• ベストアンサー

宗教団体について

頭文字で分る方は分ると思いますが、WMという会員を退会した方はいらっしゃいませんか?辞めた途端家族に不幸があったり、社会生活に支障をきたりしたとかはないでしょうか?私はいつもささやき声が聞こえたり辞めるのが怖いので続けている状態です。教祖が終末論や霊の話ばかりするのでとても断ち切れません。教団の批判をするつもりはありませんし、そういう方の意見も結構です。また一般的な宗教論などのご意見もお断りします。真剣に苦しんでいます、まじめな、退会された方のアドバイス是非お願いします。教義が葛藤を克服するのが学びだという事ですが、入会している影響で社会生活が破綻してやる必要はないと思います。私は在会者で他教団の中傷などでは断じてありませんので!!本当に辞めた経験のある方のご意見下さい!

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • poponponpo
  • ベストアンサー率29% (965/3218)
回答No.1

裁判という社会的な判断によりWMの考えは否定されています。 私はWMに所属していませんが幸せです。 しかもWMを否定する意見の持ち主ですが、WMの教えでは私はどのようになってしまうのでしょうか? 「葛藤を克服」と言う教えはお金に執着する心を否定し、WMにお金を集めるためのものです。 ですから私はあなたに命令します「できるだけ早くWMを止めなさい。」 あなたはこの葛藤を克服してWMを止めるわけですが、それによりWMの呪縛から逃れることが出来るわけです。 最後にもう一度、私はWMを否定する立場ですが幸せです。

参考URL:
http://homepage1.nifty.com/kito/wm-info.htm
3001abc
質問者

お礼

お礼遅れました。有難う御座います。少し否定をいたしますと、私は献金とかの社会的な事を言っているのではありません。最初お答え頂いた方の自動受信はすぐ次の日に来ていますが、この質問は何故か3日後、丁度WMのことで悶絶してる時間に丁度自動受信が来ていますね。単に偶然でしょうが、このような馬鹿げた偶然がさも目に見えない力で起きたかのような錯覚が繰り返し起きるのです。教祖が超自然的な話を何年もするので、少しの事でも全部霊のせいにしてしまうのです。教祖は防ぎようが無いと万能の方が自分でいっています。車のパンク、インターネット、電車が止まった・・全部霊のせいにしています。普通毎回こんな話では必ず頭がおかしくなって社会生活が出来なくなります。私は何年もいるので、毎年酷くなっています。せき、くしゃみ、クラクション、虫、無言電話、パトカー・・全部霊の仕業と関連付けてしまっています。辞めると決心した瞬間電話が家から来て父親が失業した、とか突然外から大声でその瞬間根性なしと怒鳴ってたアホがいたとか、辞めようと思うと背筋が凍えるようになる、社会に後ろめたくて生きる気持ちになれなくなる・・まぁ恐ろしい弊害ですね!ささやき声は毎日頻繁に聞こえますね。もうぶっこわされているでしょう。しかし裁判では立件出来ません。教祖は神の話をしているので自分のせいにされます。神にせよ何かにつけ超常現象の話ばっかりでは普通に物が見れなくなって頭がおかしくなるのは当然です。教祖は神からずれているせいだとおっしゃいます。しかし私は入会前本を読んだ時から変な現象ばかり起きています、本を読む前は普通でした。毎日霊ノイローゼで発狂するような毎日でした。何とか神事に全財産を出してしまっていますので今無一文です。金がなくなれば会費払わないから自然に退会出来るでしょう。退会の代償は人生を台無しにされこの先も障害を持ちながら生きていくことです。今も頑張ってねーとかバカとか耳元で聞こえます。もう遅いです。社会では誰も助けてはくれません・・あなたにも気持ち悪いとか思われながら。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • bouhan_kun
  • ベストアンサー率19% (1032/5208)
回答No.2

何もおきませんでした。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題について問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に非思考の庭が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。それは われわれのものでさえある。けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。そしてそこまでである 信仰をめぐる《超現実》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。到り得ない。   ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とは 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ☆ このように《個人にとっての・わがたましいの》問題である 信仰は。  その信仰から 瞑想を経て観想(テオーリア)を得て この観想から理論(テオリ=セオリ)を打ち出すとすると その命題が 組織宗教では教義とされる。教義は すでに信じるではなく 考えるの問題である。  人は人をころさないものだなぁという観想から 《汝 ころすなかれ》という教義をこしらえる。けれどもこの教えは 信仰の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。ところがこの個人の信仰は ついぞ 非思考なのであって 教義とは別物である。まして組織ないし集団の心をひとつにする手段にはなり得ない。その仮りの命題を持って来て その教義化によって信教と良心の自由を侵してはならないものである。  したがって  ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。  ☆ と言えたとしても 問題は すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》というその組織宗教じたいについての批判が先である。後光でないものを後光としている。信仰から来る後光だと仮りにしても 後光の源をすでに忘れており ないがしろにしている。なぜなら 組織会員一人ひとりの信仰を 集団の教義ないし規則に従うようにする動きを必然的にもたらすからである。  この逆立ちは 個人の信仰の自殺行為である。  個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物である。  仮りに信仰をも批判する人がいて  ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  ☆ というくだりを 次のように言いかえたとしよう。  ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  ☆ だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? まづこのように反論する。  つぎにもしたとえ《信仰は 幻想的幸福》でしかないとしたとしても 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ 話し合いをつうじて互いに幻想も現実に合ったものとして行ける。  信仰は 教義化をせずその観想――おしえのようなものになりうるが――を他人に押しつけない。語り合うまでである。そこで心から同意する内容があれば 自分で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。幻想的幸福は 練られて行くであろう。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく 信仰および自由意志を侵害する悪癖に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 新興宗教から完全に精神的に抜け出すには・・・

    新興宗教の批判をするわけではありません。 宗教を信仰するかしないかは、もちろん個人の自由です。 私は信仰できない。しかし、宗教の教義が私を精神的にがんじがらめにしているので、このような質問をさせていただきました。 教団名はエホバの証人です。(信者には人間性に富んでいる方もいらっしゃいます。批判のつもりではなく、回答の際に役立つと思ったので…。もし、問題があれば削除をお願いします。) 詳しくは↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4104566.html これらから抜け出し、社会に上手く適応するにはどのようにすればいいでしょうか?? 経験者などいらしましたら、アドバイスがほしいです。お願いします。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 宗教にお金を払うのは何故??

    宗教や神に対してお金を払う(寄付する)という行為について疑問があるので質問させてください。 よく宗教団体にお金を寄付する方がいらっしゃいますが、理由を聞いてみると 「お世話になった神様にお金を払ってお返しをする」 「教団ではなく神様にお金を払う」 と聞きましたが、何故神様にお金を寄付するのでしょうか。 食べ物を寄付する事や信仰を行う事はなんとなく理解できるのですが、 お金を寄付する事は理解できません。 なぜなら、そもそもお金とは人と人が物々交換を円滑にする為にできたものであるからです。 つまり、お金とは言ってしまえば紙切れもしくは硬貨です。 それに対して、物を交換できるというルールを決めた訳ですよね。 でもこれはあくまでも人と人の間で決めたルールであり、 他の動物や植物、神様に対してはこのルールは適応されないはずです。 神様が信者から受け取ったお金を使って市場で商品を買うことは普通に考えられませんし。 それで、 「結局、神様じゃなくて教団に寄付してるんでしょう?」と聞くと 「いやいや教団ではなく神様に寄付している」という回答が返ってきました。 これは一体どう捉えればよいのでしょうか。 信者がお金を寄付→教団が神様の代理に受け取る→神様の為に教団が使う というような間接的に神様に寄付していると捉えればよいでしょうか。 神様、宗教への布教活動や信仰にお金がかかるのはわかりますが、 結局は教団に寄付しているじゃないか、と思ってしまいます。 宗教(神様もしくは教団)に対してお金を払うことがどうしても理解できません。 どう理解すればよいかわからないのでご存知の方、回答をお願いします。 ちなみに私は宗教および信者の方を否定・軽蔑するつもりは全くありません。 私自身、熱心ではありませんが宗教に入ってますし。 宗教の考え方で良いなと思うものはあります。 (ただ、完全な無神論者ではありませんが有神論者でもありません) しかし、金銭を支払うことには理解できませんし、したくもありません。 神様に何かを捧げるのなら、人に優しくするとか、その考え方を大切にするとか祈る行為を行えばよいではないかと思っています。 また、どこの宗教に聞いたかは伏せさせてください。 長文になりましたが肯定的な意見、否定的な意見共に受けつけますのでよろしくお願いします。

  • 宗教は政治にどこまで関与出来るのか

      私は浄土真宗の門徒です。先日当宗主催の[ 平和のつどい( 副題全戦争犠牲者をしのんで )」という行事に参加しました。その時の講演で講師の方が、「 仏教徒(真宗門徒)として仏教的(真宗的)立場から政治的主張・行動をする 」ことは正しいという旨を述べられました。その方は当宗教学研究所に以前所属され、言わば真宗教学の現代のトップクラスです。   私は800年昔の親鸞聖人の時代のように、日本人だけのことで思いを巡らしている時代には、それでも済むと思いますが、現代のように キリスト教国、イスラム教国等、はては社会主義国(なのかどうか?) など基本的な価値観の違いが国内外(門徒内)に影響している現在、教団内に政治的主張を持ち込むべきでは無いと思います。   特に真宗は戦争に積極的に協力した過去の事実を深く反省しているため、戦前の国と教団の在り様を全否定しつつ、現代の政治の在り様も 悉く否定しています。   私は真宗の教えは一人のものと心得ています。同じ様に政治的意見も一人のものと思います。真宗の受けとめ方が一人一人違うように、政治的意見や立場も一人一人違って当然と思います。   出来るだけ冷静な文章にしようと勤めたため、大変抽象的な文章になってしまいました。皆さんのご意見をお聞きしたいと思っています。特に真宗門徒の方のご意見をお待ちしております。

  • 有神論者の方々は今日も無事に過ごせた事で感謝感激

    有神論者の方々は、今日も事件や事故や災害やトラブルなどに巻き込まれず、普通に生活出来て、それなりに美味しい物も食べられて、風呂にも入れて、無事に過ごせた事に、感謝感激雨霰でしょうか? 神や高級霊や守護霊や先祖霊や先人や社会を支えている人々や自然の恵みなどにも感謝でしょうか? 冤罪で投獄されまくられ人権蹂躙までされまくられ、最悪と思える滅茶苦茶な経験をしてきた私なら、何一つ良い出来事がなくたって、極端に悪い出来事が起きない限り、それだけで、うれしい限りですがね。

  • 今生で終わりとは?

    不思議な力を持つ人に、 「あなたは魂が古く、おそらく今生で終わりです」と言われました。 私はここ何年か悩んでおり、スピリチュアルな本を読んだりしていたので、魂の学びのために輪廻転生をするということは信じています。 ただ人が苦手というか社会オンチ?みたいな所があって(手探りで人とかかわっている感じ)、とても悩んでいたことがあるので、学びを始めたばかりの新しい魂なんだとばかり思っていました。(←この考え方も合っているのかどうかわかりません) なので今回の人生で学びが終了するとは思えないというか・・・ 具体的には「今生で終わり」な人ってなんなのでしょうか? 非常にあいまいな質問になってしまいましたが、この方面について詳しい方のご意見をいただければと思います。 よろしくおねがいします(__)

  • 宗教 と 宗教団体

    この違いは何だと思いますか。 (例) 大体正確なのは、宗教 (未知の世界故、大体と表現させて頂きました) 立場を勘違いしやすいのは、宗教団体

  • 宗教 と 宗教団体

    宗教について迷ったり悩んだとき、何を根本に考えるべきかを御教授ください。

専門家に質問してみよう