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自分が自分であることへの責任

noname002の回答

  • noname002
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回答No.5

>実際には、この世に生まれたときにはすでに生まれる時代も場所も、肉体も勝手に決められてしまっています さあ、どうなんでしょうね? 本当は、ちゃんと自分で選択しているよ、という説もあるようなのですが。。。 要は、自分で選んだという感じがしない、自覚はないよ、と主観でしか言えないということでしょう、フツーはね。 まぁ「生まれる前」のこと等は考えても確実な答えの出しようがないことではあります。現に「生まれてくる前に選択した」という記憶や自覚がないわけなのですから。 一応、辞書を見てみましょう。 【主体】 1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の―」 2 物事を構成するうえで中心となっているもの。「食餌療法を―に種々の治療を行う」「市民―の祭典」 3 《語源の(ギリシア)hypokeimennは、根底にあるもの、基体の意》哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの。認識論では主観と同義。個人的、実践的、歴史的、社会的、身体的な自我の働きが強調される場合、この主体という言葉が用いられる。 本御質問の場合 1の「自覚や意志に基づいて」という部分を重くみていらっしゃるようですが、このあと「行動したり作用を他に及ぼしたりするもの」と続いていますね。 2では「物事を構成するうえで中心となっているもの」と続きます。 そして3「哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの」とあり、「認識論では主観と同義」ともあります。 どうも「主体」とは、選択をしたからできるから主体、というより、構成事物の中心であり、作用を他に及ぼす、ということが肝腎なところのようにも受け取れます。そして「主観と同義」。 >責任を持たなくてはならないのか?または持てるのか? それと共に生まれ落ち、だから、もうすでに持っている持てているはず、とも言えるのではないでしょうか。 だって現に「他に作用を及ぼしている構成事物の中心」なのですから。 御質問者様の御考えでは責任というものは主体にプラスされるものということのように見受けますが、もしかして主体すでに責任とイコールなのかもしれません。 考えてみたら我々、生まれ落ちた瞬間いや母親の腹中に生じた時点で、もう「他に作用を及ぼしている構成事物の中心」なんですよね。 そうしてみると「主体的に責任を持って」とは、よく言われるようですが、奇妙なというかトートロジー的言いかたになりますね。 または、責任持てないということは「構成事物の中心」でない、究極、存在すらしていない、ということになりそうな。 或いは >世界の必然的な現象の一部分として発生した ことと主体であるかないか責任を持つか持たないかを論じることは主観なき主体を論じるナンセンスなのかもしれません。いや心情としては分かるつもりなんですけれども。

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