マルクスの宗教論:世界意識と倒錯について

このQ&Aのポイント
  • マルクスは「倒錯した世界意識である宗教を生み出す」と述べていますが、これは人間の自己意識や自己感情に基づく宗教が、個人の真の現実性を見失い、社会や国家の倒錯した宗教的な意識を生み出すことを指しています。
  • 彼が言う「世界意識」とは、人間が宗教を創造する際に持つ自己意識や自己感情のことを指しています。人間は宗教を通じて、自分自身の反映や非人間的な存在を求める傾向があります。
  • しかし、人間は単なる抽象的な存在ではなく、社会や国家といった現実的な世界で生きています。マルクスによれば、この社会的な結合が倒錯した世界意識である宗教を生み出すのです。つまり、社会や国家の倒錯した価値観や意識が宗教的な形で具体化されると言えます。
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マルクスが言う「倒錯した世界意識である宗教を生み出す」とは、分かり易く言うとどういう意味ですか?

マルクスは『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』の中で、次の様に述べています。 「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果たされているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。  誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈りが論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な存在も危うくなっている。天国という空想的現実の中に超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探究する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。  反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである。」 (城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫・1974年、71~72頁参照) 彼が言う「世界意識」とは何なのですか?また、それが「倒錯」する、というのはどういうことを意味しているのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • pyon1956
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回答No.3

>彼が言う「世界意識」 世界意識はヘーゲルの用語世界精神と同じものだと思うのですが、この場合は神様のことと考えていいかとおもいます(ヘーゲル派独特のニュアンスはあるのですがまあ大雑把にはそういうことでしょう)。 倒錯、この場合は逆立ちしている、つまり原因と結果が逆になっている、という意味。 神様は人間の作ったものなのに、神様から人間のあれこれを考える(それが宗教)のは逆立ちした考えですよ、といっているのです。

maria_sharapova
質問者

お礼

とてもよく分かりました。ありがとうございます。

その他の回答 (2)

回答No.2

この場合人間の世界、国家、社会的結合が倒錯していない世界になりそうですね。具体的には日本とか全世界とか現在の状況、現実を表現したものだと思います。 そして現実とは厳しいものなのでそこで倒錯した世界意識である宗教を生み出すのだと思います。 で、その倒錯した世界意識である宗教とは厳しい現実を公平な秩序を作り、厳しさを和らげ、人間が集団で生活するための理想を教え説いたものが(ひとつの)宗教ではないでしょうか。この時理想が『倒錯した』考えでありその考えに追従することが世界意識であり仏教やキリスト教、イスラム教である、またはそれに帰依することではないでしょうか。 頭が痛くなりそうなのでこの辺で終わります(´Д`)。

  • kobakoba3
  • ベストアンサー率39% (89/225)
回答No.1

 おそらく、適当な日本語の訳語が見つからなかったので世界意識などと言う特別になにか意味のあるかのような単語があてがわれていますが、人間社会を見るときに、宗教的なものの見方・考え方をするのが当たり前であった時代の「宗教的な世界観」を指しているものと理解しています。  人間が宗教をつくりだしたのであって、神様が人間をつくったのではないということは、唯物論者のマルクスにとって自明のことでしたが、まったく逆に理解するのが当たり前だった(教会の権威がいかにすさまじかったか、現代の、しかも、日本人であるわれわれにはほとんど想像不可能だと思います)当時のヨーロッパにあって、それを「倒錯」と言いきったところが、マルクスの只者ではないところです。

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