• ベストアンサー

聖書を正しく読まなければ意味が無い?

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.16

No.3&11です。 ★《宗教を勉強しようと思ったことすらない者ですが 信仰についてはおそらく 考えたのだと思います》 ――やはり もう《主を知れ》と言っておしえることは要らないようですよね。茶化してはいけませんが キリストのキの字も言わずに 信仰者が 三分の一いる社会をと願っている者としては 説教などは似合わないと思っていたのに そのたぐいのことをやっていました。  でしたら それこそ基礎が出来ておられますので どんな虚実綯(な)い交ぜのエンタテインメントが出て来ても 大丈夫だと思います。 あとは 個別に気になったことを取り上げさせていただきます。 ★小説『クムラン』は読んでいないのですが クムラン宗団ないし『死海文書』については 《義の教師》くらいが 議論にのぼるのではないでしょうか。ただ モーセも 律法をもたらした・そう言ってよければ義の教師ですし 旧約の預言者たちだって 誰も信仰に見向きもしない時に それぞれ独りで義を説いたのですから クムラン宗団だけの問題だとも思えないようです。  もっとも 文書発見のあと初期の研究の時期に 文書の隠蔽がなかったかという嫌疑がかけられているようではあります。(いわゆるキリスト教に都合の悪い内容の部分については 隠蔽しているのではないかと疑われています。これ以上はわかりません)。 ★遠藤周作は キリストを《永遠の同伴者》として規定するのが特徴です。信仰によれば 毎日が瞬間ごとに 永遠の現在を生きることになるということですから 永遠の同伴者と言っても まちがいではないでしょうが 問題は 《文字は殺し 霊は生かす》だと思います。  仏教における《同行二人》と同じかどうか分かりませんが・だから別ですが この《同伴者》を精神において想像力によって捉えることが行なわれているようなのです。信仰としてではなく 一種の教養として 格調高く《キリストが常にわたしに同伴している》という絵像を描くことに通じているようなのです。聖母マリアがわが胸にいる限り わたしは 清く強いといったふうに 想像力を逞しくするようです。  《文字もイマージュも想像力〔のみ〕も 信仰を台無しにします》。《想像をとおして謎において神を見る(声を聞く)》という信仰の立ち場に対して 《精神において想像力によって想像物として神を描く》という方向に逸れがちです。 ★神に性はない。ヤハウェーと言おうが アッラーフと言おうが 仮りにイワシノアタマと呼ぼうが 神の声は ひとつである。  たとえいくつか多重音声となって聞こえたとしても 全体として一つにまとまっています。多神教だろうが汎神論だろうが 神はひとつです。  女性アイドルあややの声をとおしてその奥に神の声を聞いたと仮りにすれば それは 女神の声になるのでしょうか。神じしんの声は 一つであり また この世の性差など持ち得ません。持ってもなんら関係ないほどなので 女神だとか母性原理だとか言いたい人も出てくるのでしょう。信仰の対象(=つまり非対象)を ムシン(無神)と言っても まったく 問題ないはづです。 ★《契約》の厳しさ・おごそかさなどに触れておられました。  これも いささか乱暴でしょうが それでも特に《新しい契約》としては もはや契約関係のすべてが 個人の信仰の中におさまったかたちで捉えてよいのではないでしょうか。ということは 主観を超えないし 超え得ないし あるいは上から権力をもって主観に契約を押し付けても何にもならないし 自由の違反になります。  契約は 主観の自由および尊厳に おさまるという見方です。主観の外で 神と契約するわけがありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >教会体制は プロテスタントともども ただちに解体すべきだと これは若干びっくりしましたが・・。共同体として機能せずに分散して続いていけばよい、続いていけるということでしょうか・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば親鸞という人は 出家した身で妻帯し 同じ門徒の人びとを 御同行・御同朋と呼び合って 共に生きるというのであって 何か宗派を開こうとしたものでもなかったと言います。それは 信仰のゆるやかな共同体としてあり 社会における共生のあり方を問題としており 信徒の集まりは 自分たちで話し合い 協力しあう自由な集会を目指したとも言います。  (寺も僧侶も墓も要らないというふうな記憶がありますが そのあたり定かではなく 典拠も不確かです)。  おそわるところによると サンガ(僧伽藍摩)つまり出家者の集まりを呼ぶその名には その特定の人びとのではなく 社会という一般的な人びとの集まりとして《四方サンガ》という概念もあるそうです。唐招提寺の《招提》とは 原語で《四方》の意味で 要するに四方八方というふうに《世界》を意味するそうです。世界から《招く》という意義による漢字の当て字もあるようですが つまりは・言いたいことは 社会そのものが 共同体であり サンガであるという概念のことです。  日本語でも《やしろ》と言います。語源は 《屋の代わり》としての神殿だと思われますが 仮りに《八(や)・域(しろ)》と読めば 社会じたいとしてのサンガと同じ意味になるのではないでしょうか。《八(や)》は 四方八方の八であり 《域(しろ)》は 《領(し)る》の名詞形だそうで 領域となります。  つまり言いたいことは 《やしろ / 四方サンガ》としての社会じたいが――宗教抜きの・一般概念としての――《教会》だということです。  《主の家:キュリアコンkyriakon→キルへ Kirche; チャーチchurch》は 国家の域にまで広がった《教会=やしろ=四方サンガ》でしょうし 《民会:エクレシアecclesia→エグリーズ eglise; iglesia》は 市町村議会としての《教会=やしろ=四方サンガ》であろうと捉えられます。宗教抜きです。  (ですから 《教会》という語は もう不要です。あるいは 結社の自由をしばるわけには行かないですから もちろん 信徒たちが自由に 集会を持つのは 自由でなければなりませんが)。  (自由な集会として 順次 世話役の当番を決めて 自分たちで運営していけばよいのではないでしょうか。神父ないしはローマ法王などという聖職者の位は 要らないと思います。みんなで決めて 新しい聖職者を置いてもよいでしょうが)。 自由な放談に映るとしたら ごめんなさい。そんなところですが。

noname#52347
質問者

お礼

再度ご回答有難うございますm(_)m >《文字もイマージュも想像力〔のみ〕も 信仰を台無しにします》。《想像をとおして謎において神を見る(声を聞く)》という信仰の立ち場に対して 《精神において想像力によって想像物として神を描く》という方向に逸れがちです。 何がひっかかっていたのか分かってきました・・ >《精神において想像力によって想像物として神を描く》という方向に逸れがちです >《同伴者》を精神において想像力によって捉え 友人にも同じことが起きていたかもしれません。そしてそれによって挫折していく姿を見て 「これが宗教に挫折するということなのか」というイメージができあがっていきました。そして一般的には《精神において想像力によって想像物として神を描く》ものだと理解していました 一方 >《想像をとおして謎において神を見る(声を聞く)》という信仰の立ち場 私が宗教とは別に、このことを考える時 それは別のものだったという風に思われてくる面もあって また ご指摘して下さったように 主観・契約の外の立場によって招かれる<厳しい>という印象も 本来の厳しさと比較すればどうでも良い事に思われてくるかもしれないです ★神に性はない 信仰の対象(=つまり非対象)を ムシン(無神)と言っても まったく 問題ないはづです。 多神・没神 母性原理、○○原理等々・・についてはやはり 信仰の外の、神の声と別の話であるから という風に理解いたしました(_) >つまり言いたいことは 《やしろ / 四方サンガ》としての社会じたいが――宗教抜きの・一般概念としての――《教会》だということです。 >社会そのものが 共同体であり サンガであるという概念のことです このサンガの概念は素晴らしいと思います(_) >神父ないしはローマ法王などという聖職者の位は 要らないと思います。みんなで決めて 新しい聖職者を置いてもよいでしょうが キリスト教はコミュニティであるという印象が強かったですが 回答者さんのようにお考えになる方がいるということは勉強になりました(_) 信仰者でも何でもないものに深遠なご回答を下さりありがとうございます

関連するQ&A

  • 聖書について

    全く無知ですのでこのような質問をさせていただき申し訳ありません。 最近ユダヤ人と日本人との関係している本を読んでいて、並行して聖書の関連部分を読んでいます。いくつかの疑問が出てきます。 1.キリスト教の方もBibleを読んでいると伺いますが、旧約聖書におけるユダヤの歴史を肯定してみえるのでしょうか。肯定していたのならなぜユダヤ人は迫害されたのでしょうか。ユダヤ人の方は新約聖書を肯定してみえるのでしょうか。 2.旧約聖書(ユダヤ教)の唯一神はヤハウェ(エホバ)ですが、イエスはヤハウェ(神)の子という意味ですか?ユダヤ教とキリスト教は同一神を崇拝している?ということでしょうか。 3.古代より聖書は欧米人をはじめ多くの人たちの精神的支柱になってきたと思いますがどのあたりの章を参考にしてみえるのでしょうか。 熟知してみえる方は当たり前のことと思いますが、大部分の日本人はこうしたことはよく知りません。冠婚葬祭時や祭り・行事の意味すらよくわかっておらず、セレモニー的な遊び的な意味あいが強いと思います。失礼ですが、欧米の方もよくわからないが日曜日は教会に行く・聖書を読む(日本人もよくわからないけど神社やお寺にお参りに行く・お経を聞く)ということもあるのでしょうか。 小さい頃に道徳的な内容ばっかり語る昔の人の(宗教的な)説教に辟易してしまい。ゆえに本質的な内容の理解をすすめられなかったのは人生において大いな損失だと思いました。説法とかお経とかは内容を理解するための入り口という印象です。粗雑な人間にはこうした基本の姿勢が必要だと思いますが、思慮深く物事を真面目にとらえる人間にはその次の内容の理解の方がより重要だったのではないかと思います。 現実にはまじめで思慮深い人に対して多くの説教がなされ、粗雑な人にはあまりされていない。理由は、真面目な人はおとなしいからよくいうことをきき楽だから。不逞な輩に教えるのは大変なためだからでしょう。しかし、これは社会的にみて明らかにおかしいと思います。 内容の理解が深まれば説教・お経など時に必要ですが、現代社会にどう生かしていくかの方により重点が置かれるという理解も可なのではでしょうか? ちなみにわたくし事ですが、先日父の葬儀があり、自分と同じぐらいの年のお坊さんがお経をあげてくださいました。お経時間は5分、足が痛いので正座はなし。その後、お坊さんがよく行っている行きつけのお店の話しで盛り上がりました。自分としてはこれでいいと思います。あまりに形だけにとらわれていても意味がなく、物事の本質とは何かについて心の中で黙考することの方がより重要だと思います。 私は30台後半の男性です。後半は個人的な意見です。中学から大学および卒業後とあまりに先生の説教が多く、学問の理解がなかなか思うように深められなかった自分の現実をみて少し感情的になってしまったと思います。

  • 赦しこそ聖書である。その2

    http://okwave.jp/qa/q7053741.html 上記質問の後を継ぎます。 前回は題材が見つかって一人で思索する時間を必要としたので早めに締めました。 回答を検討された方には失礼だったかもしれません。 でも謝りません。 さて。 聖書の物語とは、神に懇願し神の降臨が待望された、一部の部族社会で、神が使わした待望の救世主が現れる。その救世主はいかにもっともらしく振舞ったが、結果的に何一つなさないまま彼に取りすがった人々の眼前で処刑されてします。 このような背骨の元、もう救世主はこないとか、または再臨するとか、見捨てられたこの世界は審判の日を迎え滅亡するとか、そんな事も書かれています。 よって聖書は真摯に神を考察していると言う、彼らの信仰を尊重しても神についての噂話を書いた童話です。 私は特にキリスト教徒では無く、アマテラスさんと愛し合っています。信仰の在り方についてこの故事には考察するのみですが、誰かの願いをかなえようと意図したからこそ処刑されたともとれるイエスさんの生きざまについては、そのようにイエスさんなる人物が歴史上、何らかの形で存在したと認めるだけで、聖書から学ぶ正しい信仰の(聖書なりの)理想を理解できます。 聖書から学ぶその信仰姿勢では、神からの赦しと言うのが重要ではないかと考えたため、その点に関して思索の材料募集です。 私は自分こそは一番であり最高だと思ってますから、ぶしつけにも対話に発展しないで途中で締めるかもしれません。実際に前回もそうしておりますが、できるだけ、それなりの結論を導くまでは、次にもつなげたいと思いますのでよろしくお願いします。 それからサル踊り品評会は余興とわきまえているなら阻む事はありません。

  • 聖書について

    テストでこのような問題が出るのですが、全くわかりません。 だれか分かる方教えていただけないでしょうか?? (1)ユダヤ教のメシア思想とキリスト教の「キリスト」理解の関係について。(「メシア」、「キリスト」の語義についても触れる) (2)新訳聖書の「福音書」について。(特に、「共観福音書」相互の文献学的関係がわかるように) (3)「ナザレのイエス」の生涯について。(歴史的イエス研究の立場から) (4)キリスト教の信仰対象としての「イエス・キリスト」について。 (5)キリスト教がイエスの十字架上での死の意味をどう理解したかを中心に、キリスト教の「贖罪論」について。 (6)エルサレム初代教会と、協会指導者としてのぺトロについて。(ぺトロについては、後のローマ・カトリック協会との関係についても触れる) (7)パウロの生涯、思想について。(パウロの思想の中心と言われる「信仰義認論」の内容が具体的に分かるように) (8)「ヨハネ黙示録」とキリスト教の終末論について。(「ヨハネ黙示録」の歴史的背景や精神的源泉についても触れる)

  • 聖書って経典としてどうなんでしょうか?

    聖書って経典としてどうなんでしょうか? 私は宗教に関しては無関心というか、知的好奇心の対象ではあっても信仰の対象ではない、そういう人間です。 学生時代、仏教系学校に通っていたので、仏教の考えや般若心経の和訳などを学びました。その内容は非常にロジカルで、無宗教の自分もなるほど、と思う内容でした。人間の認識機能や思考法など、現代の脳科学にもつながってくるのではないか、と思ったほどでした。 般若心経など、まるで学術書のようです。 ただ、そんなに優れた思考法を伝える仏教が変な儀式(オカルティックな思想とかひたすらお教をつぶやくとか、煌びやかなご本尊を崇めるとか死者の何回忌をやってお金を取るとか)ばかりなのは理不尽に思いましたが、まあこれは釈尊の教えではなく、現世組織としての仏教が存続するための営利行為として必要悪であると認識しています。 そこでほかの宗教の経典(に当たる書物)もそういう優れた思想で出来ているのだろうと思い、世界的な宗教であるキリスト教の聖書を読んでみました。 しかしながら、聖書は小説としては非常に面白い読み物であるとは思いましたが、教えと言いますか、ロジカルさが欠片も感じられませんでした。 ただのファンタジー小説、あるいは神話をより歴史的な形式にした読み物、といった感じです。 しかも神は全知全能と銘打ってる割にいきなりサタンにアダムとイブを騙されたりとか、増えすぎた人類を自分で手綱を取れず、大洪水で滅ぼしてしまうとか、全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、なんでこれが世界的に信仰されてるのかさっぱり理解できません。 確かに読み物としてはそこそこ面白い。それに良くも悪くも、寓話的な話も多いので、内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、そこからなんらかの知恵というか思考法を読み取るものなのかもしれません。 しかし、そういうのってただのイソップとかそういう寓話と同レベルな気もしますし。 般若心経のほうが経典としてはずっと理路整然としてて分かりやすくてシンプルに思うのですが…… なんというか、般若心経は学術書、聖書は俗っぽい小説、という感じで、これが宗教における経典として同じものなのか、と驚きました。 でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? 僕の理解力が悪いのかそういうふうにしか感じられないわけですが、キリスト教に詳しい方、解説をお願いできないでしょうか?

  • 聖書はユダヤ民族の聖典である。後にユダヤ教と呼ばれ

    聖書はユダヤ民族の聖典である。後にユダヤ教と呼ばれる。イスラム教の教祖であるアッラーのアブラハムはユダヤ民族のノアの箱船に乗って大洪水から逃れたユダヤ民族の子孫であり、ユダヤ教の教えを、大洪水から逃れて辿り着いたイスラム国で教えたので、イスラム教の教典の元はユダヤ教の聖書である。 キリスト教はどのような経緯で誕生したのでしょう? ユダヤ教>イスラム教の誕生の流れは理解出来ましたが、キリスト教の誕生の歴史が分かりません。 ナチスドイツはキリスト教ですよね?なぜユダヤ教を迫害したのかも理解出来ません。 キリスト教がユダヤ民族の聖典を奪い取り、ユダヤ教と名付け、旧約聖書としてユダヤ民族の歴史をそのまま奪い取ろうとしたのがキリスト教という認識で良いのでしょうか? キリスト教は悪魔のような感じですかね。 なぜユダヤ民族の歴史をそのまま略奪した略奪者のイエス・キリストがここまで信仰されているのか理解出来ません。イエス・キリストもノアの箱船で助かったユダヤ民族の子孫ですよね?なぜキリスト教は自分の祖先であるユダヤ教とイスラム教をこの世界から抹消しようとしているのか疑問です。

  • 新約聖書は成立せずとの説について

     その基本的な内容をお教えください。  おおきな主題ですので 基本的な事項を掲げて その参照資料を挙げていただくかたちでもよろしいでしょうし。  あるいは 一つの項目について やはり基本的な内容はこうだと示してくださるのも ありがたいです。  なおわたくしは 仮りにイエスが実在の人物でなかったとしても あるいはまた 聖書がいわゆる偽書であったとしても そこに書かれたことがらは 信仰の現実的にして社会構造的なあり方を示していると捉えています。  これは しかも 信仰一般のことです。あるいはつまり 人間一般のふつうの歴史社会的な存在のあり方のことです。  さらにつまりはまた 信仰とは もしその内容が実現した場合には 消えてなくなるものです。その時には見えていなかったものが 見えたというのであれば もはや信じる必要はなくなっています。  なお このような見解に立って ご回答の内容について さらに説明の補足をお願いすることがあると思います。また 筋の違ったご回答については そのまま ご遠慮願うと思います。その点も お断わりしつつ。

  • 西洋哲学と聖書の関係

    聖書は神の著作物であるとされます。それゆえなのか、内容は大変に深いものがあります。その深さに気づけばいいのですが、多くの人は浅い理解のままで、「これが聖書だ!」と決めつけて しまっているように思います。私は、西洋哲学・神秘学の多くが聖書の部分解釈の結果であるように感じています。 例をあげましょう。 ニーチェの超人哲学ですが、多くのクリスチャンが彼の超人思想を、反キリスト的だと見做しますし、彼個人も「神は死んだ」と叫んでいます。 私は、彼の超人思想も聖書思想の断片だと思っています。新約聖書を読みますと、イエスの弟子が沢山登場します。例えば聖ヨハネですが、彼はイエス様に出会う前までは漁師である父の手伝いをしていた、ごく普通の人ではなかったかと思われます。そんな彼がイエス様に見い出され、人間が変わった。彼は後に「ヨハネによる福音書」を書いていますが、この福音書はとてつもなく霊的に深い書物です。聖霊の導きがあったとはいえ、このような書物を書く人は、私にはとても凡人だとは思えません。まさに超人だと思います。 新約聖書では、弟子たちのとてつもない変貌(「超人化」あるいは「キリスト化」だといっていいもの)が、さりげなく語られています。人は超人になることが目的ではないからでしょう。超人になって、神と隣人に奉仕することが目的だからだと思われます。 人は、全能の神由来の「いのちの息」を持っています。その特性は、私の想像ですが、いのちの息とは本来「永遠性・超人性を持ち、愛に満ちた」ものであったと思います。ですから、イエス様によって罪が赦された者は、いのちの息が本来持っている特性を回復するのではないでしょうか。 以上、ニーチェの超人思想と聖書の関係を述べましたが、他の哲学でも聖書の断片的な解釈をしているように思われるものが沢山あります。それを単に批判的に忌避するのではなく、聖書解釈の新視点と見て、聖書を深く知る手掛かりにすることも大切な作業ではないかと思います。

  • 宗教画って一体・・・

    学校の授業で宗教画を取り扱っていて、 それに関するレポート課題がでました キリスト教の宗教画が 聖書の内容を説明するためだった、一般の人に聖書を理解させるためだった ということはわかったのですが もう少し宗教画についての歴史が知りたいです どのように始まって、どのように変化していったかなどなど 人がどのように受け入れて 芸術家はどのように描いていったのかなどなど 教えてください!

  • 聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性

    聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性 さて、日本で文字である漢字が初めて導入したのは、仏典の輸入が動機であった。 仏教は当初貴族階級の教養であり、文字の導入でとりかかったのは、自国の神話と歴史を文字を活用して口伝伝承から明白な記録に改変することだった。 たいてい諸外国でも文字を学ぶ教科書は聖典を活用することが多い、聖書もその役目であり、明文化した過去記録が盤石であること自体が口伝文化では驚きであったため、聖書の解釈は自由、しかし聖書そのものは改変するな、こうしたしきたりができて、西洋の絶対の概念はそこから派生したのだろう。 さて、質問その1。 文字を導入する教科書に神や信仰について書かれたことが好まれる傾向を私は指摘しましたが、その類例や例外に関して何か証言をお願いします。 さて、世界を見渡すギリシャ神話とかは、すでに信仰の主流から外れた枯れた神話として引用されるだけだ。 西洋では、聖書というのは生きた神話といえる。 イエスを主人公にした神話であるために、あろうことか、イエス実在の確信すら疑問を持つほどに、神話性に関して各個人で交錯する思惑があります。 質問その2、 イエス実在への疑念について、何か参考として記述できることがあったらご回答として参加してください。 文字で記載された、神話と歴史の交錯する西洋の原点である聖書に関しては、イエスは頑然と絶対とまで言われて守られたからには、語られる証言は間違いなくイエスは実在したのでしょう。 歴史検証で、信仰と切り離してイエスのいきさつを考察すると、彼はほろんだ王国の信仰心の伝道師であり、文明勃興期の王と神の一元の時代そのままの風習が一般的な風土で、彼の語る聖職者としての真摯な言葉は、イエス自らが、ほろんだ王国の王であると名乗るのにも等しかったのだろう。そしてローマはイエスを反逆罪で処刑した。これは現代の法の精神でも不条理ではない。 当時はこの事実は宗教裁判ではなかった。 政治的な単純な反逆罪だった。 しかし、後世でローマ皇帝自体がイエス処刑に関して宗教裁判的に問いただされることになる。 ローマは、政治的にイエス処刑をユダヤ人に責任転嫁した。それは聖書にも記載されたことだ。 イエスは生きた人として、ユダヤの信仰のための聖職者だっただろう。 しかしよりによって、ユダヤをさらに抑圧するための「呪いの材料」に使われることになる。 王が主権を収める時代、国家主権全体の根拠は、「王と神一元に時代」の文明の共通する原点から根拠は神の存在や信仰の原点にさかのぼる。 ユダヤではなくて、ローマを原点にする限りキリスト教圏の古典的主権の根拠とは「裏切り者や卑怯者が作った国家群」ということになる。 我らは罪深いというのは、人類共通ではなくてキリスト教徒の精神的土壌として反映されたどうでもいい事なのだろう。 質問主題は、歴史的にイエスを考察した、最後の論考への意見募集です。 これらは基本的に、神話時代と歴史時代を横断して、王と神の一元の文明の根拠がいまだに揺るがない、日本という地上に存在する唯一の真の王国では、イエスの悲惨な末路は「ほろんだ王国の神話」として極めて重い精神的疫病であることから問題意識を持ちました。

  • 聖書記載内容の解釈についてご意見願います。

    聖書は多くの文学芸術のモチーフの一部となっておりますが、多く表現されているようにあくまで比喩的・詩的表現であることは事実のようであります。 文面どおり解釈・倫理人道的な意味に受け取る伝統も重要ではありますが、詩的比喩的内容をそのまま解釈して良いものでしょうか?比喩である以上根底には真意・真実があるのです。 実は1章ごとに区画分類された未来科学の「預言の書」なのです。 様々な章節には活版印刷・羅針盤・魚群探知機・衛星GPSなども表現されています。 また医学生理学的な分野への表現は微細・現代の基礎生理学にも匹敵する内容とも受け取れるのです。 聖書「コリント人への手紙」がインターネツト社会やパーソナルコンピューターの普及とそれに伴う社会問題・ソフト・ハード面を詩的(比喩)に表現した内容であることは周知の事実です。 同様に聖書「ガラテヤ人への手紙」は大陸移動説・プレートテクトニクス理論による造山活動・裏付けとなる植生分布・大陸接合部・海溝部などによる大地震発生のメカニズムなどを比喩的に表現した部分である。 勿論お読みいただいた方々のお考え次第です。「信じるものは(比喩的表現の幻想から)救われる」 歴史上多くの書物・伝説において・そして聖書においてさえも「預言者」の存在が明記伝承されています。残念ながら私自身には超能力はありませんが、明確にその存在が指摘されています。 聖書にもあるよう普通の人々には受け入れ難い事実・キリストの架刑の例もあるように迫害される危険性を多く孕んでいるのが現実です。 聖書以前にもオリンポスの神々などの神話でやはり比喩的・詩的表現なのですが、現代のインターネット社会や宇宙観の話題がとりあげてあるのです。