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満州事変について

自分は現在高校で近現代史を習っている者です。 最近満州事変のあたりを勉強していて、疑問に思ったことがあったのですが、学校の先生にはなかなか聞き辛いことですので、こちらで質問いたします。 元々自分は学校が教える歴史をほとんど信用していません。例えば秀吉の朝鮮出兵や、大東亜戦争についてなどです。学校では満州事変~日中戦争関東軍の暴走として教えられているのですが、今回も捏造された歴史なのではないかと疑っているのですが、ちょうどその部分を肯定?する物を読んだことがありません。関東事変は、学校で教えているように、軍部の暴走だったのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。

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  • ベストアンサー
  • sudacyu
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回答No.14

 No9です。  「捏造」という言葉を勘違いしていませんか?  高校の教科書に石原莞爾の「最終戦総論」の内容を載せないのは、単なる記述の省略です。捏造とはないことをあたかもあることのようにでっち上げることを言います。  極めて個性的で、歴史に興味のある人間にとって面白みがあるとは言いながら、「ある一個の人間の戦争観」のレベルの細かい記述を載せれば、高校の教科書の厚さは今の10倍以上に確実になってしまいます。  高校の歴史は、細かい枝葉の事項を見るより、その全体的な流れの把握をより重要視しています。  これから社会人となる不特定多数の人を対象にした教科書では、日本の歴史全体の流れを知ることを優先するのは、当然のことです。  石原莞爾は、講演会・著作物によって、自説についての資料を多く残しています。  その本人自身の語る資料によっても、満州事変・支那事変(今は使わない?)は、軍に対する政治システムによるコントロールが利いていないのは明白です。 「戦争とは武力を用いた外交であり、外交とは武力を用いない戦争である。」という台詞を残した有名な政治家がヨーロッパにいましたが、軍事・外交は、政治のコントロール下に置かれていないと、国益を守ることが出来ないどころか、大きく国益を損ないます。  戦前の日本の政治システムにおいては、日本軍は皇軍=天皇の軍隊として存在しており、内閣と軍(陸軍=参謀本部、海軍=海軍軍令部)は、天皇のもとで並立する立場でした。  明治時代においては、明治維新の重鎮(政治家だが、明治維新では軍指揮官としても活動。)が生存しており、内閣・軍双方に対して強い影響力を持っており、天皇を補佐する枢密院のメンバーとして内閣と軍をコントロールし、日本の政治力の根源となっていました。  昭和になると、この枢密院に軍・行政双方に強い力を持つ人物がいなくなり(政治体制が確立して年数がたったため、軍・行政いずれかの出身者となり、どちらにも強い発言力を持つ人物がいなくなったのです。)、軍事・行政を統括した視点で政治力を発揮出来なくなったのです。  そのような状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、極力事を構えない。」方針であった(=満州の軍閥、張学良の兵力は、日本軍の10倍あるといわれていた。)のに、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめた。参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となったわけです。  その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。  石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。 Wikipedia抜粋   1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷された。  日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしいが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。   これらの経緯を教科書では、あなたのいう「軍の暴走」という表現となっているのでしょう。  政治的経済的影響を無視して、軍事作戦として成功であればよいという認識を軍人が持ち行動するのであれば、「暴走」と言う表現はおかしくないと言えます。 <参考>  対外的軍事行動は、大きな政治的経済的影響を必ず与えます。ですから対外的軍事行動は、政治外交経済戦略と一体となっていないと、必ず国益を損ないます。  軍人が如何に卓越した戦略を考えとして持っていようと、政治戦略を実行することの出来ない軍人としての立場で行動する限りは、戦略は意味を持ちません。  政治家に戦略を同じくする実力者がいない場合は、対外的軍事行動を取った後、みずからクーデターを起こして政権を奪取して政治力も手に入れ、その戦略を政治家として実行することが、軍事行動に戦略的意味を持たせる唯一可能な方法です。

bouyatetu
質問者

お礼

詳しいご説明ありがとうございます。 結局、軍部の暴走で納得いたしました。 流れについて改めて理解できました。これでひっかかることなく勉強できます。 ありがとうございました。

その他の回答 (14)

  • Roman0
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回答No.4

 誤りの是正だけしておきます。  大日本帝国に置いて、天皇には何の権限もありません。  天皇の国事行為はすべて内閣の輔弼や承認を必要としており、天皇が恣意的に何かを判断することは法的には何の意味もないのです。大日本帝国憲法にもそれは明記してありますし、実際の運用もその通りでした。  それが立憲君主制度というもので、昭和天皇もそれをよくご存知でしたから、例えば陛下としては開戦に反対だったにもかかわらず日米開戦を認めたのです。

bouyatetu
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分も実はそう思っていたんです。天皇陛下は、下から上がってくる事柄を許可するだけでしたハズですよね?

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.3

戦争を始める権利は国家にあります。 大日本帝国でいうなら、戦争を始める権限を持っているのは天皇だけです。天皇の許可なく、現地軍が勝手に満州へ攻め込んだ以上、暴走と呼ぶのは正しい表現です。 もしも天皇の許可が出ていたのなら、後になってそれを隠す意味がどこにあるのでしょうか。天皇の開戦責任を隠したいのなら、太平洋戦争の開戦にあたり、御前会議で決定されたという事実も隠さなければ、まったく意味がないのでは? ということで満州事変における軍の暴走は、捏造でないと判断します。

bouyatetu
質問者

お礼

ありがとうございます。 軍部の暴走ということですね。ですが、自分は単に暴走として片付けられる問題ではないような気がしたので、ここで質問いたしました。

回答No.2

貴方は「通州事件」を御存知ですか? 確かに、昭和に入ってからの軍事行動は、軍部の暴走と称すべきものです。 しかし、その背景も知らねばなりません。 満州事変自体は、石原莞爾が満州占領を企図して始めたものであり、その成功が、若手将校の功名心を煽り、暴走の原動力となったことは否定できません。 ですが、その一因として、一般に「反日活動」と誤解されている活動があったことは否めません。 その過程の一部として「通州事件」が起きたのです。 「通州事件」は、非武装の軍人を含む日本人居留民が、一方的に虐殺された事件です。 その虐殺方法は、かの「抗日戦争記念館」等で「日本軍人が中国人民に行った残虐行為」そのものだったそうです。 「通州事件」を始めとしたテロ活動の激化が、軍部の行動を招いたのです。 そして、テロの目的は、日本の満州防衛体制を崩すことに有ったのです。 対日テロ活動の主体をなしたのは、主に共産党系の組織でした。 つまり、旧ソ連邦による対独政策の一環として、中国共産党を組織し、本来ソ連邦に備えていた関東軍をして、満州そして中国に意識を向けさせることに成功したのです。 明治から昭和にかけての時代に、ロシア帝国が清の領土を奪い、満州進出を果たしつつあったため、日本がイギリスと連携しつつその侵略を阻んだことは歴史的事実です。 日本があの時期、大陸に進出していなければ、現在の東アジアの地図は大きく変わっていたでしょう。 欧州の歴史を見れば推測できます。

bouyatetu
質問者

お礼

ありがとうございます。 通州事件は知ってはいましたが、詳しい内容まではわかりませんでした。 軍部の暴走の背景としては、そういったことがあったんですね。これは絶対学校で習わないことですよね。 ソ連の話も参考になりました。 ありがとうございました。

  • new_hope
  • ベストアンサー率49% (513/1032)
回答No.1

今からその時の真実を知るのはほぼ不可能だと思います。そのあたりになると、もう歴史は真実を勉強すると言うよりも理念を勉強するのが限界です。僕は100%でっちあげだという意見も信じられませんし、かといって教科書も信じられません。なにかひとつの説が出てきても、論破し、論破され、いつまでも決着がつきませんよね。歴史は真実があるのだと思っていましたが、立場によって真実は違うのだと諦めています。 どの意見を採用して信じていくかというのは、もう自分で決めるしかないようです。 きっとここでも、軍部の暴走だったという意見もあるでしょうし、いやでっちあげだという意見もあるでしょう。資料や証拠があってもそういうもの自体も捏造されたりしてるわけですから、最後は信じたいほうを信じる以外にないでしょうね。 大東亜戦争に関してだけではなく、キリスト教の天地創造のあたりに関してもそうですね。

bouyatetu
質問者

お礼

貴重なご意見ありがとうございます。 自分も全く同じように思います。皆様から頂いた情報を基に自分なりの結論を出そうと思います。 ありがとうございました。

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