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天正10年ごろ徳川家康は何をしていましたか?
noname#101087の回答
>天正10年ごろ.....家康......切支丹禁止令15条。 初耳(初目)です。参考までに、その日付など教えてください。 ちなみに天正十年といえば、家康が信長の采配のもと北条氏らと連携して甲信武田氏を攻めて滅亡させ、 本能寺の変で信長が亡くなると、甲信両国の制圧に奔走していたころです。
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補足
ありがとうございます。 古文書(巻物)を再確認しました。 題名が「家康公御條目拾五箇條之控 宗門寺旦那請合之控」で 日付が「天正拾年壬午五月」となっています。 内容は切支丹禁止令とまではいえないもののようです。 「一.切支丹之法は死を不願、身より血を出して死を成せは成仏と立つ。故に天下之法度厳密なる。実に邪宗邪法也。依之死をあやしうする者可遂吟味事」 で始まり、最後が、 「天下の諸寺院宗門請合の面々、此一條も相欠候ては、越度可被仰付能々可相守者也」で終わっています。 すなわち諸寺院に切支丹を請合うなという命令のようです。 「天下之敵、万民の怨は切支丹不受不施非田宗なり」とまでいっていますから、キリシタンをよほど毛嫌いしていたようです。 そのような歴史的事実がありますか? よろしくお願いします。