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倫理観は、自分で変えられるか

genialoideの回答

回答No.5

>倫理観は、規範や道徳、正しさの拠所のことだと考えてます。 う~む、言いたいことは「何となく」分かるが、突き詰めて考えると意味不明だ。 まず、「倫理観」=道徳観念ととらえると、それは、たとえば『武士道』に表象されるもののように、「変わる」ものでもないし、また個人が「変える」類のものでもなかろう。 この点につき、No.1さんと同意見。 「変わる」「変える」以前に不変でなければ困ってしまう、数学の定義みたいなものではなかろうか。 とすると、倫理観=生きていく上でのルールということでよろしいのだろうか。 そうであれば、まず、倫理観と宗教、神の存在とを混同して論ずることはあまり意味がなく、また危険でもありましょうから、ここでは上記の意味での倫理観について述べます。  おそらくあらゆる人間が、それが『道徳的』であるか否かは別として、ある一定のルールに基づいて行動していると思います。  たとえ一見相矛盾する行動をとる人であっても、その裏には、人に言われた通りする、その場で最もラクそうな行動を選択する、といったルールがある筈です。 『それらルールが、周囲の人間の影響により「変わる」ことはある』 これが本問のスタートとなるのでしょうが、そもそもここに瑕疵があると思います。 果たして本当にそうだったのでしょうか? 周囲の人間、あるいは本や映画等の影響というのはきっかけであり、それらの影響を元に、それまでの自分のルールを修正しそれを継続するには、自らの意思の力(脳の働き)が必要だったはずです。 認知心理学の本を二、三ひもといて頂ければお分かりになられるかと思いますが、脳というものもなかなかくせ者で、一度とった行動に問題がないと、なかなか修正しようとしません。お役所仕事でよく言われるような、「今までこうだったから」、「前例がない・やったことがない」という作業(判断)が行われています。 それらの作業の多くは無意識に行われます。ルーティンワークはなおざりにされがちです。悪しき習慣・癖も無意識に行われるが故になかなか改まりません。逆に、起きてから寝るまで全ての行動に対して脳による意識的な判断を下すとなると、膨大な作業量が必要となり、重要な案件を処理する際の支障になりかねません。 ですから多くの人は、受け入れた情報に対して、いま、自分はどのように感じているか、あるいは、今までは別の行動をとったけど、この間の体験を元に今日はこうしようなどと客観的な分析を意識的には加えませんから、「自然に変わった」かのような感があるかもしれませんが、意識できる・できないに関わらず、自分の脳が「変えた」筈です。 あ~~、ここまで書いて、今分かった気がする。 要は、たとえば、無神論者たる自分を、自ら有神論者に「変える」ことができるか、ってことかな? 結論は同じだけど、例えば拷問されても神の存在が信じられるようになるわけもなく、脳が理解しないことには始まらないわけで。脳が理解するということは、『理解前の脳』とは違う脳になっているわけで。その『理解後の脳』が下す判断が『理解前の脳』と異なっているだけで、「変わった」というより、やはり「変えた」んです、何しろ「理解しよう」と自ら欲さなければ「理解」なんて向こうからやってきませんから。 これもハズレか?でももう打ち止め。 ちなみに、神の存在についてなら、(神の定義が不明なのでよく分かりませんが)教典読むのも勿論いいのでしょうが、数学とか美術とかやってみても『神』の存在を感じることはできると思います。どんな学問でも突き詰めていくと、人智を越えたものの存在を感じることがあります。それを『神』と呼ぶのかどうかは知りませんが。 あと、倫理観というか価値観についてですけど、価値観の変化に年齢は直接には関係ないはずです。要は脳の変化ですから、sensitivity,感受性の問題と思われます。年を取れば、やはりそれなりに脳内物質の分泌に変化があるのでしょうが、やはり個人差だと思います。若くても感受性あるいは観察力のない人はいっぱいいますから。観察力ないと感じる対象すら見つけられないでしょ。

noname#105425
質問者

お礼

長文ありがとうございました。 初めの方のお言葉でも十分納得です。 「武士道」を倫理観の中心に据えている人において、 その倫理観は不変でしょうか。 武士道を貫くことに生きづらさを覚えれば、 変わるor変えたいと願わないか。 ……ということが私の考えた、質問の前提でした。

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