものでしょうか?比喩である以上根底には真意・真実があるのです。 実は1章ごとに区画分類された未来科学の「預言の書」なのです。 様々な章節には活版印刷・羅針盤・魚群探知機・衛星GPSなども表現されています。 また医学生理学的な分野への表現は微細・現代の基礎生理学にも匹敵する内容とも受け取れるのです。 聖書「コリント人への手紙」がインターネツト社会やパーソナルコンピューターの普及とそれに伴う社会問題・ソフト・ハード面を詩的(比喩)に表現した内容であることは周知の事実です。 同様に聖書「ガラテヤ人への手紙」は大陸移動説・プレートテクトニクス理論による造山活動・裏付けとなる植生分布・大陸接合部・海溝部などによる大地震発生のメカニズムなどを比喩的に表現した部分である。 勿論お読みいただいた方々のお考え次第です。「信じるものは(比喩的表現の幻想から)救われる」 歴史上多くの書物・伝説において・そして聖書においてさえも「預言者」の存在が明記伝承されています。残念ながら私自身には超能力はありませんが、明確にその存在が指摘されています。 聖書にもあるよう普通の人々には受け入れ難い事実・キリストの架刑の例もあるように迫害される危険性を多く孕んでいるのが現実です。 聖書以前にもオリンポスの神々などの神話でやはり比喩的・詩的表現なのですが、現代のインターネット社会や宇宙観の話題がとりあげてあるのです。