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和歌山城の堀

先日、和歌山へいき、井出ラーメンをたべ、和歌山城を見学してきました。  さて和歌山城の南西部分は堀がありません。現在になって埋め立てられたのではなく、古図をみても築城当時からないようです。なぜでしょうか。通常なら堀は周囲を囲うか、大阪城や名古屋城のように一部分だけ空堀にするかですが、和歌山城はそれもないです。  北海道の松前城は外国が海岸から上陸したときに備え、海側は堀が2重で堅固だが、山側は防備が手薄で欠陥城だとききました。和歌山城もそれと同じように、大坂城の豊臣秀頼に備え、北側を堅固にして南は手薄にしたんでしょうか。

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  • tanuki4u
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回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E#_note-0 総構えにしようとしたが、あまりに巨大すぎて、幕府に疑われたので、南部の工事はやめたということのようです。 確かに 和歌山の地図を見たら、掘止 という地名がありましたよ。 疑われたのは、初代頼宣のキャラのせいもありますが。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3

その他の回答 (2)

回答No.3

和歌山城のことではなく、ある文化財セミナーで聞いた「城の見方」についての一般論です。 明治初期、各地の城郭が陸軍省の管轄になってから、陸軍省主体で要塞や砦としての機能を主眼に調査・研究が進んだ結果、城は「攻めるに難く守るに易し」の軍事面で論じられることが多い。 しかし、戦国時代を生き抜いて時代に敏感な領主は、関が原後は、軍事より産業・経済の発展こそが領国経営の根幹であると考えるようになった。 そこで、近世の城は、領主の政治力を誇示して「見せる」という観点から築城されたことも見落としてはならないという主旨でした。 一例として、守りの第一関門である「虎口(こぐち)」でさえ、「見せる城」を意識して形づくられています。 福山城の東御門も西御門も、虎口を通して天守が一直線に見えるように虎口の形ができています。 姫路城の「くまかた門」も、通路を食い違いにしておきながら、街道から一直線に天守が見えるようになっています。 つまり、街道を通る他国者に天守の威容を見せるようになっています。 虎口の一般的な説明は次のURLを見てください。 http://sidokan.hp.infoseek.co.jp/page141.html 姫路城の初代城主・池田輝政は『武功雑記』で「篭城すれば負け」と言っています。 2万以上の兵力を動員する当時の戦では、進んで出撃して勝敗を決する戦法が有効で、援軍を待つ状態になれば負け戦ということです。 このセミナーでは、姫路城の内曲輪の縄張がはたして実用的なのか、むしろ軍事的には時代おくれという話でした。 近世の城の縄張を見るときは、中世の城のように篭城した場合の強固さを視点にしてはならないと思います。 1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したことは、堀や縄張の考え方に大きな影響を与えました。防禦性よりは、城下町の利便性をさらに重視するようになりました。 水がきれいな濠は軍事面で実用にならず、ヘドロが堆積して舟や人が渡りにくいことが肝要です。 和歌山城も福山城も、外から見ただけでよく知りませんが、築城や大改修が夏の陣以後になされたのであれば、縄張の考え方が変わったという面もあるのではないでしょうか。

  • buchi-dog
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回答No.2

和歌山城のことは良く分かりませんが、質問者様のご指摘と同様に「城の搦め手の防御設備がぽっかり欠落している」欠陥城郭として、備後の福山城がありました。探せば他にもあるでしょう。 福山城(備後) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%82%99%E5%BE%8C%E5%9B%BD) 「『搦手の不備』 福山城の北側は築城当初から堀や石垣が設けられず福山城の弱点とされている。俗説では幕府に配慮したためといわれる[3]が、実際には防備を不完全にすることは「城」として意味をなさないことになるので、幕府の西国における拠点という築城の目的からすれば本末転倒であり、予算不足、あるいは当初城背の吉津川を芦田川の本流にして後堅固とする計画が中止になったことにより、結果的に未完となった可能性が高いようである。このことは洪水による工事の中断がありながら、普請(土木工事)を1年半という極めて短期で終えていることからも推測できる。しかし、築城後に徳川幕府の盤石が決定的になったためか工事が再開されることはついになく、明治維新にはこの北側から新政府軍(長州軍)の城内への進入を容易に許し図らずも脆弱さを証明している」 福山城は、徳川家の仮想敵国である毛利家の領国(周防・長門)に接し、「中国の要」として、有力な譜代大名が領していました。藩主の交代も少ないです。そのような城が「大手だけに防御を施した欠陥城郭」だったのですから何のことやら…と驚きますね。 和歌山城、福山城、いずれも 「予算を考えずに欲張って縄張りした結果、築城の途中で予算が尽きてしまい、無い袖は振れないとそのまま放置された」 結果と思われます。

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