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ヘーゲルの自己意識にとってのもう一つの自己意識とは?

hegelianの回答

  • hegelian
  • ベストアンサー率31% (5/16)
回答No.1

 たびたび失礼します。  『精神現象学』はとても抽象的に書かれています。自信があるわけではないのですが、参考の一助になりましたら幸いです。 >という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?  はい、そうです。  ご質問の『精神現象学』の文章の直前(139~140)で、自己意識は他者を欲望の対象とします。しかし他者を廃棄してしまったら、それは無くなってしまうので満足できない。そこでもう一つ別の自己意識から満足を得ようとする。*  引用された最初の文章を読むと、ヘーゲルがかなりアクロバティックな考えを展開させていることが分ります。  まず自分を承認してくれる、別の自己意識―それは自分に意識されている―に自分を見出すことで、元の自己意識を失う。  別の自己意識に自分を見出すということは、(言ってしまえば他人を追い出してしまうので)「もう一方の相手を破棄して」しまう。** >また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?  これはパスします。  ヘーゲルは引用された文章をとても抽象的に展開しているので、私には分りません。あまりに抽象的なので上掲の私の説明も、誤解の可能性があります。 *とても通俗的な例で例えます。  美食家が食べることで満足を得ていた。しかし対象物を食べていてはその対象は無くなってしまう。むしろ他の人に美食家として認知されることで満足を得ようとする。 **これもとても通俗的に例えてみます。(私もこの箇所は2通りに解釈できるので、2パターン揚げてみます。)  恋人Lにお熱のあまり、我を忘れてしまう。しかも実はL自身を好きというよりも、自分の意識に反映したLのことが好きだった。(または好きだと思っていたLは自分の反映にすぎなかった。)

rai317
質問者

お礼

hegelianさん、ご回答ありがとうございます。 >>しかし他者を廃棄してしまったら、それは無くなってしまうので満足できない。そこでもう一つ別の自己意識から満足を得ようとする。* という事は、他者はもう一つ別の自己意識とは微妙に違うんですね。 >>まず自分を承認してくれる、別の自己意識―それは自分に意識されている―に自分を見出すことで、元の自己意識を失う。 元の自己意識と別の自己意識を同時に見ることはできないのでしょうか。 >> 別の自己意識に自分を見出すということは、(言ってしまえば他人を追い出してしまうので)「もう一方の相手を破棄して」しまう。**  べつの自己意識に自分を見出す、これは承認を求めるとは少し意味が違うんでしょうかね。 ご回答ありがとうございました。

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