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般若心経は間違った経典

bonbonnierの回答

回答No.15

まず小乗仏教と大乗仏教における空観の違いですが、小乗仏教は折空観といいまして、世界の事象を五位七十五法という要素に還元して、この法(ダルマ)は三世実体常有として永遠に存続し、宇宙法界のすべての存在は、このダルマによって構成されているが、我というものは要素の中に存在しないので我空と説きます。我空法有が小乗仏教の立場です。今日的意味合いでいえば、すべての存在は素粒子等の要素の集合体にすぎず、我というものはどこにも存在しないということになります。分析的知による空観であるわけです。 これに対して大乗仏教の空観は、体空観といい、止観の修行により、主観(私)と客観(もの)が分裂する以前の生命の最先端を覚知し、我法二空を説くものです。この空の覚においては、この主観と客観が分裂していませんので、「私は青いものを見る」ということが言えず、ただ青いものが光り輝いている、真実の青の世界が覚知されます。般若経ではそこを「光り輝く心」と説かれています。覚者が見たのは、月の光りをみても、月の光りそのものと一体となった光り輝く世界、生命充実の極点といえます。です。般若心経には、「以無所得故」と説かれていますが、対象となるべきもの(客観)と自己(主観)が一如ゆえ、対象として捉えることができません。般若経では、「縁起のゆえに無自性である、無自性のゆえに空である」と縁起=空を説きますが、すべての存在は自性がない、すなわち私という存在は他の存在との無尽の関係性の中で成立している私である、また、私という存在は他のすべての存在の支えともなっているという存在間の相依相即性を説きます。このように、空のあり方が小乗仏教と大乗仏教とでは全く違います。宗教的真理の深遠さは大乗仏教の空観にあるといえます。 始仏典の最古層にある『スッタニパータ』に「自我に執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。」と我法二空を説いています。しかし、原始仏典最古層の『サンユッタ・ニカーヤ』に、「じつに、比丘たちよ。未来世において比丘たちは、このようになるであろう。如来の説かれたそれらの経典は深遠であり、意味深く、世間を超え、空性に属するものである。それらが説かれているときに比丘たちはよく聞かないであろう。耳を傾けず、さとろうとする心を起こさないであろう。彼らはその教えを受持すべきものであり、熟達すべきののであるとおもわないであろう。」とあるように小乗仏教は一切皆空の教えを捨ててしまったわけです。 しかし、龍樹の名高い注釈者である月称は『中論注』の中で、龍樹菩薩が縁起にこれら生ずること等が説かれたのは、無明の暗さに害された智をもつ人の認識の境によってなのであると述べています。また龍樹も『中論』の中で、「一方、人にもし空見があるならば、その人々を治癒しがたい人とよんだのである」ともいわれています。大乗仏教においては一切皆空と観ずるのは無明の智による見ということになります。 では、龍樹にあって空の真義はどこにあったかといえば、中論にある「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出」の八不中道の戯論寂滅の涅槃の境地にあります。般若心経にも「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」と説かれるところです。また、この涅槃の境地はどこか遠い世界にあるのではなく、生死の世界が涅槃であると『中論』に説かれます。小乗仏教のように解脱して何も活動のない状態(無余依涅槃)が人間の最後に到達すべき目標であるのか、これを大乗仏教は否定します。龍樹は『中論』、『因縁心論』において輪廻転生を説きますが、大乗仏教は涅槃にも住せず、生死にも留まらず、三世にわたり生死の世界にあって、自らの生命を燃焼してやまない無住処涅槃を説きます。般若心経は小乗仏教の涅槃観の明確な否定でもあったのです。 この八不の戯論寂滅の境地とは大乗仏教において般若心経にも説かれる阿耨多羅三藐三菩提の覚りです。この大乗仏教の究極の覚りである阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚はパーリ上座部、説一切有部等でも早い頃から説かれたことがあったそうですが(平川彰著作集『初期大乗と法華思想』65頁以下)、小乗仏教が空、および阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚をいち早く捨ててしまったことは、先に示した『アングラッタ・ニカーヤ』に説かれた通りです。 原始経典『マッジマニカーヤ』の「聖求経」には不生・不滅・不老・不病・不憂・不汚なる無上の涅槃にあったことが説かれいます。釈尊が不生不滅の不死の境地に達したことは、原始経典最古層の『スッタニパータ』にも説かれています(225、635)。『スッタニパータ』には不死の境地とは戯論寂滅の境地であるとしています(1074、1076)。釈尊の覚りも龍樹の八不否定の不生不滅の境地、諸法実相の法理であったのです。これは『スッタニパータ』からもわかりますが、パーリ上座部、説一切有部等が当初、阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚の教えを説いていたことからも明らかであると思います。釈尊も八不の戯論寂滅の境地から縁起=空の教えを説いたのであり、この覚の構造は龍樹と同じものといえます。 また空とは生命充実の極点でもありますが、これを原始経典には自性清浄心-光り輝くこころと説かれています。仏性の教えでもありますが、空の覚智は生命の清浄性を意味しています。小乗仏教は空に限らず、自性性清浄心-光り輝くこころも捨て去ってしまい、龍樹の出現により釈尊の真実の教えに光りが当てられたのです(角川ソフィア文庫 仏教の思想 3 空の論理<中観>、または4認識と超越<唯識>)。大乗仏教の空の教えは小乗仏教徒が想像することもできない地平にあるといえます。

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