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織田信長と徳川家康の弱点

織田信長と徳川家康の弱点を教えてください。 学校の授業で、討論をします。 私は、豊臣秀吉派です。 よろしくお願いします。

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  • hurasuke
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回答No.3

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。  何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。  まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信には強攻策を出さない代わりに、弱い大名や烏合の衆である百姓一揆、非戦闘員に対しての無差別の虐殺を多数行いました。それだけでなく、神仏を破壊し続け、将軍だけでなく天皇をないがしろにすることはなはだしかった等々の記録が多数残っています。それだけに留まらず、部下に対しては恐怖政治を行い、吝嗇家(ケチですね)であったようです。  その結果、当たり前ではありますが、多数の人に恨みを買いまくり、非業の死を遂げました。自業自得ですね。  秀吉はひょうきんで人に愛される人柄で、工夫上手であったことから、一介の農民から前代未聞の出世を遂げました。しかし、本人は名も亡き家出身ということを常にコンプレックスを持っていました。将軍になりたかったのに、それができなかったのは家柄のせいですね。実績は問題ありませんから。  一番人気のある人に思われることが多いですが、それは太閤記という御用作家の書いた書物(曲げられて書かれた事実)と、没後十数年で豊臣家が滅亡したことに対しての同情があったものと思われます。  この人の欠点は、やはり家柄コンプレックスだったと思われます。自分の出身階級である農民層に対する虐殺や、農民を非人間的目的で使った戦闘などの記録が残っています。また、全国統一した後に、信長の夢であった朝鮮・中国(明)支配目的とした出兵を行ってしまったこと・・・これは許されることではありません。これにより、戦乱で疲れていた国内はますます疲弊し、豊臣家の支配に対する疑念を各大名に与えることになりました。また、晩年は一子秀頼のことしか頭になく、為政者としての責任を果たしたとは言えなかったと思います。  最後に家康ですが、幼年時より苦渋の人質生活を余儀なくされ、そんな中で強いものにうまく巻かれる生き方を学び、信長の同盟者として、秀吉の同盟者として、難しい時代を生き抜きました。この忍耐力はまことにすばらしいでしょう。大器晩成の見本のようです。  豊臣秀吉の没した直後は、一応の天下統一が成った後とはいえ、まだ安定とは程遠い時代でもありました。そこで五大老の筆頭という立場にいながら、豊臣家家臣に相互不信の種をまき、戦乱で疲れた日本に、無駄な戦乱を起こしました。関が原の戦いや大阪の陣は、日本一の所領を持つ家康にとっては、避けて通れたものであったと私は考えます。家康が、そうまでして豊臣家を滅ぼしにかかったのは、「徳川家が政権をとる形で平和な日本を作ること」であって、「日本を平和にできるのなら、誰がそれを行ってもかまわない」という民百姓の心とは無縁なものでした。  その証拠に、信長が実行して秀吉が模倣した民百姓への仕打ちを継承し、「民は生かさず殺さず」という江戸時代が出来上がっていったのです。戦乱の収まった平和な時代に士農工商制度が必要だったとは私は思いません。大勢の貧しい人の上にあぐらをかく武士、その上で更にのんびりしている将軍・・・そういった中で、民衆に不満が溜まり、いくつかの乱に発展したと思われます。  また、徳川家の政治をひっくり返されることを恐れての鎖国政策もうなずけません。これがあったからこそ、明治の幕開けで、日本は西欧諸国に大きな遅れをとるのです。そして、その遅れが焦りにつながり、西欧諸国に負けないような国になろうと奔走した結果、朝鮮や中国への出兵となり、暴走した軍部がアメリカに戦争をしかけて敗戦となるわけです。  敗戦の責任が徳川だけにあるとは言いませんが(笑)。

hosibudou
質問者

お礼

すごく分かりやすいです。 ありがとうございます。

その他の回答 (2)

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.2

そうですね この時代の一般的常識 慣例にたいしての対極への志向性と実行力でしょうか   一般的に言われているのは 中世的権威の否定を軸とする革新性 と強い個性の斬新性    家康は国家的治政とその戦略の貧弱性でしょうか 以上が 逆弱点 以上を軸に討論の構築ができますか  農業史や商業史 また水運史から 戦国時代を見るのも おもしろいですよ 君のような年なら りっぱに 元服して 甲冑に刀をさして 槍を持って 素足で駆けずり回って 首のひとつでも かききって もって帰らなければ 家の恥 武門の恥 面目なし という空気のなかです  歴史漫画や 歴史ゲームのような うわべの戦国ごっこしても 答えは決まってるでしょうしね 信長がどう 家康がどう 秀吉がどうといっても その他大勢で作った時代だからね いつの時代も その他大勢が どう暮らしたか ね ひとつ話をします 昔 家康が竹千代といわれたころ 今川に人質として 駿河に行くときお父さんの家来の一人に さらわれ 船で 信長のお父さんの信秀側に金で渡されました 織田の人質になってしまったわけです このとき 拉致の首謀 実行は 現愛知県渥美半島のつけ根の田原市というところの 水運業者たちだといわれています そこを領地にしていたのがその家来です ですが、その業者たちの意向を無視できなかったということです  政治がどうだろうと 水運業者はいまでゆう企業です 自由な商いをさせない 義元より 自由な織田をえらんだということです ですから預けられたところは愛知県の熱田市の 熱田および熱田の水運を束ねた加藤という商人武士の家です 伊勢湾熱田三河という 水運交易の力が働いたというわけです 槍や鉄砲だけで 武士が戦ったというものばかりではないんですよ 怪我するし 死ぬし 決戦なんて 漫画のせかいですよ 戦わない 戦わなくて勝つ つまり 数の力で 戦う前に脅かして 相手を屈服させる  城攻は 逃げ道を作って攻める 武装解除はしない 相手が城を捨てて逃げるようにする 世界広しといえどね こんな国ないですよ  死傷者が多く出たのは 敵が背中を見せて逃げるときと偶然の遭遇戦だけです 今と違ってGPSありませんから 忍者が情報を集めるなんてこともない 村々は自分たちで自治していますから よそ者はすぐ殺されますしね 簡単じゃなかったんですよ だから 遭遇する 偶然ということです この時代の馬は時速 8Km それ以上のスピードでは死にます それでも歩くより楽 逃げるときに 必要 このスピードでもみんな甲冑で重くてはしれませんので にげきれますから 命のやり取りはあったのですから 勇ましいことなんでしょうが 漫画の前田慶次のようではなく そうだ 秀吉の家来に 上田宗固という人は 漫画には出てきませんが 強烈な肝っ玉の武士のようです 最後に武田の騎馬軍団は 編成されておりませんし ありません 長くなりました ごめんね         

hosibudou
質問者

お礼

知らないことばかりでした。 ありがとうございます。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.1

「織田信長と徳川家康」については腐るほど本が出ていますので、読んで勉強してください。

hosibudou
質問者

お礼

すみません。 分かりました。 回答してくださってありがとうございます。

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