• ベストアンサー

満州事変の動きについて

1931年9月 柳条湖事件(満州事変のはじまり) 1932年3月 満州国建国宣言 1935年   塘沽停戦協定(満州事変終了) (1)満州事変が始まってから終了まで、関東軍はどのよ うな動きで東三省・興安・熱河省を占領していった のか (2)政府は柳条湖事件のときには、不拡大方針をだして いたはずですが、どうして、日満議定書(1932年) などを交わして満州国を承認するような方向にいっ てしまったのか (3)多少の歴史知識はあります。満州事変のあたりの中 国の情勢がわかる本を教えてください。 以上、このあたりの経過を知りたいです。多少マニアックな説明の方が助かるのですが、どなたか詳しい方、教えていただきたいです。よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Bird1979
  • ベストアンサー率48% (114/236)
回答No.3

(2)についてですが、政府とはいっても民政党内閣、政友会内閣とでは外交政策が異なります。また軍部の圧力もありました。 一般的に、 民政党内閣・・米英との協調外交(軍部や政友会は「消極外交」として批判的) 政友会内閣・・強硬外交、中国への積極的進出政策 ですが、 ○柳条湖事件(1931.9) 若槻礼次郎内閣(民政党)軍部を抑えきれずに総辞職 ○満州国建国(1932.3) 犬養毅内閣(政友会)犬養自身は、米英との関係悪化を恐れて、満州国承認には消極的。五・一五事件で暗殺される。 ○日満議定書(1932.9) 斎藤実(マコト)内閣(前朝鮮総督 海軍大将) 穏健派、軍人・官僚に牛耳られる。 一言に政府といっても、民政党と政友会では(同じ保守政党ではあれ)外交政策は正反対でした。日満議定書締結は、軍出身の斎藤実内閣ですから、軍の要求を追認した、というところでしょう。

その他の回答 (2)

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

戦争の推移を簡単に記すと 1931年9月 柳条湖事件(満州事変のはじまり) すぐに関東軍は主力を法典付近に集中して法典にいた張学良軍を法典から駆逐します。 このとき朝鮮軍からも中央の許可を得ずに関東軍のに増援部隊を送り、長春から吉林の鉄道とその周辺の中国軍を攻撃し駆逐します。(9月) その後、ハルピン進出は中央部からの強い指示でいったんは断念しますが、11月にはチチハルまで進出しました。 一方遼西方面は12月には錦州を占領してほぼ東三省を制圧して満州国を建国します。 熱河省の制圧は1933年になります。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

1.戦闘の推移については戦史関係の本を見ることをお勧めします。 2.については関東軍が中央の意向を無視して暴走し、中央もそれを押さえ込むだけの意思も見識もなく既成事実を追認していったということです。 3についてはこういう本はどうでしょうか。 「満州帝国」 児島襄

関連するQ&A

  • 満州事変に関する重大疑問B

    昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われます。しかし戦後の東京裁判では、板垣征四郎は満州事変の首謀者として起訴されて死刑になりましたが、同じ首謀者の石原莞爾が起訴されませんでした。なぜでしょうか。病気だったからですか。

  • 満州事変の被害

    はじめまして。 今、興味本位で満州事変前後の出来事を調べているのですが、そもそも満州事変の被害がよくわかりません。 ことの発端となった(柳条湖事件)は、日本軍が南満州鉄道を爆破し、そこから満州事変がはじまったということはわかったのですが、爆破はごく小規模な日本軍の自作自演だったとありました。 一通り調べてはみたのですが、どんなことがあったのか、ということは書いてあっても、実際の被害はよくわかりませんでした。 また、日本側の意見しか見つからなかったのですが、中国側からはどのように感じていたのでしょうか。 学校で習えなかったので、初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いします。

  • 満州事変に関する重大疑問A

    昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われますが、関東軍の最高責任者だった本庄繁総司令官は、この計画について、事前に承認を与えたのでしょうか。それとも、何も知らなかったのでしょうか。

  • 満州事変が命令違反

    満州事変が命令違反というのは、バカバカしい寝言ではないですかね? 〉そして、通説及び個人的な認識においても、そのような事実=命令は存在しません。 と言われてもねぇ。 満州には日本軍は一万しかいなかったんですよ。 三十万の張軍は、日本軍が大軍を配備した、と、勘違いしたから、戦わずして退却しました。しかし、関東軍は一万しかいないとバレてしまえば、総攻撃をかけるに決まってる。そうなれば、関東軍は全滅です。 日本軍にとって援軍は絶対必要でした。 わかりやすい日中戦争 三野正洋 光人社 260ページ 柳条湖事件は突発的に起こったものではなく、日本の陸軍の石原完爾、板垣征四郎らによって半年以上前から計画されていたと思われる。また、日本政府の一部閣僚も薄々これに気付いていながら、明確に阻止する手段をとらなかった。 板垣さんは関東軍のトップで、日本にはいません。なぜ、満州で極秘で進めている計画を日本にいる大臣が薄々気付く事ができるのでしょうか? 答えは、明らかでしょう。 関東軍の板垣征四郎から、参謀本部は柳条湖事件を起こすことを報告を受け、克つ、援軍を出す約束をしていた。だから、石原完爾、板垣征四郎らは、満州事変に関して、綿密な計画が立てられたんです。いつ、どのタイミングで、どれくらいの援軍がくるか分かっていなければ、計画が立てようがない。 参謀本部が事前に柳条湖事件を事前に知っており、援軍を約束していた。 これは、疑問の余地がないと思いますが? 張作霖爆殺事件の事後処理で田中義一内閣が総辞職に追い込まれたのは、野党の追及のため、という人は誰一人いないでしょう。田中総理を辞任に追い込んだのは、昭和天皇であることは疑いようのない事実ではないですか? 「自作自演で柳条湖事件を起こしますから承認して下さい」とか、「政府には無断で、満州国を建国しますから承認して下さい」とか、参謀本部が昭和天皇に対していえるんですか?いえるわきゃないでしょう。 参謀本部は「我々は必死でとめたんですが、関東軍が独断で」と、昭和天皇に報告する必要があった。 参謀本部は10月21日に関東軍の独走を抑えるための特使を派遣したり、11月2日に独走を戒める訓令を出す、という表の顔とは別に、裏では満州国建国のための後方支援を完璧に行っていた。 あなたは、あくまで、参謀本部に裏の顔なんてない。 参謀本部は正直者の集まりだ。 参謀本部は柳条湖事件が起きるのを知らなかった、と、主張できるんですか? 歴史を学べば、真実は明々白々だと思いますが

  • 満州事変 どちらの記載が本当なのでしょうか?

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF 満州事変 張学良 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満 邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と 集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと 言う。満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受ける と日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判 断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴び るなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取 材で述べている。 とあります。また・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37350760.html 満州事変は関東軍の暴走ではない。関東軍は、満鉄の守備など日本の権益 を守る警察の任務を担っていた。 1万人の警察(関東軍)が、日本権益を侵 害していた30万人の武装盗賊(張学良軍)を追放するには、柳条湖事件の ような作戦が必要だった。したがって、日本政府は、事後であっても、関 東軍の警察行動を承認した。決して関東軍の暴走ではない。次に、満州の 武装盗賊を追放したのは関東軍(警察)だが、満州国を建国したのは日本 ではなく溥儀をはじめとする満州人たちだった。 とあります。がどちらが本当なのでしょうか? 武装盗賊が左派勢力なのかどうか分かりませんが、彼らは ただの「小競り合い」をしていたのでは・・・?? 軍隊を越境させたわけではないのでは・・・? 私は、満州事変は、侵略とはまでは言えないと思っています。 パリ不戦条約は事実上法的有効性が薄いと思うし、主権国家への 攻撃ではないので・・・ けど、林銑十郎越境将軍の独断による軍の国境越えは やはり、暴走とまではいかなくても、 とがめられてしかるべきで軍の独断による越境であり、 自衛でもないと思うのですが・・・ また、満州国を建国したのは溥儀等であっても そのような傀儡政権を創らせたのは、日本人なのではないか? 当時の戦略からして現地人に国を創らせた方が、上手に侵入できることは 当然であっただろうから・・

  • 満州事変は侵略ではありませんよね?

    満州事変は侵略ではありませんよね? 1911辛亥革命 これ以降、一国多政府の時代に突入、天下大乱の時代が始まる。 1915年 二一箇条要求 日本が清と結んだ条約を、清が消滅したので中華民国と正式に締結し直す必要があった。 中華民国は旧清朝の領域の継承を主張したが、各地に軍閥が跋扈し治安維持能力がなかった。 1919年3月 コミンテルン結成、直後に北京で五・四運動 それまでの中国の伝統や歴史を一切否定する西洋化運動、そして排日運動 四年たってから二一箇条要求がやり玉に挙げられる。 1922年 九カ国条約締結 日本だけが違反したのではない。 蒋介石は1927年米英と紛争を起こしているし、張学良は1929年ソ連と紛争を起こした。 要するにそもそも中国側が違反していた。 1928年 六三カ国で不戦条約締結 米英が重要な点において留保を行うなど実質的に空文となった。日本は自衛戦争については留保していた。 1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変の発端) 中華民国が満州事変を日本の連盟規約違反として国際連盟に訴えたが、国際連盟は日本を侵略国と認定していない。 張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、 海外資本の提供をうけて、満鉄の平行線を建設し始めると、両者の関係は悪化しました。 当時中国は日本との条約を次々と破り、無知な住民を煽って暴力的なボイコット運動を起こさせ、 商鉱農工業妨害、日本国民の命に関わる圧迫行為、反日教科書などの侮日行為、 居留民襲撃や鉄道運行妨害など数百件のテロ行為を重ねていました。 満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在しました。 日露戦争で日本がロシアに勝たなければ満蒙はロシア領になっていたはずです。 中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに 日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を 「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れられません。 それに満州は万里の長城の外であって満州族の土地です。 もともと、満州に合法的に駐留していた関東軍はそれを守ろうとしただけです。 中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかったのです。 こういった事情から関東軍は権益を自衛するためには満州全土から匪賊同然の奉天軍を追い出す必要があると判断しました。 これは侵略に当たりません。 外国人への犯罪が放置され責任を持って対処する政府が存在しない。 これは国際法的には「無主の地」です。 責任を果たさないのに権利・主権など主張できない、という慣習国際法である。 こうしたなかで不法行為を黙って許容しているとそれを認めたことになります。 ラストエンペラー溥儀の英国人家庭教師であったジョンストンはリットン報告書の ”満州独立運動が日本による教唆によって発生した架空の民族運動であった” という点を全くの事実誤認であるとして批判しています。 溥儀の忠臣たちは満州族による帝政復古運動を展開していた。 満州事変は日本がこれらにさんざん隠忍自重した末に起きた事件です。 満洲事変は侵略ではなく自営のための軍事行動であったのです。 戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。 年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。 毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。 実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。 豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は 「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。 満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。 参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満 歴史にお詳しい方、私が調べた上記の記述でどこかおかしいところはありますか? よろしくお願いします。

  • 今日って中国で?

    柳条湖事件があった日なんですか? だから中国が騒いでいるんですか? また満州事変みたいなことが起きるのかしら?

  • 軍部の暴走を止められなかった理由

    戦前の軍部はなぜ暴走したのですか? 張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか? そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか? 柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

  • 満州事変以後の大陸への介入は正しかったでしょうか

    満州事変以後、日本は在留邦人の保護を名目に辛亥革命以来混乱していた華北へ侵攻しました。そのやり方は大陸が余りに広いものだから都市と鉄道の確保に終止しました。そして傀儡政権を立てて日本がとりあえず確保した地域を統治しようとしましたが、その辺りで必要な師団、弾薬の補給という巨額な出費に対してどういう利益をえられるだろうと当時の陸軍に引きずられていた政府は考えていたのでしょう?当時はその地域はどんな産業があったわけでもないのに何故無理して戦い続けたのでしょうか? イギリスが香港、シンガポールを押さえて貿易の拠点にしたのは分かるのですが、ただ広い土地を取るために十何年も戦ったのはどうもよく分かりません。

  • 柳条溝事件と蘆溝橋事件

    日中関係史において、いずれも重要な事件である、柳条湖事件(1931年9月18日。九一八事変)と盧溝橋事件(1937年7月7日。七七事変)ですが、確か、30年前くらいは、それぞれ、柳条溝事件と蘆溝橋事件と呼ばれていたように記憶しています。これに関連して、以下の点をお教え下さい。 1)いつごろ、呼び方が、柳条溝事件と蘆溝橋事件から、柳条湖事件と盧溝橋事件に変わったのでしょうか? いずれも1980年代という理解で、正しいでしょうか? 2)この現象は、中国(大陸および台湾)でも、同じなのでしょうか? もちろん、上記の通り、この事件の呼び方自体が中国では異なりますので、「事件名」ではなく、「地名」についてお教え下さい。それとも、日本だけで起きたことなのでしょうか? 3)上記第2点とも関係しますが、このような間違いは、なぜ生じたのでしょうか? 4)このような間違いが、事件発生後、かなりの長期間(半世紀?)放置されていたのは、なぜですか? 重要な事件だけに、その理由がなかなか想像できません。 5)このような事態については、どこかできちんと整理されているのでしょうか(経緯・顛末など)? まとめた文献(Web上または書籍)があれば、お教え下さい。 特に興味があるのは、第4点です。以上、よろしくお願いします。